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員会長官代理であったギャロウェイに、雨期の初めから熱病にかかっていることについ て手紙を書いて送っている。その手紙は、ベンガル政府の元へ届けられ、彼は、同年9 月6 日に政府から休職の許可を得た。その後、テイラーは、1823年5月23 日の政府 命令書により陸軍中佐に任命され、任務が増え FWC の任務を行う時間が無くなった。

そこで、総督は、当時試験官を務め第20歩兵隊に所属していたプライスをテイラーの 後任とした。

(3)ハンター

1804年から1805年に、ヒンドゥスターニー語の教員を務めた。彼は、1811年11月 1日に辞職願を提出するまで、評議員会長官兼試験官を務めた。

(4)ロケット

1809年8月15日にベンガル政府は、ロケットをテイラーの代理として、ヒンドゥス ターニー語科教授代理に任命した。その後復職したテイラーの申し出が1810年2月14 日にベンガル政府に許可されたことにより、ロケットは、評議員会からヒンドゥスター ニー語の初級クラスの教員に任命された。その後ハンターの後を引き継ぐ形で、ロケッ トは、1812年5月30日に評議員会長官兼試験官に任命された。

(5)プライス

プライスは、1813 年 10 月にサンスクリット語とベンガル語とヒンドゥスターニー 語の助教授に任命された。テイラーが陸軍中佐に任命されると、当時試験官を務め第20 歩兵隊に所属していたプライスは、テイラーが行っていた任務を引き継いだ。プライス が当時まで行っていた任務の後任には、第14歩兵部隊に所属していたオウズリーが任 命された。1823年11月20日のベンガル政府の手紙によると、プライスは、ヒンドゥ スターニー語科長としてFWCで任務を行い始めた。彼は、給与が月800ルピーに減額 されていたことから、月1,000ルピーに増額するよう嘆願書を提出したが、取締役会に 却下された。しかし、プライスは、勤務を続けた。1829年8月19日の時点でも、週に 2日ヒンディー語教授としてFWCに在職し、試験を行い、ベンガル語試験官代理も兼 任した。

163 (6) アトキンソン(Atkinson)

1817年1月21日に、ヒンドゥスターニー語試験官代理に任命された。

(7) ラデル(D.Ruddell)

1820年1月25日に、ヒンドゥスターニー語助教授に任命された。1824年6月1日 には、月800ルピーの給料で評議員会長官兼図書館長に任命された。ラデルは、その後 1832年1月11日に辞職し、後任にはトッドが任命された。

(8)オウズリー

オウズリーは、ロケットが評議員会長官兼試験官を退任してFWCを去ると、代理と して業務を行った。ラデルの後任のトッドが1832年3月20日の夜に急死した後、オ ウズリーが、同年4月17日に評議員会長官代理に任命された。オウズリーは、評議員 会長官代理に任命されたわずか1週間後に、試験官代理にも任命された。

〔Begum 1983, pp.58-59; Das 1978, pp.123-124; Samīʿullāh 1989, pp.50-57;

Vārṣṇeya 1947, pp.68-146〕

FWCにおける出版活動がギルクリスト以降活発に行われなくなったのは、ギルクリ ストと同等にヒンドゥスターニー語の知識を持ち、言語教育に熱意を持った人物が現れ なかったことが大きい。「FWCはヒンドゥスターニー語散文の普及を促進した」という のが通説であるが、そうした普及はギルクリストが在職していたFWC設立後5年程の 間に著された著作によってなされたのであり、その後はそれらの著作の再版が繰り返さ れ、新しい文献はごくわずかしか著されなかった。ヴァルシュネーヤは、ヒンディー語 散文の著作は、ラッルーラールとサダル・ミシュラの後には行われなかったとまで述べ ている〔Vārṣṇeya 1947, p.151〕。

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