本節では、まず設立当初に運営に関する決定がなされていった過程について言及した上 で、FWC の各内部組織の詳細について取り上げる。先行研究ではイギリス人官吏にインド諸 語を習得させるための語学学校として扱われることが多いFWCであるが、実際には「カレッジ」
と呼ぶにふさわしく入念に組織され、言語教育の他に、多様なカリキュラムを備えた教育組織 であったのだということを、本節では明らかにする。
4-1-1 設立当初の FWC 関連史
FWC の基本構想を巡るウェルズリーと取締役会との理解の齟齬については、若干の説明 が必要である。筆者が入手したイギリス議会文書(P.P.) やインド省資料(IOR/H)等の一次資 料に基づき、以下に整理してみる。
4-1-1-1 設立日
「FWC 設立法 9」によると、FWC の設立がベンガル司法審議会で承認されたのは、1800
年7月10日のことであった。しかし、その際、総督からの特別の命令により、セリンガパタム戦 勝381周年記念日である同年5月4日を、遡って正式な設立日とすることも承認された39。スィ
38 1799年5月4日にイギリス軍がマイソール王国の支配者ティプー・スルタン(Tipu Sultan)をセリンガ パタム(Seringapatam)で破り、ティプーは戦死した。この戦勝により、4次にわたるマイソール戦争の 末、マイソール王国はイギリス藩王国となった。
39 ‘…A REGULATION for the foundation of a COLLEGE at Fort William in Bengal, and for the better instruction of the junior civil servants of The Honourable The English East India Company, in the important duties belonging to the several arduous stations to which the said junior civil servants may be respectively destined in the administration of justice, and in the general government of the British Empire in India, passed by the Governor General in Council on the 10th July 1800;
corresponding with the 28th Assar, 1207 Bengal era; the 4th Sawun, 1207 Fussily; the 28th Assar, 1207 Willaity; the 4th Sawun, 1857 Sumbut; and the 17th Suffer, 1215 Higeree; but by his Lordship’s special order, bearing date on the 4th May 1800, being the first Anniversary of the glorious and decisive victory obtained by the British arms at Seringapatam the capital of the Kingdom of Mysoor.…(下線 部筆者)’〔P.P. 1812-13, p. 18〕。
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ッディーキーも、同じ内容を記述している40。この点において、ピアソンが 5 月 4 日を「実質的 な設立日」と述べている41ことには疑義が生じる。
4-1-1-2 取締役会への報告
ウェルズリーは、枢密院(Council)42に賛同を得た上で、1800年7月9日に取締役会へ覚 書(minute)を送った。この覚書では、FWCの設立理念が示された。ウェルズリーは、総督と3 管区の良好かつ強固な関係を確立するために法律を改正する必要性があることと共に、会社 官吏に政治的・法律的・経済的・商業的知識を身に付けさせ、ヨーロッパとインドに関する教育 を習得させ、品行を向上させて帝国の基礎を確固たるものにすべく、ベンガルにカレッジを設 立しようとした〔Vārṣṇeya 1947, p.10〕。また、同年8月18日にも、取締役会への公文書用 に覚書(minute)が作成され、FWC を設立する理由が示された。その内容については、前章 で述べた通りである。
4-1-1-3 司法審議会の反応
1800年9月5 日付の司法部公文書〔IOR/H/487, p.183〕で、ベンガル政府は、FWCに 対して、FWC の詳細全てを直ちに取締役会へ通知するよう求めている。このことから、取締役 会にとって、ウェルズリーの通知内容が十分なものではなかったことが窺える。この司法部公 文書は、同年7 月10 日に FWCの設立についてベンガル管区司法審議会で承認していた にもかかわらず、2ヶ月後に取締役会にさらに詳しいものを送るよう求めている。司法審議会は、
FWCの設立自体は認めたものの、FWCについてさらに詳しく述べるよう指示した。
4-1-1-4 法規の制定
設立にあたってまとめられた FWC の内容についての法規定が、なお不十分であるとの指
40 〔Siddiqi 1979, p.113〕。
41 ピアソンは、FWCは既に1800年5月4日から実質的に(Virtually)機能していたが、正式な設立がな されたのは同年8月18日のことであったと述べている〔Pearson 2010, p.123〕。
42 ここでは「枢密院」と訳した。行政に関する決定に対し、審議を行ったり意見を出したりする権限を 持つ諮問機関のこと。ベンガル総督の行政決定を補佐する役割を担っていた。
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摘を受けたこともあり、設立後にそうした不完全な部分を補う形で新たに法が制定されていっ た。例えば1801年4月10日の法では、カレッジの費用によって、学生に部屋や机、月300 ルピー43の手当が支給されることが定められた〔P.P. 1812-13, p.25〕。FWC の設立は、1800 年の「FWC設立法9」と、1801年の「FWC法」の2つによって定められたが、1802年6月 27日付の総督の報告書(proceedings)抜粋によると、1803年12月31日以降にさらに追加 の法規が施行することになった〔IOR/H/487, pp.359-361〕。
先述の1800年9月5日付の司法部公文書からの要請を受けて、1801年4月10日に制 定された「FWC法」では、「FWC設立法9」よりも詳細な内容が示された。ヴァルシュネーヤが 1801年4月10日までカレッジの状況が公表されなかったと述べている〔Vedālaṇkārā 1969, p.34〕のは、このことを指していると思われる。例えばこの新しい法規により、学生は入学時に カレッジの規則を守ることを誓約しなければならなかった。教職員も、王への忠誠を誓い、イギ リス憲法に反することはしないこと、法規に従って秩序や規律やモラルを維持することを誓約さ せられることになった。さらに学期、講義、試験、討議、証明書、学位、学長と評議員会の権限 に関して、様々な規則が新たにかつ詳細に定められた〔P.P. 1812-13, pp.22-25〕。
4-1-1-5 設立を急いだ理由
FWCの計画については、インド監督局や、ピット(William Pitt, 1759-1806)のような本国 の国会議員からは賛成意見も出されたが、取締役会から厳しく反対を受けた。これらの取締役 会以外からの賛成意見や取締役会からの反対意見の内容については、後述することとする。
取締役会からの許可を得ないうちに、ウェルズリーがFWCの設立を急いだ理由として、ヴァル シュネーヤは以下の3つを挙げている。まず1 つは、FWC自体は包括的なカリキュラムを提 供していたが、ウェルズリーは、インド諸語という限定された科目においてでも、成果を上げる のを急いでいたことである。2 つ目は、オリエンタル学校の試みを、ギルクリストが高く評価した ことである。3つ目は、ウェルズリーが、既にインドに勤務している官吏にも、直ちに教育を施す ことを望んでいたことである〔Vārṣṇeya 1947, p.17〕。
ウェルズリーは、一刻も早く FWC を設立することで、有能な官吏をできる限り多く輩出しよう
43 ヴァルシュネーヤによると、この300ルピーの手当には、ムンシーを雇うための費用は含まれなかっ た〔Vārṣṇeya 1947, p.15〕。ヴァルシュネーヤがあえてこう述べていることから、FWCでは個人的にム ンシーを雇うことが許されていたと考えられる。
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としていた。正式に学期を開始する前に講義を開講したのも、より多くの学生に学習の機会を 与えるためであった。取締役会からすれば、ウェルズリーは、十分な説明なしに FWC を設立 した。このことにより、取締役会は、ウェルズリーを批判し FWC に反対することとなる。しかし、
インドへ派遣された官吏の当時の状況からすると、FWC の設立は確かに急務であった。当時 交通手段の事情により FWC と取締役会との連絡のやり取りに多くの時間を要していたことか らも、現地側としては、本国からの返事を待つだけの余裕が無かったことは致し方なかった。ま た、設立後間もなく FWC は取締役会から縮小命令を受けたが、縮小されるまでのわずか数 年ではあっても、取締役会が許容するよりも多くの科目がFWCでは教えられていた。これらの ことから、ウェルズリーが取締役会からすれば無断と言われるような手続きにより FWC の設立 を急いだことは、十分に理解できるものであった。
以上の経緯を年表にまとめると、以下のようになる。
1800年5月4日 FWCの正式な設立日と定められた(同年7月10日のFWC 設立法944によって事後承認された)。
7月9日 ウェルズリー総督が、「FWC設立法9」の草案をベンガル司 法審議会(Bengal Judicial Consultations)に提出した。
ウェルズリー総督が、覚書(minute)を取締役会へ送付。
7月10日 「FWC設立法9」の草案が承認され、ベンガル司法審議会の議事録
に記録された。
8月18日 この日がFWCの実質的な設立日。
ウェルズリー総督によって、FWC設立に関する覚書 (minute)が出される。
FWC教職員の氏名と、任命される職名についての通知が出さ れた。
9月5日 ベンガル政府が、FWCに対して、FWCの詳細を直ちに取締 役会へ送るよう要求した。
44 議会文書では、regulationⅨとされている。これ以降に制定された規則はstatutesとされている。本 論文では、本注の指す法(regulation)を「FWC法9」、それ以降の法(statutes)を「FWC法」と表記する こととする。
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10月16日 マドラスとボンベイの統治者に、1798年以降にインドに来た会社の官 吏は、希望すればFWCに入学できる、と通知された。
10月20日 総督が、文官へのムンシー用手当を停止し、その資金をFWCの 経費として、ギルクリストやムンシーへの給与や報酬に充てるとの 命令を下した。
11月4日 政府布告が出され、1797年5月4日から1798年12月31日まで の間にベンガルへ配属された官吏は、希望すれば FWCに入学でき るとした。
11月15日 アラビア語、ペルシア語、ヒンドゥスターニー語の講義を同月24日に ライターズ・ビルディングズで開始することが決定された。
11月24日 上記3言語科目の授業が開始された。講義は12月末まで 継続された。
1801年2月6日 最初の学期が始まった45。これ以前から既に講義は開始され ていたが、正式な学期が始まったのはこの日からであった。
4月10日 「FWC法」がウェルズリーによって制定された。
4月16日 総督が同月10日に制定した法規を監督局に送り、許可を 求めた。
4-1-2 立地
取締役会への十分な説明なしに設立準備を行ったことが、取締役会からの反対を招いたと いう点では、カレッジの設立場所を巡る混乱にも同じことが窺える。
取締役会からの反対意見の中には、3管区にそれぞれ教育組織を設立すべきとの意見もあ った。しかしヴァルシュネーヤによれば、費用がかさみ、全管区の官吏に等しい教育ができなく なる恐れがあった。また、管区同士の対立を招く可能性もあった。ベンガルの官吏の資質が向 上すれば、他の 2 管区の官吏にも良い影響があると考えられた。これらのことから、ウェルズリ ーは、当時の行政の中心であったベンガル管区のカルカッタで官吏教育を行うのが適切であ
45 ヴァルシュネーヤはFort William Collegeの中で1月6日としている〔Samīʿullāh 1989, p.33〕。 1801年4月の「FWC法」では1学期の開始日が2月6日と規定されている〔P.P. 1812-13, p.23〕こと から、ヴァルシュネーヤの記述は誤りである可能性が高い。