ジェームズ・ディンウィディーは、FWCで自然科学関連の科目を教えた数少ない人物である。
彼は、自然科学において多くの業績を残したが、FWCでは十分な成果を挙げることは出来な かった。ここで、ウェルズリー総督の理想が実現に至らなかった一つの例として、ディンウィディ
168 Francis Rawdon-Hastings(1754-1826)。1813年~23年にベンガル総督を務め、マラーター戦争に よって中央インドを英国の支配下に置いた。
180 ーの経歴や活動に焦点を当てる。
ディンウィディーは、ダンフリーズ169近郊のティンワルド(Tinwald)に代々暮らし、小さな農場 を営む一家の末子として、1746年12 月8日に誕生した。ディンウィディーは、幼い頃から牛 の世話を手伝っていたが、自分で木製の時計を作ることが出来るほど機械に関心を持ってい た。彼は、彼の家が熱心な国教会信者であったことからダンフリーズ学院に入学し、その後エ ディンバラ大学に進学した。彼は、伝道者にはなろうとせず、科学で生計を立てようとした。彼 は1771年11月にダンフリーズ学院数学科の監督者に就任し、1778年2月にはエディンバ ラ大学から文学修士号を授与された。その後1779年春には旅行に出発し、1780年1月31 日にダブリンへと到着する。さらに6 月26 日にコークへと出発し、7 月10 日に到着するが、
1781年夏頃に再びダブリンへと戻り、地理学等を教えた。1783年6月2日には潜水鐘の改 良で有名なスパルディングとその助手がダブリンから約 18 マイルの場所で座礁事故を起こし て死去し、その後ディンウィディーは、事故の原因について数回講義を行うこととなった。彼は、
アメリカに招かれるが、申し出を断ってイギリスへと戻ってしまう。それは、彼が当時結成されよ うとしていたマンチェスターの自然科学協会から、自然科学と化学の講座を行なって欲しいと いう要請を引き受けたためであったようである。彼はロンドンで 2 年間日曜の夕方に講座を開 き人気を博した。その後1792年8月13日に、彼はエディンバラで法学博士号を授与された
〔Proudfoot 2010, pp.1 –27〕。
ディンウィディーは、自然科学だけでなく、社会科学や人文科学の学識も持ち合わせていた。
後に彼がFWC に雇われたきっかけは、そのことに加え、外交官に同行して中国へ行ったこと であった。
ディンウィディーは、1792年9月26日に、外交官マカートニーに随行して中国へと出航し た。同年11月末頃にリオデジャネイロ、翌1793年にはインドネシアを経由して7月30 日に 中国へ到着した。その後8 月 5 日に乗船しペイホ川を進み、10 日に天津、その後屯州へ到 着した。その後北京へと向かった170。中国の政府に謁見したディンウィディーらは1793年10
169 Dumfries。スコットランド南部の町。
170 1757年に清帝国はヨーロッパ船による貿易を広州一港に限定し、59年に「防範外夷規條」を定め た。これ以後アヘン戦争の終わる1840年代まで、清帝国の沿岸ではヨーロッパ船に対していわゆる「カ ントン・システム」と呼ばれる管理貿易体制が敷かれた。しかしそれにもかかわらず、ヨーロッパやアメ リカの船による貿易量が拡大していく。それでも清は、貿易の主導権を握った。EICやイギリス人の私貿 易業者らはイギリス政府に働きかけ、より制限の少ない貿易、イギリスの拠点となる島の獲得、北京にイ ギリス大使館を置くこと等を要求するため、1793年に元マドラス総督のマカートニーを大使とするイギ リス国王からの使節団を清帝国の乾隆帝の元に派遣させた。しかし、これらの要求はことごとく拒絶され た〔羽田 2014, pp.345-346〕。
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月7日に北京を出発し、12月に広東へと到着する。広東は川から少し離れた城塞都市で、川 と城壁の間にある地域には様々な商店が並んでいた。さらに当時、広東でのヨーロッパ貿易の シェアの 8 分の 7 は、イギリスが握っていた。彼は、広東到着後に講義を行ないたいと考え、
講義用の器具の使用許可を得た。その後講義が行われ、英語の教養のある清の人々とヨーロ ッパ人が出席した〔Proudfoot 2010, pp.28-80〕。
マカートニーは、清の物品をインドの総督の元へ運ぶことを決定する。当時のマカオの人口 は3 分の 2 が清の人々、3 分の 1 がポルトガル人によって占められていた。しかし、ポルトガ ルの貿易は衰退してきていた〔Proudfoot 2010, pp.84-85〕。イギリスがこうした長期間に及 ぶ旅を行って清へと向かったのは、当時清におけるポルトガルの商業的影響力が弱まってお り、イギリス、インド、清との間で既に始まっていた三角貿易に大きな可能性が見出されていた ためであったと考えられる。
1794年9月27日に一行はカルカッタに到着し、30日にディンウィディーは、ジョン・ショア 総督に紹介を受けた。10月1日に総督と会食したことがきっかけで、彼はカルカッタで出版活 動を行い、講義を行う機会を与えられた。その後彼は、カルカッタで、自然科学や化学だけで なく、古代や現代の戦争についての講義を行うこととなった〔Proudfoot 2010, pp.97-98〕。
ディンウィディーは、カルカッタに移住後、アジア協会の会員となった。彼は、会長に協会の 運営についての意見を手紙にして送り、組織の基礎に影響を与えた〔Proudfoot 2010, pp.102-103〕。
ディンウィディーは、1800年に FWCの教授に任命された。彼は、数学、化学、自然科学の 教授を務めた[Proudfoot 2010, pp.112-113]171。彼は、学生に、本国で学習を中断されてい た科目を再開させ、官吏として望ましい教養を取得させる機会を与えることが出来た。但し、そ の開講年数は短い期間となってしまい、十分な教育を実施することは出来なかった。
その後ディンウィディーは、1805年に退官し、翌1806年9月15日にカルカッタを出発し た。1810年7月6日には、ロンドン王立研究所(Royal Institution)のメンバーに選出された。
晩年はスコットランドへと戻り、1815年3月19日にその生涯を終えている〔Proudfoot 2010, pp.120-125〕。
171 ベーガムによると、数学の教授に就任したのは、1801年4月のことであった〔Begum 1983, p.63〕。
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