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(13)前掲 r満州開拓史』 P.251

(14)前掲白取道博rr満蒙開拓青少年義勇軍』の創設過程」 P.215

(15)地域によっても違いがあるが、概ね3月を第1回目の募集期日として設定し、2〜3カ月     ごとに募集された。一定期間を空けるのは内地訓練の期間が約3ヵ月とされ、訓練所の受     け入れ能力を考慮したうえでの措置と考えられる。

(16) 「事変下野拓民募集方策ノ検討」昭和15年4月10日(満鉄東京支社調査室)

    (前掲 r満蒙開拓青L少年義勇軍資料集第1巻』 P.96)

    「極秘」の印が押されたこの文書は、満鉄東京支社調査室が出したものであり、同室主事     三輪孝が執筆を担当した旨が記されている。

(17) 「満蒙開拓青少年義勇軍に関する調査」昭和15年2月(満州移住協会)

    (前掲 r満蒙開拓青少年義勇軍関係資料集第5巻』 P.10)

(18)兵職第54號 「満蒙開拓青少年義勇軍募集二關スル件」

    (『兵庫県門』第1287號昭和13年1月24日)

(19)白取道博満蒙開拓青少年義勇軍の変容(1938年〜1941年)一 郷土部隊編成導     入の意義 一  (北海道大学教育学部紀要54号1990)P.「47

(20)下職第261號 「満蒙開拓青少年義勇軍第二次募集ノ件」

    (r兵庫県報』門外昭和13年3月12日目

(21)官職第656號1 「満蒙開拓青少年義勇軍第三次募集ノ件」

    (r兵庫県報』號外昭和13年6月3日)

(22)下職第1605號1 「満蒙開拓青少年義勇軍第五次募集ノ件」

    (r兵庫県報』門外昭和13年10月21日)

(23)兵職第1856號1 「満蒙開拓青少年義勇軍第五次募集ノ件」

    (r兵庫県報』號外昭和13年11月28日)

(24)兵職第1997號 「満蒙開拓青少年義勇軍第五次募集ノ件」

    (r兵庫県門』野外昭和13年12月12日)

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(25) 6道府県は、兵庫県のほか、北海道、東京、奈良、島根、岐阜であった。

(26)前掲 「事変下開拓民募集方策ノ検討」

    (前掲 r満蒙開拓青少年義勇軍関係資料集第1巻』 P。103)

(27)同上書P.103

(28)同上書P.101

(29)兵職第1856號2 「満洲青年移民志望者調査二關スル件」

    (r兵庫県門』號外昭和13年11月28日)

(30)干死第1856號3 「満洲青年移民志望者調査二關スル件」

    (r兵庫県報』號外昭和13年12月21日)

(31)同 上

(32)前掲兵職第1856號2 「満洲青年移民志望者調査二關スル件」

(33)前掲 「事変下開拓民募集方策ノ検討」

    (前掲 r満蒙開拓青少年義勇軍関係資料集第1巻』 P.98)

(34)同上書P.104

(35)同上書P.105

(36)同上書P.97

(37)陳野守正 r先生忘れないで!「満蒙開拓青少年義勇軍」の子どもたち』

    (梨の木社1988)P.152では、山梨県の例が紹介されているが、同県では社会課長     として内務省から奥野誠亮氏が赴任してきた後、満州移民が大幅に増えたことに触れ、担     当者の取り組みが送出数に大きく影響したことが示されている。同氏は、現在、衆議院議    員(奈良3区選出当選12回目で、自民党では無派閥ながらタカ派としても有名である。

(38)内原訓練所史跡保存会発行「満蒙開拓青少年義勇軍 日輪舎」では、

   直径10m、内部は二段で60名の訓練生を収容しました。創案者は古賀弘人氏(熊本県    熊本市出身、関西学院大学建築科卒、昭和24年1月札幌北大病院で死去57才)で、最    初ワうぶき屋根5棟が建てられたが、その後のものは杉皮ぶきになり内原には215棟、

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河和田分所には147棟が建てられました。内原訓練所の日輪舎建設は、昭和13年元旦 から始まり、2月15日までに100 棟が完成しました。建築課長渡辺亀一郎氏(山形 県高畠町出身、山形県自治講習所卒、昭和13年3月死去、42才)はこのとき山形出身 の訓練生250名を指揮して建設に当り、過労のため殉職しています。(以下略)

と紹介されている。

同保存会の所在地は、〒319−03茨城県東茨城郡内原町鯉渕2508番日輪舎内 戦時中は兵庫県立学徒教練場であった兵庫県立生涯教育センターの現在の建物の一部は、

日輪兵舎を模したものと言われ、この兵舎の形状及び建設方法はその点で、他の建築物に も影響を与えたようである。

「満蒙開拓青少年義勇軍訓練所概要昭和17年」 (発行日及び発行者不明)から作表

(前掲 r満蒙開拓青少年義勇軍関係資料集第2巻』 P.7)

前掲 r満州開拓史』 P.259

創価学会青年部編 r戦争を知らない世代へH⑰茨城編開拓の美名の下で 一満蒙開拓青

少年義勇軍の記録一』(第三文明社1984)P.210

1996(平成8)年3月10日、内原町中央公民館に、館長である黒澤毅一氏を訪問し た際にお聞きした話から。

前掲 『満蒙開拓青少年義勇軍訓練所概要』から作表

前掲 r満州開拓史』 P.259

これらの種別には全く含まれないものとして、響導訓練所、朝水訓練所、蓋附訓練所、獣 研特殊訓練所などをその例として挙げることができる。

白取道博 rr満州』移民政策とr満蒙開拓青少年義勇軍』」

(北海道大学教育学部紀要47号1986)P.136

「満州国開拓地犯罪概要」 (満州国検察庁)

山田昭次編 r近代民衆の記録6満州移民』 (新人物往来社1978)P.431 前掲 r満州開拓史』 P.302

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(50) (49)に同じ

(51)同上書P.303

(52)前掲 「満州国開拓地犯罪概要」 (前掲 r近代民衆の記録6満州移民』 P.464)

(53)同 上

(54)前掲 『満州開拓史』 P.303

(55) r五洲会の歩み』(五二会の歩み編集委員会1992)P.96

(56)桑島節郎 『満州武装移民』 (教育社歴史新書1979) P.168には、

    内地にいた加藤完治が、第1次移民に噴出する問題を耳にして、石原莞爾のもとを訪ねた     際に、石原から「不良分子を処分しなければ天皇陛下のためにならない」と言われたこと     を、筆者が加藤の高弟と言われた酒井章平からの取材に基づいて紹介している。

(57)屯墾病に攻撃型と自閉型の類型あることは、上笙一郎氏がその著書r満蒙開拓青少年義勇    軍』(中公新書1972)で指摘しており、その種の論及としては最も早い時期のもので

    ある。

(58)轍江訓練所第5中隊は、兵庫県初の郷土中隊だった藤原中隊のことである。藤原中隊が     「模範中隊」であったことは、他中隊関係者の話にも出てきたが、そのことはこの手記に     よっても確認できる。

(59)前掲r五洲会の歩み』 P.99

(60)三根生幸也 r赤い夕陽愛媛の元満州開拓団記録』 (愛媛新聞社1973)P.104に     は、門門有数の模範中隊であったと言われる、1940(昭和15)年愛媛県送出の門田     中隊を率いた門田満太郎中隊長さえも屯墾田に見舞われたと記されているから、幹部隊員     の多くがそれを経験したであろうことは容易に予想される。

(61) この推定は、櫻本富雄 r満蒙開拓青少年義勇軍』 (青木書店1987) P.123にお     いてなされている。

(62)「昭和15年度第1次入所青少年義勇門中身上調書一覧表」及び「昭和16年度第1次入所     青少年義勇軍身上調査一覧表」から作表

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    (前掲 r満蒙開拓青少年義勇軍関係資料集第5巻』)に所収

(63) 「満州開拓青年義勇隊統計年報」

    (前掲 r満蒙開拓青少年義勇軍:関係資料集第5巻』)末尾に所収

(64)同  上

(65)「青年義勇隊訓練生退所願取扱二関スル件」 (r兵庫県報』號外昭和16年1月13日)

(66)「満州開拓青年義勇隊療養訓練生ノ取扱二関スル件」

    (r兵庫県報』號外昭和17年11月6日)

(67)前掲 「満州開拓青年義勇隊統計年報」

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第3節 教育と義勇軍

1.教育制度の改編

 満州移民が開始された段階からある時期までは、文部省はこれに積極 的に関与したという事実は見当たらない。しいて言えば、文部省の管轄 下に、第一、第二、第三と3つの拓殖訓練所があったに過ぎないが、こ の訓練所も、満州移民のみを前提として設立されたものではなく、南米 やハワイへの移住をも想定したものであった。移民問題を主管すべき拓 務省ですら、関東軍の主導権の下でしか動きがとりにくかったのである から、文部省に至っては部外者でしがなかったであろう。しかし、一連 の教育制度の改編は、戦時体制強化の流れを学校にも持ち込み、その結

,果、学校は準戦時体制から戦時体制に移行し、戦争遂行に協力する重要 な役割を担うこととなった。

 1935(昭和10)年12月5日に、教学刷新評議会第1回総会が開催され ている。文部大臣からの諮問は、「我が国教学ノ現状二鑑ミ其ノ刷新振 興図ルノ方策如何」という短いものであった。その趣旨説明には、

 我が国ノ教学ハ、教育二関スル 勅語ヲ奉髄シ、國髄観念、日本精 神ヲ髄現スルヲ以テ、其ノ本旨トナス、然ルニ久シキニ亙リテ輸入セ ラレタル外来思想ノ浸潤スル所、此ノ本旨ノ徹底二野テ未ダ十分ナラ ザルモノアリ、薙二更メテ我が国教学ノ現状ヲ検討シ、克ク本末ヲ正 シ、醇化撮取ノ實ヲ挙ゲ、以テ大イニ其ノ刷新ト獲展トヲ圖ルハ、刻 下緊切ノ要務ナリトス、即本諮問ヲ提出シテ、審議ヲ求ムル所ナリ

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