本節では、取締役会等のFWCに対する反対意見や、FWCに関連する歴史を知る上 で重要であることから、HCについて取り上げる。
4-4-1 HC 関連史
HCは、1806年5月12日にイギリスに開校した。新人文官はHCで一般教養と初等 レベルのインド諸語を2年間学び、その後しばらくの期間をFWCで過ごすよう定めら れた〔Das 1978, p.30〕。同月21日に取締役会は、インド派遣書記がHCでの教育を 受けた後に、インド諸語のみを学ぶために、もう1年FWCで過ごすことが望ましいと 述べている。また、そのような仕組みに変更することによって、FWCの学長・副学長 や教職員の人件費、賞金にかかる経費、校舎の賃料や食堂にかかる経費等を削減できる と述べており、さらにはFWCにいるペルシア語とヒンドゥスターニー語のムンシーを 各1人ずつHCに送るようにとの要請までも行った〔Vārṣṇeya 1947, pp.70-71〕。FWC で3年間過ごさなければならないとする規則も、HCが設立された年である1806年の
「FWC法」91により取り消された92〔IOR/H/489, p.101〕。
結果的には HC が FWC の代替組織として官吏養成という役割を担うこととなった が、HCは、FWCの存在意義を失くすために構想された訳ではなかったようである。
取締役会のグラントは1805年9月17日付の手紙の中で、自分達はFWCに圧力を加え るために HC の設立を計画した訳ではないと書き記している。FWC の学長バーロウも、教職 員に対して、HC が FWC に取って代わられることはないと述べ、HC における東洋研究が
91 この法は学長ブラウンが、「FWC設立法9」から3・10・11・13・15・17・25条等の内容を抜粋し て作ったものであり、FWCの計画を縮小することが提案されている。1806年12月31日に、総督バー ロウによって承認された〔Vārṣṇeya 1947, p.42〕。
92 但し、FWC設立時から1807年頃までの時期においても既に、在学年数が3年に満たないまま卒業し た学生は存在していた。尚、在学年数3年未満でFWCを卒業した学生の詳細については、本論文の最後 に付録として掲載しているので参照されたい。退学措置に関する詳細は不明であるが、1808年2月8日 付の手紙によれば、FWCの学生2人が停学となった後に復学したことが判明している。また、その前年 の1807年2月19日付でベンガル司法審議会がFWCの後援者兼参事のバーロウ総督に宛てた手紙で は、バーロウが、無断欠席した学生を退学処分にした旨が記されている〔IOR/H/489, pp.121-124〕。
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FWCを支えてくれることを望んだ〔Das 1978, pp.29-33〕。
FWC の官吏養成の試みは、取締役会の HC設立へと引き継がれ、ウェルズリーの官吏教 育に関する主張は認められた〔Vārṣṇeya 1947, p.40〕。HCは、インドよりも望ましい学 習環境に立地していたこと、インドで教育を行うよりも低い費用で運営できたこと等の 理由から、FWCが担っていた官吏養成教育を次第に担うようになった。
ここで、HCに関する文献資料を基に作成した年表を、以下に示す。
1802年6月15日 ウェルズリー総督が取締役会から、FWCを直ちに廃止するよう にとの命令を受ける。
1804年 東インド会社理事達が、新しいカレッジを準備する特別委員会を 設置。
1806年2月3日 ロンドン郊外(15km北)のハートフォード城の仮校舎で、HC が発足。
5月12日 HCが機能し始める。
5月21日 取締役会がベンガル政府に対してHC設立の目的を示し、FWC の開講科目をインド諸語に限るよう要求。
1807年 ヘイリーベリーに本校舎が完成し、HCがそこへ移転93。 「全ての文官はFWCで3年過ごさなければならない」という規
則が取り消される。
1813年 特許法制定により、HCで4学期間(2年間)修学した者以外の ライター-への採用が禁止される。このことにより、HCは会社文 官の独占的養成機関となった。
1838年 HCの法規で、1839年4月10日以降にHCに入学する者は、
HCで少なくとも4学期間過ごし、HCの学則に従ったという学 長の署名入りの証明書を受け取らなければ、ライターに任命され てインドへ向かうことはできない、と定められた。
1853年 政府から、公開競争試験によってインド高等文官(Indian
93 メイソンは、1809年のことであると述べている〔Philip Mason 1985, p.124〕。
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Civil Service、通称ICS)94を採用する権限が付与された。
HCが1857年1月31日に閉鎖されることが決定。
以下、HC のカリキュラム、教員の職務、学生の在学に関する規則について述べる。
4-4-2 カリキュラム
学則によると、教授の講義は、学生が毎日少なくとも2コマ受講できるよう規定され ていた〔East India College95 1838, p.12〕。後述する開講科目の科目数から、十分な科 目数が用意されていたことが窺える。
HCのカリキュラムは、「オリエンタルズ(Orientals)」と「ヨーロピアンズ(Europians)」
に分かれていた。「オリエンタルズ」はインド諸語科目が中心で、カリキュラム全体の 約8割を占めていた。学生は卒業までに、「オリエンタルズ」科目のうち 3 言語96を習 得することが必須とされた。「ヨーロピアンズ」には、古典言語、数学、法律、インド 法、政治経済学、ヨーロッパ近代史の科目が含まれた97〔浜渦 2009, p.143〕。
また、ダースによると、開講科目は、アラビア語、ペルシア語、ヒンドゥスターニー 語、インド文学、アジア史、イギリス一般政策法、自然科学、数学、古典、文学概論、
歴史、政治経済学であった〔Das 1978, p.30〕。
新規採用の文官は、HCで一般教育と初級レベルのインド諸語を2年間学び、その後 FWC でしばらく過ごすものとされた。語学の習熟度に応じて、FWC での在学期間は 少ない期間でも良くなった〔Das 1978, p.30〕。HC卒業生の約5分の4が文官として 公務に就いた〔Mason 1985, p.125〕。
HC の設立によって、FWC の役割は低下したが、官吏は、イギリスとインドの両方 で教育を受けることができるようになった。
94 インド派遣書記は、19世紀中頃からこの名称に変更された。
95 ヘイリーベリー・カレッジの別称。
96 1学期はサンスクリット語、2学期はペルシア語、3学期はヒンドゥスターニー語を学んだ〔Mason 1985, p.124〕。
97 『人口論』の著書で有名なマルサスは、歴史や政治経済学の科目の初代教授を務め、30年間教鞭を取 り続けた〔Mason 1985, p.124〕。
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4-4-3 教員の職務
HCにおいては、教授に約500ポンドの年俸が支給され、住居費も支給されていた。
当時のオクスブリッジを主とする大学の教授への平均給与が 600 ポンドであった〔浅 田 1998, p.109〕ことから、HCでの教員への待遇は非常に恵まれていたと言える。
また、HCの教員には、礼拝への出席義務や学生の生活指導等、教鞭を取ること以外 にも以下のような役割が規定されていた。
(1)各教授は、職務の執行において、学長に従う義務がある。
教授の行動は、他の教授らによって申し立てがあった場合に、学長によって調査を受 ける。
(2)HC構内で暮らす教授や助教授はHCでの礼拝に出席し、全員教会での礼拝に定期
的に出席する。
(3)教授と助教授は、常に勤務し、必要な準備をし、威厳を持って講義を行い、学生に対 して必要な罰を与える。
(4)教授と助教授は、HC の秩序全般を支えること。秩序や礼儀に反することがあれば、
学長や学生監に報告する。
(5)全ての教授は、聖職者であるかどうかやHCに居住しているかどうかに関わらず、
毎日の仕事に積極的に取り組む。
(6)教授による講義は、各学生が毎日少なくとも2コマ受講できるようにする。
〔East India College 1838, pp.10-12〕
4-4-4 学生の入学年齢
「FWC設立法9」においては、FWCに入学する書記は15 歳から17 歳で本国での 学習を中断し、16 歳から 18 歳の年齢でインドに到着していた〔P.P. 1812-13, p.6〕。
HCでは当初、15 歳から 22 歳までの者に入学資格が与えられていたが、その後1833 年に下限年齢が17歳へと引き上げられた〔浜渦 2009, p.144〕。1838年時点のHCに おいても、17 歳に満たない者は、入学することができないとされていた〔East India
College 1838, p.16〕ことが確認できる。辻も同様の記述を行うと共に、1833年に上限
年齢が20歳、1837年には21歳へと変更されたとしている〔辻 1984, p.103〕。
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これらの記述から、HCが設立された際に入学年齢が 15 歳から 22 歳までと定めら れ、その後、1833年には17歳から20歳、1837年以降は17歳から21歳までに変更 されていったと読み取れる。このように入学年齢が変化したのは、インド統治に関わる 官吏に必要な教養を習得するのに適した年齢について、会社内で検討が続けられたため であると考えられる。
4-4-5 学生の入学方法
FWC と同じく、HC には理事の推薦を受けた者しか入学が認められなかった。EIC の社員は、ライターを初め、将校、医師補、専属の聖職者等の任命権を持っていた。ま た、インド監督局にも、儀礼的に学生推薦権が与えられた。彼らは、学生推薦権を、一 族や郷党のために利用した〔浜渦 2009, p.145〕。HC入学者は、EIC社員の親族、ある いは血縁関係は無くても EIC の理事やイギリス政府と何らかの繋がりを持つ者によっ て構成されていたと考えられる。
4-4-6 在籍学生者数
HC の在籍者は、2 学年合わせて 70 人から 80 人程度であったという〔浜渦 2009,
p.145〕。平均すると、1学年当たり35人から40人程度の学生が在籍していたことにな
る。この数字をFWC在籍者の人数の平均と比較すると、1学年当たりのHC在籍者は、
FWC在籍者よりもやや多かったことになる。