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1785年からはキンタイア(Kintyre)のカラデル(Carradell)で、以前教えていた子供の家 庭教師を務めた。その後、1786 年にグラスゴー大学へ戻り優秀な成績を修めたが、再 びカラデルに戻り、1787 年秋まで家庭教師を務めた。両親や母方の祖父に加え、ブキ ャナンの姉妹も熱心なキリスト教信者であった。因みにブキャナンも、1790 年に信心 深い友人と出会ったのをきっかけに、次第に信仰心を深めていった。その後、ブキャナ ンは、ある人物からの支援を受け、ケンブリッジ大学で学ぶようになる。1791 年の秋 学期からは、ケンブリッジのクイーン・カレッジへの入学を認められている。彼は当初 特待免費生として入学するよう指示を受けたが、指導教員や友人らの説明を受けて、自 費生として入学することを決めた。彼はケンブリッジに入学するまで、神学を専攻とし、
数学は副専攻的に学ぶことを希望していた。しかし自分が学ぶ必要のある学科は神学よ りも数学であるということに気付き、数学の学習に取り組むようになった。また、当時 ブキャナンは、何年も書いていなかったラテン語で著した作文が他のどの学生のものよ りも優れていたため、指導教員からの賞賛を受けている。ブキャナンの当時のタイムテ ーブルは、以下の通りである。
4:30 起床
4:30-7:00 信仰についての学習 7:00-9:00 食事と休憩
9:00-14:00 数学 14:00-16:00 食事と休憩 16:00-18:00 古典
18:00-19:00 来客対応もしくは休憩 19:00-21:00 古典もしくは論理学等
21:00-22:00 信仰についての学習 22:00 就寝
〔Pearson 2010, pp.2-63〕
ピアソンは、入学当初のブキャナンの後の職業に関連する科目の勉強時間は短かった ようであると述べている〔Pearson 2010, p.44〕。しかし、さきに示したスケジュールに よると、入学後のブキャナンの勉強時間は、短いものではなかった。数学を 1 日 5 時
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間、神学を1日2回計3.5時間、古典又は倫理学を1日2回計4 時間勉強しており、
ブキャナンが数学の勉強を重視しつつも、神学等の科目の勉学も怠らなかったというこ とが、この一覧表から窺える。
ブキャナンは、クイーン・カレッジでの生活を送るうちに、交流を深めていった。特 にニュートンという友人に出会ったことは、ブキャナン自身の信仰心を深めたという点 でも、大きな出来事であった。ピアソンによると、ニュートンはブキャナンが長期休暇 の際に自身の家族に起こったことを手紙に書いて送るほど、ブキャナンと親しい人物で あったという。1794 年の夏にブキャナンとニュートンは出会ったが、その後ニュート ンはブキャナンに、インドに行ってみてはどうかと提案した。ブキャナンはインドに行 くかどうか思い悩むが、福音を広めたいという思いから、インドに行くことを決意する こととなる〔Pearson 2010, pp.63-71〕。
ブキャナンは、1795年9月20日に、フラム(Fulham)で教会の執事に任じられた。
しかし1796年の初め頃に、彼は自分を教会へと導いた友人らの勧めによって、EICの 礼拝堂付き司祭になりたいと申し出た。同年3月30日には、彼は、EICの礼拝堂付き 司祭に任命されている。その後、ブキャナンは、7月30 日にロンドンを出発してポー ツマスへと向かい、8 月11 日にベンガルへと出航した。11 月18日に喜望峰に到達し て現地に3週間ほど滞在し、翌年2月17日にマドラスへ到着し、そこに2日滞在して いる。ブキャナンがカルカッタに到着したのは、1797年3 月 10 日のことであった。
1800年2月に、ベンガル管区の礼拝堂付司祭に任命されていたブキャナンは、モーニ ントン候やベンガル政府の長官らの前で講話を行った。この講話は冊子としてまとめら れ、イギリスにいる会社の取締役達へと配布された。ブキャナンは、当時、平均で約2 週間に1度の割合で、講話を行った。ブキャナンは、インド到着後、インド諸語を学ん だ。ブキャナンが当時知人に宛てた手紙には、ペルシア語とヒンドゥスターニー語を学 んだことが記されている〔Pearson 2010, pp.83-120〕。
7-1-2 FWC での活動
ブキャナンは、インドへと渡り布教活動を行ううちに、FWCと関わりを持つように なった。
1800年6月にブキャナンは、グラントに手紙を書いている。その手紙によると、ブ
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キャナンはウェルズリー総督から FWC の組織構想を考えて欲しいという依頼を受け、
実際に構想を立案している。この時、ベンガル政府のバーロウは、ブキャナンに、FWC の組織に関する構想の正当性を主張するために覚書を書き記すよう指示している
〔Pearson 2010, p.121〕139。FWCの設立目的を示す重要な文書を作成したことは、ブ キャナンの大きな功績であった。
ブキャナンは、1801年の初めに、FWCの副学長兼古典の教授に任命された。その後 は FWC での仕事と、管区の礼拝堂付き司祭の仕事との両方に携わるようになった
〔Pearson 2010, p.126〕。1801年4月には、ギリシア語、ラテン語、英語の教授にも 任命されている〔Das 1978, p.11〕。
FWCにおいてキリスト教教育がどのように行われていたのかについては、資料が見 つかっていないため不明である。しかし、FWC内での礼拝の日時を設定し、道徳や信 仰を守るのは学長の役割とFWC法では規定されており〔P.P. 1812-13, p.24〕、学長を 補佐する副学長の立場にあったブキャナンも、学長と共にFWCにおけるキリスト教に 基づく道徳教育の責任を負っていたと考えられる。
また、FWCで中国語の翻訳が行われるようになったのも、ブキャナンの功績による ところが大きい。
ブキャナンは、カルカッタで出会ったアルメニア系キリスト教徒の中国人ラッサール
(Lassar)を月300ルピーで雇い、写本の翻訳とセランポールの伝道所での中国語の授業
に従事させた。FWC は、中国語で書かれた写本を入手出来るようになった〔Pearson 2010, p.174〕140。
ブキャナンは、1805 年頃からインド各地で転居を繰り返し、セイロン等への旅行に
139 また、ブキャナンはFWCの活動についての報告書として、The College of Fort Williamを1805年 に作成している。この報告書の内容については、本論文でも取り上げている。この他にもブキャナンは著 書を残しており、その書名は以下の通りである。
(1)A Vindication of the Hindoos from the aspersions of the Rev. C. Buchanan, M.A.; with a refutation of his arguments for an Ecclesiastical Establishment in British India. By a Bengal Officer(―1808 年初めに出版された)
(2)Colonial Ecclesiastical establishment: being a brief View of the state of the Colonies of Great Britain, and of her Asiatic Empire, in respect to religious instruction; prefaced by some
considerations on the national duty of affording it(―ブキャナンが自ら編集・出版したとされる)
(3)Letter to a Friend, on the duty of Great Britain to disseminate Christianity in India, occasioned by the proposed renewal of the Charter of the East India Company(―友人によって出版されるに至っ たとされる)
〔Pearson 2010, pp.308-384〕
140 FWCにおける中国語写本の翻訳活動や中国語教育活動については、文献が乏しく、その詳細は不明 である。
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何度も出かけた。彼は、1809年頃にイギリスに帰国し、1815年2月9日にハートフォ ードシア(Heartfordshire)で死去した〔Pearson 2010, pp.181-438〕