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これまでにも述べた通り、FWCのインド人ムンシーは、イギリス人教員の下で著作 活動を行った。ここでは、そうしたムンシーのうち、カリー・ボーリー、ブラジ・バー シャー、サンスクリット語の知識を持っていたムンシーについて説明する。

まず初めに、ラッルーラールについて述べる。彼は、ギルクリストの要望によって、

1802年2月19日に131FWCへ招く必要があると認められ〔Das 1978, pp.18-19〕、FWC

131 1800年とする見解〔McGregor 1974, p.66〕や、18018月からヒンディー・ムンシーとして働き 始め、1802219日に正式に評議員会から雇用されたとする見解〔Samīʿullāh 1989, p.48〕も存在 する。

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において翻訳を行った。主な作品は、『プレームサーガル』(Premsāgar, 1803)132、『ス ィンハーサン・バッティースィー』(Simhasan battīsī, 1805)133、『バイタール・パッチ ースィー』(Baitāl paccīsī,1805)134、『シャクンタラー』(Śakuntalā,1803)、『ラージニ ーティ』(Rājnīti,1809)135等である〔MuGregor 1974, pp.66-67〕。特に『プレームサ ーガル』に関しては、「カリー・ボーリーにブラジ・バーシャーが混ざった文体で書か れている」との指摘がなされている。その理由としては、原文がブラジ・バーシャー韻 文で書かれていたことや、ラッルーラールの母語がブラジ・バーシャーであったことが 挙げられている[Vrajaratnadāsa 1953, pp.3-4]。

ラッルーラールが自ら記した、以下のような記述がある。

「ある日サーヒブ(ギルクリスト:筆者注)は、『ブラジ・バーシャーの物語を、レーク ターの方言で述べなさい』と言った。私は、『承知しました。しかしそのためには、ペ ルシア文字を書くことの出来る人を連れてきてください。そうすれば上手く書けるでし ょう。』と言った。ギルクリストは、2人の詩人、マジハル・アリー・カーン・ヴィラー とカージム・アリー・ジャワーンを任命した。1年の間に『スィンハーサン・バッティ ースィー』、『バイタール・パッチースィー』、『シャクンタラー』、『マードーナル』

(Mādhonal, 1803)の 4 作品をブラジ・バーシャーからカリー・ボーリーに翻訳した。

136」〔Vārṣṇeya 1947, pp.48-49〕。

132 ギルクリストが出版したのは全体の約半分の箇所であったが、ラッルーラールは、政府の許可を得な いまま全ての箇所を印刷した。その後政府が軍官学生の試験で『プレームサーガル』を使用することを望 んだため、ターリニーチャラン・ミトラはこの著作の新しい版を出版することを提案した。彼は、この著 作に、単語の一覧表を英訳と共に添付した。この版を学習で使用する際には、他の辞書を全く必要としな かった。その後もこの著作は、再版が繰り返された。1841720日付でFWC長官マーシャルはベン ガル政府長官ブシュバーイー(Bushbhai)に手紙を書き、サンスクリット・カレッジのパンディトであった ヨーグダヤーン・ミシュラが『プレームサーガル』の再版を希望していることを伝えた。彼は、1部当た 260ページとなる見込みで、16ルピーで200部出版したいと希望していた。同年728日にベン ガル政府は許可を出した。185111月にも、『プレームサーガル』は16ルピーで20部購入されて いる〔Vārṣṇeya 1947, pp.102-153〕

133 1805520日に、評議員会は同月13日付のハンターからの手紙を受けて、この著作を1部当た 16ルピーで100部購入することを決定した〔Vārṣṇeya 1947, p.74〕

134 1805927日付で、モーアトは評議員会長官宛に手紙を書き、この著作をFWCの教科書にした いと申し出た。翌180616日の会合で、評議員会はこの著作100部を1,200ルピーで購入すると決 定した。18511117日には、マーシャルの手紙を受けて、政府長官グラント(J.P.Grant)は、この著 作の再版を許可した〔Vārṣṇeya 1947, pp.74-152〕

135 1826911日にプライスは評議員会長官ラデルの元へ手紙を送り、『ラージニーティ』を1 2.5ルピーで100部購入して欲しいと要請した。その後ベンガル政府は許可を下した〔Vārṣṇeya 1947, p.143〕

136 『スィンハーサン・バッティースィー』の36ページはハルカーラー印刷所から出版された。1802 329日に評議員会は、この著作を500部印刷するために1,000ルピーを出費した。同年524日に は、評議員会が『バイタール・パッチースィー』の印刷費500ルピーを支払っている。『シャクンタラ ー・ナータク』の24ページは、カルカッタ印刷所から出版された〔Vārṣṇeya 1947, pp.49-51〕

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先述のヴィラーは、1800年11月にFWCに雇われたが、1802年8月30日に、FWC に必要ないとの評議員会の判断により1度解雇が決定された。翌月30日には、給与も 打ち切られた。しかし、その翌月の10月4日には、この決定は取り消された〔Siddiqi

1979, pp.138-139〕。同様に、FWCにおいて多くの翻訳活動に従事したにもかかわらず、

ラッルーラールと後で取り上げるサダル・ミシュラも、一時期 FWC を解雇された。

1804年5月9日にモーアトが評議員会長官ロスマンに、ヒンドゥスターニー語科のバ ーカー・ムンシーは不要であるとの内容の手紙を送った。同年6月11日の評議員会の 会合でこの手紙について検討された結果、ラッルーラールはサダル・ミシュラと共に FWCを解雇されると決定し、同年7月1日から給料の支給も停止された。しかし、ブ ラジ・バーシャーの知識の FWC における必要性が高まってきたため137、ブキャナン、

ハリントン、コールブルックが同席の中、評議員会は、同年10月17日の会合で、ラッ ルーラールとサダル・ミシュラの2人を再雇用すると決定した。解雇されていなければ 支給されるはずであった給料も、支給されることが決定した〔Vārṣṇeya 1947, p.65〕。

FWCにおいて多くの業績をあげたラッルーラールが解雇されたという事実は、取締 役会からのFWC縮小命令がかなり厳しいものであったことを示している。

ギルクリストがFWCを去った後も、ラッルーラールは精力的に著作活動に携わって いた。彼は以下に述べるような著作活動を行った。

1810年1月24日にテイラーが評議員会長官のハンターに手紙を送ったのを受けて、

同月26日に政府は、ラッルーラールの著作『ナクリヤート・イ・ヒンディー』とブラ ジ・バーシャーの文法書を100部ずつ購入することを決定した。その費用は、合計1,462 ルピー8アンナに上った。前者は、多くの諺や慣用語句を含むヒンドゥスターニー語と ヒンドゥイー語の物語集であり、これにテイラーとロケットは、難解な語彙のリストを 付け加えた。1部当たり9 ルピー12 アンナで、8 折判300ページで構成された。後者 はブラジ・バーシャーの文法書で、英語で簡潔な説明が載せられた。1部当たり4ルピ ー14アンナで、4折判75ページで構成された。また、同年2月10日にハンターが評 議員会のハリントンらに書いた手紙によると、ハンターは、ラッルーラールとターリニ ーチャラン・ミトラの助けを借りて、『ヒンドゥスターニー語辞書』を著した〔Vārṣṇeya 1947, pp.99-101〕。

137 先述の通り、インド人兵士の多くがブラジ・バーシャーを使用していたことから、FWCでもブラ ジ・バーシャーが重要視されたのではないかと考えられる。

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ラッルーラールは、ブラジ・バーシャーで『サバー・ヴィラース』(Sabhā vilās)も編 纂している。1815年1月16日に当時評議員会長官であったローバックは、ブラジ・バ ーシャー教授代理のプライスにこの著作の出版を通知し、賛同を求めた。同月 1月26 日にベンガル政府は、出版許可を下した。ローバックは、同年2月10日に250ルピー の請求書をベンガル政府へ送り、同月 14 日に許可を得た〔Vārṣṇeya 1947, pp.106-107〕。

ラッルーラールは、恐らく1824年5月1日までに死去した。彼が年金を受け取って いたという記述は存在しない。彼の後任には、1823 年9 月23 日にプライスが推薦し たのを受けて、サンスクリット語とヒンディー語の試験に合格したガンガープラサー ド・シュクルが任命された。シュクルは、月50ルピーの給与で、「バーカー」ムンシー として働いた。彼は、1826年7月に療養のためインド北部(Upper Provinces、のちの UP州)へ向かったが、数か月後にムルシダバードで死去している。その後、1827年1 月15日に、評議員会は、キャーリーラームをヒンドゥスターニー語科の「バーカー」・ ムンシーの後任に任命した。1829年にキャーリーラームが辞職すると、同年9月から ヒンディー語ムンシーの職に空きが出た。その後、1832年1月1日に、ブラフマ・サ ッチダーナンドが後任として任命された。彼は、サンスクリット語とヒンディー語に長 け、これらの言語の教育を行うと共に、これらの言語で書かれた写本の校正をする役割 も担った〔Vārṣṇeya 1947, pp.97-140〕。

サダル・ミシュラは、1804年から1809年にかけての期間に、FWCに在職していた 人物である〔Sharmā 1960, p.8〕。彼は、FWCにおいて、『ナースィケートーパーキヤ ーン』(1803 年までに完成)をサンスクリット語からカリー・ボーリーへと翻訳した

〔McGregor 1974, p.68〕。また、彼は、『ラーマーヤナ』の翻訳も行った。評議員会は、

1805年11月18日の会合で、サンスクリット語の『ラーマーヤナ』を印刷するために、

サダル・ミシュラに26ルピー8アンナを支給した。その後、1806年5月17日の評議 員会の会合で、この作品をサンスクリット語からカリー・ボーリーに翻訳するために、

彼に300ルピー支給することが決定された。また、彼は、ヒンディー語とペルシア語の 単語一覧を翻訳し、1809年5月27日の評議員会会合で、50ルピーの支給が決定され た〔Vārṣṇeya 1947, pp.75-99〕。1810年には、トゥルシーダースの『ラームチャリト マーナス』を改訂・印刷した〔Sharmā 1960, p.8〕。

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