歴代の総督達が、若い官吏らに必要な教養及び素養として考えていた最初のものが、イン ド諸語についての知識であった。 1677年12月22日付で、EICの取締役会がマドラス政府 へ送った手紙では、宮廷や政府で使用されていたペルシア語を学んだ社員に 10 ポンド、民 衆の間で日常的に使用されていたヒンドゥスターニー語を学んだ社員に 20 ポンドの報酬を、
それぞれ支払うと記されている〔Siddiqi 1979, pp.9-10〕。このように、EICでは早い時期から、
社員へのインド諸語教育の必要性が認識されていたことがわかる。
その後、18世紀に入ると、EICのインド統治は質量共に拡大していった。EICがインドで勢 力を拡大するにつれて、インド統治に対応できるだけの言語等の能力を持つ優秀な社員を養 成する必要性が高まっていった。初代総督ヘースティングズ(Warren Hastings, 1732-1818)
17はインド派遣書記教育施策を講じたが、そうした施策はあくまでペルシア語教育に関するも のに限られた〔Kidwai 1972, p.12〕。新しく派遣されてきた書記には、ペルシア語研修手当が 付けられた。この手当は社員個人が、ペルシア語学習のためにインド人家庭教師を雇うため のもので、1 ヶ月 30 ルピーが 1 年間支払われた〔浜渦 2009, p.138〕。この手当は、先に触 れた、ペルシア語やヒンドゥスターニー語を学んだ社員への報酬制度に代わって作られたもの と考えられる。浜渦によると、その後ヘースティングズは、オックスフォード大学にペルシア語教 授を配置して新入社員の研修を実施するよう、取締役会に進言した。しかし、取締役会は彼の 進言を受け入れなかった[浜渦 2009, p.138]。
ヘースティングズは、ペルシア語以外のインド諸語に関しては、インド派遣書記教育施策の 必要性を認めなかった。これは、北インドにおいて当時裁判や行政で用いられることの多かっ たペルシア語の需要が高く、優先的にペルシア語教育に力が注がれたためであると考えられ
17 イギリスの植民地行政官。初代ベンガル総督(1772-85)。田舎の地主家庭の出身で、幼い頃に両親を亡 くし、遠い親戚に養育された。10代の終わり頃から、インド派遣書記としてベンガルに14年間滞在。マ ーシダバード(ママ)の太守の宮廷に会社の代表として派遣されたが、会社幹部が私腹を肥やしているこ とに抗議した。彼は辞職してイギリスへ帰国したが2年後にはマドラス商館の次長となり、高潔で勤勉な 性格によって管理者としての能力を大いに発揮した。1772年4月には総督となるが、理事のフィリッ プ・フランシスと激しく対立した。対立の原因は両者の性格の相違であったと指摘されるが、ヘースティ ングズが帝国主義者であり、そのことにフランシスが反感を持っていたためだと考えられる。フランシス は、ナンダ・クマールというインドの実力者が自分宛てに、ヘースティングズの収賄をほのめかす内容の 手紙を送ってきたと言った。しかしナンダ・クマールはその後、手紙を偽造したとして死刑となった。ヘ ースティングズは、任期よりも長く総督を務めた〔ガードナー 1989, pp.127-145〕。彼は財政・行政・司 法において改革を行った。ベンガルの地租を5年毎の契約とし、州を構成する行政単位であるディストリ クトの最高責任者であるコレクターに初めてイギリス人を任命している。また、総督と枢密院メンバーで 構成する民事裁判所、刑事裁判所を設置した〔浜渦 1999, p.59〕。
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る。ペルシア語ではなく、ヒンドゥスターニー語18が確かに当時のインドで最も多くの話者を持っ ていたとされるが、特にインド統治の代表者であったイギリス人総督としての彼の立場からは、
行政や司法で採用されていたペルシア語の方が、インド統治業務に携わる官吏にとって需要 の高い言語であると感じられたと考えられる。
但し、ヘースティングズは以下に述べるように、インド行政に携わる官吏を任命する上では、
ペルシア語だけでなくヒンドゥスターニー語の能力も考慮していたことが知られている。彼は、
北インドで広く使用されていた、これらペルシア語やヒンドゥスターニー語の知識を持つ複数の 人物を積極的に登用している。若干の例を挙げれば、1773 年に財政委員会を設置した際に は、チャールズ・ウィルキンス(Charles Wilkins, 1750-1836)19、ハルヘッド(N.B.Halhed, 1751-1830)、ダンカン(J.Duncan, 1756-1794)、ウイリアム・ジョーンズ(William Jones, 1746-1794)20らの学識者を任命している〔Das 1978, p.2〕。
ヘースティングズの後任となったコーンウォリス総督は、前任者の施策に追従するだけで、
18 ヒンドゥスターニー語の用語自体は、言語を指す名称としては、時代と共にかなり多様な意味内容をも って使用されてきた歴史がある。それについては後に詳述することとして、ここでは当時、北インドを中 心に宗教、民族の枠を超えて、一種のリンガフランカとして広く用いられていた言語を指すものとして使 用しておく。
19 1785年にサンスクリット語から英語への翻訳を初めて行い、ロンドンで『バガヴァト・ギーター』
(The Bhagavat-Geeta or Dialogue of Krishna and Arjoon)を出版した人物である〔Smith 1885, p.211〕。
20 1746年9月28日に生まれ、ハロー校で学び、1746年3月にはオックスフォード大学に入学した。
1771年には、著書『ペルシア語文法』を出版している。1768年にはデンマーク王クリスチャン7世 (Christian Ⅶ)に雇われ、王が所有する『ナーディル・シャーの生涯』(Life of Nadir Shah)の写本をペル シア語からフランス語に翻訳し、1770年に刊行された。1772年にはアジア諸語からの詩の翻訳と、アジ ア諸民族の詩や模倣芸術に関する2つの論文を含む著書を出版している。1774年には、ラテン語の著書 も出版している。1768年に学士、1773年に修士の学位を取得、1772年には王立協会の会員となり、
1773年には文芸クラブの一員となった。しかし、経済的な理由等により、1774年にミドルテンプル法学 院(the Middle Temple: the Inns of Courtを形成するロンドンの4法曹団体の1つ)で法廷弁護士となる。
1781年には、『保釈法に関する試論』(An essay on the law of bailments)を出版している。1783年12月 からは、カルカッタ駐在の英国法廷の判事として任務に就いた。1784年1月にはアジア協会を設立して その初代会長となり、生涯その職にとどまった。この頃から、サンスクリット語の学習も始め、1786年 2月2日には、アジア協会第3回大会で講演を行っている。その中には、「サンスクリット語が古典ギリ シア語やラテン語と共通の起源を持つ可能性がある」という、比較言語学の基本的考え方が示された。彼 は、インドの戯曲の中でも最高傑作とされる『シャクンタラー』(Śakuntalā)を、ヨーロッパの言語に初 めて翻訳した。この翻訳はすぐにヨーロッパ諸語数ヶ国語に翻訳された。特にゲオルク・フォルスター
(Georg Forster )のドイツ語訳(1791年)に感銘を受けた詩人ゲーテは、その感動を詩に託している。彼は
また、「インドの歌謡の中の歌謡」とされる『ギータゴーヴィンダ』(Gita Govinda)を部分的ではあるが 翻訳した最初の人物であった。また、彼はヨーロッパ人で初めて、サンスクリット語作品『リトゥサンハ ーラ』(Ṛtusaṃhāra)を原典のまま刊行した。彼は英語、ラテン語、フランス語、イタリア語、ギリシア 語、アラビア語、ペルシア語、サンスクリット語を批判的に研究した。スペイン語、ポルトガル語、ドイ ツ語、ルーン文字の碑文、ヘブライ語、ベンガリー語、ヒンディー語、トルコ語は、辞書を用いれば理解 できた。また、チベット語、パーリ語、パーラヴィ語、デリ語(ゾロアスター教徒のペルシア人が使うイ ラン語方言)、ロシア語、シリア語、古代エチオピア語、コプト語、ウェールズ語、スウェーデン語、オ ランダ語、中国語に関しては、完全とは程遠いが何とか理解できた〔樋口 2010, pp.3-11〕。彼は、特にサ ンスクリット語とイスラーム法学を専門とした〔Siddiqi 1979, p.36〕。
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具体的な策は打ち出さなかった。但し、コーンウォリスが総督を務めていた 1790 年にも、イン ド諸語学習のためにインド人ムンシーを雇うことが認められていたとされる〔Kidwai 1972, p.12〕。その具体的な言語名についてはキドウィも言及していないが、ペルシア語とヒンドゥスタ ーニー語がそこに含まれていたことは間違いない。
このように、ヘースティングズもコーンウォリスも、ともに文官がインド諸語の訓練を受けるよう になることを望んでいたわけであるが、学校等を作ってその考えを具体化することまでは考え なかった。文官への言語やその他に関する教育計画を具体的な形で、より明確に打ち出した のが、ウェルズリーであった〔Das 1978, p.2〕。そのウェルズリーのFWC設立に至るまでの官 吏教育の必要性に関する認識及び具体的な施策については、後にまとめて述べる。
3-4 ウェルズリー総督の人物像と FWC 設立
本節では、ウェルズリー総督の人格面にも焦点を当てつつ、彼がインド派遣書記教育施策 をFWC設立へと結実させたその過程について見ていくこととする。
ウェルズリーについては、傲慢で独断専行等といったマイナス的評価がなされることが多い。
しかし、彼がFWCの設立を構想するに至った過程について見てみると、彼がインドへと向かう 中で、またインドへ到着後にインド統治におけるニーズを把握し、持ち前の意志の強さによっ て、そうしたニーズに応えようとしていたことは疑いない。また、ウェルズリー総督が FWC 設立 を通して実現させようとしていたその最終的な目的は、インド派遣書記に必要な教育を行い、
彼らに文官21たるにふさわしい教養を身につけさせ、併せて、一部で堕落していた彼らの品行 を高めることにより、インド派遣書記の質を向上させ、インド統治業務を円滑に行えるようにす ることにあった。
3-4-1 リチャード・ウェルズリー総督の人物像
3-4-1-1 ウェルズリー総督の経歴
彼は、イングランド系とアイルランド系の混血の、小さなスクワイヤー(地主階級)出身であっ
21 Civil Servants。当時インドで統治に携わった官吏は、文官と軍官に大別された。