FWC が、EIC と深く関わりのある組織であったことは言うまでもない。FWCの開 講科目や規模等に関する決定権がEICの取締役会にあったことから、EIC はFWCに 対して強い影響力を持っていた。ここでは、FWC設立の背景を探るために、EICの組織 やイギリス政府との関係、また会社によるインド統治等についていくらか詳しく述べることとする。
3-2-1 イギリス東インド会社の設立
EIC が設立される以前に、ロンドンの商人達は東洋の物産を集めるためにレヴァント会社 (Levant Company)を作り、東地中海の仲買人からスパイス、絹、その他の贅沢品を買い付 けていた。しかし、オランダが喜望峰経由でアジアから直接輸入を行ない始めると、レヴァント 会社は競争力を失っていった。そこでレヴァント会社の株主達は、自分達の手でアジアの諸 地域と直接貿易を行うことができる新たな会社を作ることに決めた。この組織は 1600 年にイ
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ギリス女王エリザベス1世3の承認によって、貿易の独占権を認められた4〔ガードナー 1989, pp.5-9〕。
よく知られた事実であるが、イギリス商人達は、植民地支配を目的にEICを設立した訳では なかった。EIC は、当初はあくまで国から特許を与えられ交易を許された 1 つの貿易会社に 過ぎなかった。商業を目的として東南アジアへの進出をもくろんでいた EIC であるが、その後、
アンボイナ事件5を機にインド進出へと方向転換することとなった。EIC は、他国との植民地獲 得競争の末、結果的にインド統治に関わるようになったという経緯を持つ。
3-2-2 イギリス東インド会社の組織的変遷
EIC に関する歴史は、巻末の付録年表に示している通りであるが、EIC がインド統治権を 獲得するまでの経緯について、ここで少し詳しく振り返ってみることとする。
EIC は特許貿易会社として1600 年に成立したが、株式会社になったのは 1657 年のこと であった。羽田によると、EIC の前身は上に述べたレヴァント会社であったが、当時はまだ株 式会社という仕組みは存在しなかった。会社は形式的には継続して存在したが、資金は 1 回 の航海ごとに集め、航海が終わると、出資率に従って元本と利益が一旦出資者に戻された〔羽 田 2007, p.79〕。EICは1698年に、一度2つの会社へと分裂したが、その後1702年に再 び合併している〔中里 1998, p.229〕。EICは、特許制の会社組織であったが、その後の数回 に及ぶ特許更新を経るにつれて、貿易に関する権限は縮小され、ついには廃止されることと なった。
EIC も他のヨーロッパ諸国と同様に、インドの地元領主達からインドで貿易を行なう許可を 得るために苦心した。1612 年には、紅海入り口のバーブル・マンダブ(Bab el Mandeb)海峡 封鎖という強硬手段を行い、翌年にはスーラト6にイギリス商館を開いた〔中里 1998, p231〕。
しかし、EICは 1639年に、武力行使等によってではなく地元領主の招きによって、マドラスを
3 Queen Elizabeth Ⅰ(1533-1603)。イギリステューダー朝の最後の国王(在位1558-1603)。ヘンリー8世 の子。59年の統一令によって、国教会を確立した。また、1563年の包括的な労働立法である徒弟条例、
救貧法、再三の通貨改革などで、長期に及ぶ不況を乗り切った〔京大西洋史辞典編纂会 1993, pp.128-129〕。
4 当時のイギリスではユリウス暦が使用されていたため、貿易独占権を認められたとされる1600年12月 31日は、現在の暦であるグレゴリウス暦では1601年1月10日にあたる〔羽田 2007, p.80〕。
5 1623年、オランダ人がモルッカ諸島のアンボイナで香料貿易に従事していたイギリス人を虐殺した事
件。
6 インド西部、現グジャラート州南東部の市。インドにおけるイギリスの最初の拠点であった。シャミー ウッラーによれば、EICはムガル帝国からこの地に商館を建てる許可を得た〔Samīʿullāh 1989, p.1〕。
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新たな拠点に定めることができた。会社は一定の土地を貸し与えられ、要塞をそこに築くことを 許可された。また、マドラスでの貿易について関税が免除され、EIC 以外の商人が貿易を行う ときにかかる関税収入の半額が、EICに与えられた〔羽田 2007, pp.96-97〕。
当時のインドにおける地方諸勢力と EIC の関係については、以下のように簡潔にまとめら れる。まず、ムガル帝国から派遣された有力者達が、デリーから地方へと移って地方を統治す る。次に、そうした各統治者達は独立的傾向を強めていき、やがては後継者を巡る争いを起こ す。そこへEICが介入し、地方を支配する権利を獲得していく。
しかし、EIC は、次第にフランス東インド会社と勢力争いを行うようになる。その発端は、ヨー ロッパで起こった戦争にあった。
1740年にヨーロッパでオーストリア継承戦争が勃発し、イギリスはオーストリア、フランスはプ ロイセンに味方した。このため、イギリスとフランスは戦うことになった。当時はまだ「国民皆兵」
の原則はなく、会社の軍隊は国王の軍隊ではなかったので必ず戦わなければならない訳では なかった。しかし本国同士の戦争をきっかけに、2つの会社の貿易主導権争いに火がつき、双 方が対立する現地の政治勢力と協力関係を結んでいたために問題が複雑化した。EIC とフラ ンス東インド会社の軍は、南インドでも衝突した。1746年にラ=ブルドネ(La Bourdonnais)率 いるフランス東インド会社軍が EIC の拠点マドラスを陥落させるが、1748 年にオーストリア継 承戦争が終わると、マドラスは EIC に返還された。しかし、現地の政治勢力間の対立は激化 し、彼らが両会社に援軍を求めたために、2つの会社の戦争状態は1761年まで続いた〔羽田 2007, pp.296-298〕。
政治的権力を帯び始めた EIC であったが、財政面では苦しい状況に陥っていた。EIC が 破産の危機に瀕した時期については、浜渦は『大英帝国インド総督列伝』の中でノース首相 在職時〔浜渦 1999, p.23〕、ガードナーは1772年〔ガードナー 1989, p.129〕と述べている。
浜渦が『大英帝国インド総督列伝』よりも後に著した『イギリス東インド会社』によると、1772 年 12月29日には、イギリス議会が会社の配当を6%に引き下げるという会社救済法案を通過さ せている〔浜渦 2009, p.70〕。西村は、EICが財政難に陥った経緯について詳述している。そ れによると、EIC は、例年 3 月と 9 月にロンドンで東インドからの商品を売り出していた。3 月 の販売売上が支払われるまでにイングランド銀行から20万~40 万ポンドを借入れ、9月まで に支払うのが通例であった。また、9月の売り出しが済むと、また 10 月に同額を借入れ、翌年 3 月までに支払った。1772 年の春にも同様に30 万ポンド(5 月 1 日現在)を借入れたが、6 月にスコットランドの銀行業者が破産したことによって銀行への信用が滞り、会社は支払いをイ
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ングランド銀行から要請された。売上代金がなかなか回収できず、8 月には 32 万ポンドの負 債や 20 万ポンド以上の関税未払いが残った。このため、会社は配当を延期して政府に借入 金を要求しなければならなくなった。こうした会社の窮状は一時的な金融事情の悪化だけで起 こったものではなく、40 万ポンドの政府上納金の他にインドからの収入を過大に見積ったこと による配当金の過払い、インドにおける軍隊その他の管理費用の増大、さらにベンガルでの 産業不振や飢饉等の原因によるものであったとも言われる。その上、会社の課した制限以上 に本国への送金7が行なわれたことも原因の一つとなった。例えばアメリカへの輸出品である 茶が売れなくなっことから会社に滞貨が累積し始めていた1771年の時点で、会社はその後3 年間のうちに 157 万ポンド以上の為替手形を支払う義務を負っていた〔西村 1960,
pp.198-199〕。規制法8の制定と共に EIC への融資も決定されたが、その金額については諸説あり、
浜渦は『大英帝国インド総督列伝』の中で200万ポンド〔浜渦 1999, p.23〕、『イギリス東インド 会社』の中では150万ポンド〔浜渦 2009, p.70〕と述べている。また、羽田は、140万ポンドと 述べている〔羽田 2007, p.317〕。一方、ガードナーは、150万ポンドであったとしている〔ガー ドナー 1989, p.130〕。
しかし、規制法制定にもかかわらず、EIC は 1784 年に再び財政破綻に直面した。また、
EIC の社員の中には、ネイボッブ9となる者が多く現れた。こうしたことから、EIC による統治が 疑問視され、会社は政府の管理を受け入れざるを得なくなった〔羽田 2007, pp.322-323〕。こ
7 文脈から、EICが輸出品を買い入れるために支払った代金のことだと考えられる。
8 会社の信用危機を受けてインド行政に最初に課した、会社の運営やインド統治に関する規制。(1)株主の投票資 格を株式500ポンドから1,000ポンドに引き上げる(1,000ポンド1票、3,000ポンド2票、6,000ポンド3票、
10,000ポンド以上4票)、(2)会社役員の任期を4年に延長し毎年の改選数を6人とする、(3)ベンガル知事を格 上げしインド全体の監督権を付与する、(4)政府による4人の枢密院構成員の任命、(5)高等裁判所の設置、を骨 子としたもの[浜渦 1999, p.27]。1773年6月15日制定[浜渦 2009, p.211]。
9 ネイボッブ(Nabob)という言葉は、2通りの意味で使用されている。1つは太守(Nawab)の汚職や代理人
(a corruption and representative of Nawab)という意味、もう1つは18世紀にクライヴがイギリスに 広めた、インドに居住し東洋から富を持ち帰ったイギリス人に対する蔑称としての意味である
〔A.C.Burnell, Henry Yule 1986, p.610〕。プラッシーの戦いの際に、シラージュ・ウッダウラの宮廷か らクライヴの側に寝返ったミール・ジャファルは、多額の補償金を支払った。これを契機として、インド 各地の地方政府や太守が、EICの社員や会社軍司令官に巨額の贈与金を提供し、自らの政治的地位の維持 を図った。プラッシーの戦いによって会社がベンガル領有を開始したことを機に、現地の太守と親密にな ったEICの社員や司令官が、急に巨額の富を集めるようになった。ネイボッブとは、このようにして得 た巨額の金をイギリス本国に持ち帰った人々のことを指す。1760年代から70年代にかけて活躍した人達 が主であり、金銭欲やファッション追求欲、社会的権利欲が強いが教養や作法を身に付けていない者とし て、イギリス国内で批判の対象とされた。批判は、ヘースティングズへの弾劾裁判が終了した1795年頃 まで続いた〔浅田 2001, pp.114-256〕。