兵庫県における満蒙開拓青少年義勇軍と教育
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(2) 目次 序章 研究を始めるに当たって ・・・・・・・・・・… P. 1.研究動機 ・・・・・・・・・・・・・・・・… P. 2.先行研究の分析 ・・・・・・・・・・・・・… P. 3.問題の所在 ・・・・・・・・・・・・・… p.. 1 1. 3. 4. 第1章 満州移民政策の展開 ・・・・・・・・・… ●・P.5 第1節 満州移民構想の先駆者 ・・・・・・・・・… P.5 1.東宮鐵男 ・・・・・・・・・・・・・・・・… P.5 2.加藤完治 ・・・・・・・・… ●●●.”.P.11 (1)満州事変以前の加藤 ・・・・・・・… P.11 (2)満州事変以降の加藤 ・・・・・・・… P.13 3.石原莞爾 ・・・・・・・・・・・・・・・… P.16 第2節 満州移民政策に影響を与えた2つの要因 … P.26 1.政局の変動と満州移民政策 ・・・・・・・… P.26 2.戦局の推移と満州移民政策 ・・・・・・・… P.31 第2章 満蒙開拓青少年義勇軍の成立 ・・・・・・… P. 第1節 青年移民構想 ・・・・・・・・・・・・… P. 1.満蒙開拓青少年義勇軍の原形 ・・・・・・… P. 2.青年農民訓練所(仮称)創設要綱 ・・・・… P. 3.満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書 … P. 4.満州移民に対する青年移民送出に関する件 ・… P. 5.満州青年移民実施要綱の制定過程 ・・・・… P. 第2節 満蒙開拓青少年義勇軍の募集 ・・・・・… P. 1.募集開始 ・・・・・・・・・・・・・・・… P. (1)昭和13年満蒙開拓青少年義勇軍募集要綱 ・P. (2)満州青年移民実施要綱 ・・・・・・… P. (3)昭和13年度の募集状況 ・・・・・・… P. (4)昭和14年度の全国的な募集不振 ・・… P. (5)郷土中隊方式 ・・・・・・・・・・… P. (6)割当の存在 ・・・・・・・・・・・… P. 。・P. 2.訓練 ・・… @ 。。。・・・・・・・… (1)日本国民高等学校 ・・・・・・・・… P. (2)内原訓練所 … ㌦・・・・・・・… P. (3)訓練内容 ・・・・・・・・・・・・… P. (4)現地訓練所 ・・・・・・・・・・… P. (5)昌図事件 ・・・・・・・・・・・・… p. (6)屯墾病 ・・・・・・・・・・・・・… P. (7)相次ぐ脱落者 ・・・・・・・・・・… P. (8)脱落者対策 ・・・・・・・・・・・… p. 第3節 教育と義勇軍 ・・・・・・・・… ●… P. 1。教育制度の改編 ・・・・・・・・・・・・… P. 2.教育審議会 ・・・・・・・・・・・・・・… P.. 39 39 39 41 43 44 45 49 49 49 51 55 58 62 64 66 66 67 70 72 77 79 82 85 94 94 95.
(3) 3.青年学校義務化 ・・・・・・・・・・・・… P.96 4.職業指導としての義勇軍 ・・・・・・・… P.100 5.興亜教育 ・・・・・・・・・・・・・・… P.102 第3章 兵庫県送出の満蒙開拓青少年義勇軍 ・・… P. 第1節 残された資料から ・・・・・・・・・… P. 1.割当数:と送出数 ・・・・・・・・・・・… P. 2.兵庫県の特色 ・・・・・・・・・・・・… P. 3.割当の根拠 ・・・・・・・・・・・・・… P. 4.兵庫県関係の義勇軍 ・・・・・・・・・… P. 5.送出数:の推定 ・・・・・・・・・・・・… P. 6.偏る地域・偏る時期 ・・・・・・・・・… P. 7.渡満動機について ・・’・・’。●’●’●’P. 第2節 兵庫県内の主な動向 ・・・・・・・・… P. 1.昭和14年坂越町回蒙青少年二関スル綴込 … P. 2.兵庫県教育会の動き ・・・・・・・・・… P。 3.兵庫県立国民高等学校 ・・・・・・・・… P. 4.兵庫県内の割当 ・・・・・・・・・・・… P. 5.拓植訓練 ・・・・・・・・・・・・・・… P. 第3節 満蒙開拓青少年義勇軍の変質 ・・・・… P. 1.都市出身者の増加 ・・・・・・・・・・… P. 2.同和対策としての側面 ・・・・・・・・… P. 第4節 神戸中隊の編成 ・・・・・・・・・・… P. 1.本岡中隊の編成 ・・・・・・・・・・・… P. 2.本岡参議院議員の話 ・・・・・・・・・… P. (1)本岡議員との面会 ・・・・・・・… P. (2)本岡達次中隊長 ・・・・・・・・… P. (3)本岡中隊 ・・・・・・・・・・・… P. 3.大東中隊 ・・・・・・・・・・・・・・… P. 4.桜組 ・・・・・・・・・・・・・・・・… P. 終章 結論及び残された課題 ・・・・・・・・・… P. 1.結論 ・・・・… ●●”。’●”●’。P. 2.残された課題 ・・・・・・・・・・・・… P. あとがき. ・・・・・・・・・・・・・・・・・・… @. 巻末資料. 1.満州国略:地図. 2.満州国鉄道地図. ・…. ●.●’’”.’”P.. ・・…. ’”●”●’P.. 3.本岡中隊(第1次神戸中隊)の主な動向 … P. 4.兵庫県内の義勇軍動向 ・・・・・・・・… P. 5.兵庫県内学校史に見る義勇軍関連記述 ・… P.. 109 109 109 110 1 12 114 117 120 122 130 130 136 139 145 147 154 154 158 169 169 177 177 178 179 183 187 195 195 201 P. 203. 205 206 207 208 211.
(4) 序章 研究を始めるに当たって 1.研究動機 1981(昭和56)年から厚生省i援護局が中心となって進めてきた、中国. 残留孤児の肉親捜しは、本年10月で既に第27次に及んでいる。関係者の 高齢化や記憶の風化が進行する中で、肉親判明率が低下の一途をたどっ ていることは、報道されている通りである。そして、教育現場でも、肉 親や知人を頼って日本での定住を目指した、それらの人々の子女の受け 入れが進んでいるが、それは、報道で見受けられるよりもはるかに多数 に上っている。. 神戸市立神陵台中学校は、中国帰国孤児子女教育研究協力校の指定を 受け、中国で生まれ育ち、日本に引揚げてきた生徒が数多く在籍してい る中学校であった。しかし、言葉の違い、文化の違い、熾烈な受験競争 など、彼らの前には短期間での克服が、必ずしも可能とは言えない大き な壁が立ちはだかっており、その前途も明るいものばかりではない。彼 らの大部分は、中国東北区(以下「満州」の呼称を使用する)の出身者 であったが、日本での新しい生活に希望を託して引揚げてきたものの、. 個人の努力ばかりでは、解決不可能とも思われる問題にも立ち向かわな ければならない彼らを目の当たりにすると、我々は余りにも「満州」へ. の理解が不足しているという結論に到達し、それ以来約7年間、脳裏の 片すみにそのことが巣くって離れることがなかった。それが本研究の出 発点である。. 昨年は戦後50年を迎え、ある意味での節目の年であったが、先に述べ たように、全国の中国帰国孤児子女教育研究協力校では、教師たちが半 世紀を経過してなお残されている「戦後処理」に取り組んでいる。取材. 1一.
(5) の中で多くの方から、満州開拓の悲劇は、戦前の教育に大きな責任があ るとの指摘を受けた。とりわけ、一般開拓団よりも満蒙開拓青少年義勇 軍(以下、義勇軍と略称)についてはそれがあてはまり、そこに、教育 と義勇軍との関わりを考察することの意義も認められる。. 本研究は、義勇軍についての解明が遅れていると思われる兵庫県を取. り上げた、第3章を中核としている。中でも、義勇軍送出に果たした学 校の役割を検討し、神戸市から1944(昭和19)年に送出された、「第1 次神戸中隊」 (通称本岡中隊)についての、編成から送出に至る経過を. 解明しようとする、第3章第4節に力点を置いた。 確かに、戦前の日本にあっては、多くの教師たちが軍国主義教育の尖 兵と化したことは否めない。しかし、当時の教師たちのすべてが、何の 疑間もなく教え子を満州に送り出したと断定するだけの材料も、現段階 では持ち合わせていない。彼らの中にはそうすることに疑問を持ち、苦 悩した者も必ずや存在したであろうと思われる。それが解明されたとし て、教育の責任が免責されるなどとは考えていないが、真相が明確とな った時点で、私の評価も定めたい。. 研究に当たっては、第1章および第2章は、主として既刊文献資料に 頼り、第3章は関係者への聞き取りと兵庫県、神戸市関係の公文書類の 検討を中心に構成することを目指している。聞き取りについては、関係 者の記憶などに、不正確な点が出てくると予想されるが、戦災で消失、. 散逸した資料を補う意味と、関係者の高齢化が進行して、今後そうした 証言が埋もれてしまうという危険性を合わせて考慮すると、史料的価値 は決して小さくないと判断したため、他の史料とも照合しながら、必要 に応じて敢えて取り上げた。また、兵庫県内各学校の創立記念誌にも多 くの事実が記録されており、研究の参考とした。. 一2.
(6) 2.先行研究の分析 満州移民研究の集大成とされるr日本帝国主義下の満州移民』 (満州. 移民史研究会編龍漢書舎 1976)は、開拓自閉会所蔵の極秘文書など も収集、検討した、貴重な研究書である。その「あとがき」では、残さ. れた課題の1つとして、義勇軍が満州移民事業において果たした役割の 検討をあげている。また、本書は移民を経済学上の課題として捉えよう とする分析が中心となっているため、教育という視点とは別の研究とい える。とはいえ、第1章の政策立案過程などは大いに参考となる。 現在、義勇軍研究の第一人者は白取道博氏であろう。氏は、横浜国立 大学教育学部助教授であるが、1980年代後半、北海道大学教育学部博士 課程在学時から、同大学教育学部紀要に詳細な分析を加えたな論文を立 て続けに発表しており、現段階では氏の水準を超える義勇軍研究を我々. は共有していない。また、r満蒙開拓青少年義勇軍関係資料集 全 7 巻』 (不二出版 1993)の編集を手がけるなど、その考察は、単に教育. 史のみにとらわれない、多角的、総合的な検討で、注目の若手研究者で ある。. 義勇軍を取り上げたもので、最も初期に属すると思われる著作物に、 上笙一郎氏のr満蒙開拓青少年義勇軍』 (中公新書 1972)がある。こ. の中には、当時は未発掘であった「満州国開拓地犯罪概要」も収められ. ており、義勇軍を考える上では欠かせない1冊であるが、これに対する. 反論の形で出された、森本繁氏の、rああ、満蒙開拓青少年義勇軍』 (家の光協会 1973)は、関係者の目で克明に義勇軍の姿が描かれてお り、その中には関係者しか知り得ない事実もある。. また、教育(或は教師)と義勇軍との関係を主題に置いたものには、 陳野守正氏のr先生、忘れないで!「満州」に送られた子供たち』 (梨. 一3一.
(7) の三社 1988)や櫻本富雄氏のr満蒙開拓青少年義勇軍』 (青木書店. 1987)などがあるが、大部分の先行研究は、教師が義勇軍送出の最大の 加害者であるという論調が主流であり、これらは、国策の末端に位置し. た教師に対して、過重な責任を負わせているのではないかと感じてい る。. したがって、本研究では義勇軍送出について、教師の置かれた状況を 検証するとともに、教師の義勇軍募集活動は、国策の中にどう位置づけ られたかを考察しながら、義勇軍と学校或は教師との関連を探って行き たい。. 3.問題の所在 兵庫県において、従来から、満州移民についての研究が少ないのは、. 一般開拓団の送出が全国的に見て下位に位置していることが原因となっ ていると見られる。しかし、義勇軍について見れば、その送出数は47都 道府県の中では中位(15位)にあり、1944(昭和19)年に限定すれば、. 長野県、広島県、岡山県に次いで全国4位の送出数を記録している。こ の事実は、一般開拓団送出の低調さに比較するならば、極めて特異な現 象であると言わざるをえない。. そこで、本研究では、先に挙げた義勇軍と学校或は教師との関連に加 えて、全国的な動向を考慮しつつ、兵庫県における1944(昭和19)年の 送出数急上昇が、いかなる背景によってもたらされたかという諸事情の 解明をも合わせて目指したい。. 一4.
(8) 第1章満州移民政策の展開 第1節 満州移民構想の先駆者 とうみやかね お. 1.東宮鐵男 東宮鐵男は「満州開拓の父」とも称され、加藤完治と並んで開拓を推 進した中心人物であるとされている。彼の大陸への関心は、シベリア出 兵に従軍した時期に芽生えたものと見られる。それはもう一人の先駆者. である加藤完治がデンマーク視察後、シベリア鉄道経由で帰国した時 に、広大な未墾地に着目した点と偶然にも一致し、その時期も近い。た だ東宮は、私費留学先として中国(広東)を選んでいることや、奉天独 立守備隊勤務の頃に、満鉄系の実業補修学校において、中国語を学んだ ことでも、彼の関心は早くから中国にあったことが理解できる。彼は、. 満州では広東語が役に立たないことがわかり、勤務の合間に同僚と夜学 に通う生活を続けたが、彼がなぜ中国に注目し、こだわったのかは明確 ではない。しかし、部下の除隊兵で帰国の必要のない者は、現地の榊原 農場などに就職を斡旋していることや、自身も軍を離れた場合は、満州 で農業に従事することを希望していた点などから、大陸での農業に対し て人一倍強い関心を抱いていたことは間違いない。. 後に作成される東宮の移民計画は、榊原農場経営者である榊原政雄の 影響が強く出ているものと思われる。東宮は榊原から、. 鮮農を使用するのがい)・・。わしは鮮農を使ったが、とにかく満洲に. 来る鮮農はよく働くし、支那人では水田は駄目だ。どうもうまくいか ん。鮮農を使って大規模にやれば瀦かる仕事ぢや。日本人も駄目だ。 日本人は監督すればいい(、)。. 一5一.
(9) との言葉を耳にしていたから、移民計画を練る際に、このことばが念頭 にあったものと思われる。榊原については、. 榊原政雄は山形県人で、明治四十四年満洲日々新聞社の記者となっ て渡満したが大正元(1912)年奉天搏豊農場の経営困難となったのを 買収経営し榊原農場と改称した。博豊農場は一万四千町歩という彪大 なものであったが、榊原はそのうち水田百町歩、畑六百余町歩を経営 し日本人小作人8戸、朝鮮人小作人20戸、支那人小作人70戸を収容し て、農学士入江一郎が監督指導した結果極めて有望な農場となったの である(2)。. と紹介されるように、彼は、満州での農業経営において成功を収めた、. 数少ない邦人の一人であった。この榊原農場をめぐって中国側との問に しばしばトラブルが起き、関東軍がこれに関与することもあったとされ ている。後に東宮の強力な後ろ盾となる石原莞爾との関係も、榊原農場 をめぐって生まれると想像され、事実、二入は同農場を何度か訪問して いるため、そのどこかで面識が生まれ、移民についての意見交換がなさ れたのであろう(3)。. 先の榊原発言を見ると、昭和初期には、既に朝鮮人移民もかなり満州 に来ていたことや、水田農業に関しては相当の実績を挙げていたことな. どが理解される。後に渡満した一般開拓団では、作物の選定に当たっ て、 「水田農業は朝鮮人の独壇場(4)」であるとして、米の栽培は見送. り、他の作物を選んだという記録も残っているため、冷涼な気候の満州 でも、場所によっては水田農業が十分可能であった。 「朝鮮人の独壇 場」となったのは、おそらく技術面ではなく、人件費を含めた経費や価. 一6一.
(10) 格面で、日本人が対抗できない状況にあったことを示すものと考えられ る。しかし、榊原農場のある奉天は、満州では南に位置しており、北満 での計画には当然不向きである。後に、満州での移民計画は、対ソ戦略 に関連して、北満及び東野を重視する方向に進んでいくが、この時期の 東宮の構想には、男子への日本人農業移民に対する意識は少なかったも のと思われる。. 東宮の名は、満州移民よりも、 「張作森暗殺事件」を現地で指揮した ことにより、歴史に残ることになるが、. (前略)昭和四年東宮が張町勢暗殺事件の関係者として満州より放 逐される運命にあったとき、当時、岡山の歩兵第十連隊長の小畑(敏 四郎)が荒木貞夫の後盾を得て、東宮の身柄を預る恰好で歩兵第十連 隊の中隊長として岡山に呼んだ。小畑はやがて参謀本部の作戦課長に 転じ、東宮の満州派遣に力を貸すことになる(5)。. とあるように、一旦、中国から帰国した後、岡山時代の上官であった小 畑大佐のはからいで、再び中国勤務に着くことになる。岡山での勤務は. 約2年程であるから、ほとぼりを冷ますといった意味があったものと理 解される。東宮を再び中国に呼んだのは石原であったとする説もあり、. だとすれば、石原から小畑に対して何らかの示唆があったと考えるのが 妥当であろう。. この時期は、加藤完治が満州事変後の好機をとらえて、内地で積極的 に要人との接触を試みた時期と奇しくも一致しており、また、関東軍の 他には、満鉄地方農務課においても邦人移民案が練られた時でもある。. 結果的には、満鉄の移民計画は関東軍の移民計画に吸収される形で成案. 7一.
(11) となるが、内地案、満鉄案、関東軍案が混在し、統一的なものになって. いないのが1932(昭和7)年2月頃の特徴であろう。しかも、それから. 一か月も経たない3月18日には、非公式ながら石原から東宮に対して 「吉林軍屯墾化構想研究」の指示があったとされることは、若干ながら. 理解に苦しむところではある。関東軍参謀の石原が、軍の構想とは別の 構想を持っていたということであろうか。. 推測の域を出ないが、石原の計画は、その名称のように「吉林軍」 (以下「 」を略す)の門下化を目指すものであり、日本人移民計画と は別のものであったはずである。吉林軍については、. 満州事変後、吉林省の独立を強要した関東軍に対して、参謀長・煕 治は関東軍に協力をしたが、それに対して、依蘭駐屯歩兵第24旅長・. 李杜や、喀爾浜賢路軍指令兼歩兵第28旅長・丁超らはこれに反旗を翻 し、これを反吉林軍と呼んでいる(6)。. と説明されている。関東軍は吉林軍の他に、協力的な軍閥(馬甲山ら). とも結んで、反吉林軍の討伐を画策し、吉林軍の北上が開始されたのが. 1932(昭和7)年1月9日であった。東宮が吉林軍軍事教官長に着任し たのは、この時期のことであるが、吉林軍は「軍」とはいっても、寄せ 集めであり、しかも、もとをただせば匪賊同然の者を武装させたにすぎ. なかった。そのため、彼らを指導する教官として内地より6名の軍人が 呼び寄せられることになるが、その長が東宮であった。. この人事は、東宮がかつての上司であった小畑に満州行きを強く要望 していたことと、石原が東宮の満州独立守備隊での経験と、語学を評価 してのことが重なって実現したものであろう。吉林軍の北上は予想を超. 一8一.
(12) える速さで進み、帰1頂する勢力が急激に増加を見せたから、石原は、膨. 張した吉林軍を放置すると、再び匪賊化する可能性を懸念したのであろ. う。そのような背景があって、3月18日に石原から東宮に内密の指令が 出たものと考えられる。 東宮の案は、. 在郷軍人を以て吉林屯墾軍基幹隊を編成し吉林省東北地方に永久駐 屯せしむる件意見具申. 昭和七年六月十日. 東宮大尉 関東軍参謀長殿 、目的. 一、現在依蘭駐屯中の日本軍に代えその任務を永久に続行 す 二、吉林軍の屯墾作業(化兵為農資源開拓)の実施を可能 ならしむ 三、帝国対露国防に供す 四、之が掩護の下に多数の鮮人の移住を行なう 五、為し得れば之が掩護下に内地人の移住を行なう (以下略)(7). というものであった。したがって、東宮構想では、邦人は在郷軍人から 選び、彼らを傘下にある吉林軍の指揮者としている点が特徴で、決して 後に実施される満州移民とは同一のものではない。東宮は榊原の話に納 得したように、自身は邦人移民に否定的であり、加藤と会った時も、そ. 一9一.
(13) の可能性に疑問を投じていることからも、東宮案自体を満州移民計画の 母体とすることには少し無理があるのではないかと思われる。東宮案は あくまで治安対策優先のものであり、実際は、東宮の計画に対して、ど のような形であるにせよ、邦人移民を送り出したかった加藤完治が、そ. れに載ったというのが事実に近いのではなかろうか。第1次と第2次移 民の実施にあれほど奔走した東宮であったが、第3次からは、拓務省が. 主管官庁となって全国的な活動を開始したため、それ以降の満州移民 は、東宮の手を離れることとなる。. 東宮案では、移民の入植先も牡丹江以東の下県となっており、後に義 勇軍の訓練所が配置される場所がさらに北であったことを考えると、北 満への入植を当初から想定していたのはやはり関東軍、もしくは石原だ ったと考えるべきであろう。もちろん、吉林軍の掃討作戦が北満まで及 べば、治安対策としての入植は検討したであろうが、少なくともこの時 点の東宮案には、それが明確であったとは言えない。 しかし、東宮は入植地の選定に関して、. 移民するは既耕:地附近では駄目だ。自分で自分の土:地を開令するん. だ。都市文化の誘惑を避けるためには人口希薄、交通不便の地域がい いんだ。 (中略)先住民との摩擦は避けなければいかん。単に産業開 発増産ということだけでは土着心を養うものではないのだ(8)。. と発言しており、その考えは第1次移民の入植地となった永豊鎮の選定. にも影響したものと思われる。ただ、この発言は、1933(昭和8)年3 月末に出された、「(現地住民に対して)一人当り5円の立退料を給す る(g)」との決定とは矛盾しており、入植すべき土地の確保が思うよう. 一一. @1 O 一一.
(14) に行かない上での窮余の一策が、現地人への立退料支払いによる解決に 向かわせたのであろう。. 東宮の計画は、加藤案との違いはあるものの、先の発言の中にも出て くる、 「土着心」という発想などは、加藤と共通するものであり、二人. の意見には、一致点も少なくなかった。その東宮は、満蒙開拓青少年義 勇軍にも大きな影響を残したのであるが、その経緯については次章にお いて検討する。. 2.加藤完治 (1)満州事変以前の加藤 満州開拓の推進にあたって東宮以上の貢献があったと思われるのは、. 既にその名前が何度か出てきた加藤完治である。東宮鐵男は1937(昭和. 12)年11月4日に北支で戦死するため、試験移民期から敗戦までの全期 間にわたって満州移民に深く関与したのは、加藤だった。. 加藤の略歴を示すと、1884(明治17)年東京生まれ。府立一中を経て 第四高等学校(金沢)から東京帝国大学工学部入学、途中、農学部に編. 入し、卒業後、内務省及び帝国農会嘱託となるが1年で辞めた後、1913 (大正2)年に愛知県立安城林農学校に赴任、1915(大正4)年には山 形県立自治講習所に所長として招膀されたのが30歳の時であった(、・)。. 彼の人生の中でとりわけ特徴的であるのは、その思想の変化である。 第四高等学校時代にはキリスト教に入信し、熱烈な信者となったほか、. 西田幾多郎にも傾倒した。東京帝国大学時代は、トルストイに強い関心 を抱いて、東京の貧民窟に出入りしたとされるほか、安城農林学校時代 には覧克彦(東京帝国大学法学部教授)の古神道を熱烈に信奉し、キリ スト教を捨てる。それらの経歴から、彼が大学時代に農学部へ編入した. 1 1.
(15) ことは、彼の中に芽生えた「農」への関心がそのころのものであること を示しており、覧克彦の古神道が、転変を繰り返した彼の思想の到達点 であったことが理解できる。多くの加藤論は、山形県立自治講習所長時 代に、「耕すべき土地がない者はどうずればよいか」と生徒に泣きつか. れたことを、彼の満州植民論の動機と見ている。しかし、桑島節郎氏 は、加藤が東京帝国大学在学中に籍を置いた「尚農会」における、およ そ熱心なキリスト教徒とは思えない強硬発言から、彼の満州植民論の源 流は学生時代に遡るとの論を展開していることは注目に値する(、1)。. 加藤の現実的な行動は、1921(大正11)年のデンマーク視察以降とな る。帰国の際にシベリア鉄道から見た広大な土:地が、彼に大陸進出を決 心させることとなった(、2)。デンマーク行き自体が、国民高等学校視察. を主目的とするものであったが、石黒忠篤(後の農林大臣で日本国民高 等学校設立時は理事長)が渡欧費用を捻出したとされることからも、帰 国後の具体的動きが折り込み済の視察であったことが理解できる。. 加藤の具体的行動の第一歩は、1925(大正15)年に山形県立自治講習. 所生を中心とした10名を、朝鮮に送り出すことであった。1927(昭和 2)年2月には、石黒の設立した日本国民高等学校の校長に招かれたこ とで、大陸への移民送出準備が実質的に整ったと見られる。この日本国 民高等学校は、後の満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所の母体となり、義 勇軍送出の中核施設となるものであるが、詳細は次章に譲る。. 加藤の準備は、この段階で出来上がるといえるが、足りなかったのは. 大陸進出の大義名分であり、その加藤にとって1931(昭和6)年に起き た満州事変は、かねてから描いていた移民送出の絶好の機会となった。 彼の行動は、この直後から極めて能動的になる。. 一12一.
(16) (2)満州事変以降の加藤. 加藤の行動が積極化するのは、1931(昭和6)年の年末から、翌年の 年始であるが、大きな障害となったのは、巷間に充満する「満州移民不. 可能論」の存在であった。そのため、政界と学界への働きかけによっ て、それらを克服することに活動の重点が置かれる。. 1932(昭和7)年1月2日には、荒木貞夫陸軍大臣と面会する。加藤 は角田一郎予備役陸軍中佐を同行していた(13)。席上、荒木陸相から過. 去の実績を根拠に、日本人による満州移民の可能性が薄いことを指摘さ れた加藤は、. 「それがすなわち迷信です。あの時の移民計画が失敗に終わったの は失敗すべき理由があって失敗したので何も怪しむに当たらない。私. 等がこれから断行せんとする移民計画に従えば決して失敗はない (i4)o J. と強気の反論を述べた。その後の二人の間には、. 荒木「解った。それなら君、満蒙に移住する人の準備ができるか」. 加藤「その方は引き受けますから大臣の方では農業に必要な土地家 屋の準備、それから匪賊の防備に必要な武器、多少の経営資金 および医療設備等をお引き受け願いたい」 荒木「よろしい承知した。まあ雑煮でも食べて行き給え」(、5). とのやりとりがあった。加藤と角田の二人は、「官邸を上首尾で辞去し た」と記されているから、加藤にとっては、この会談は満州移民実現に. 13一.
(17) 向けて実りの大きいものだったと思われる(、6)。. この後の数日間に加藤が接触した政界、学界の実力者には、斎藤実枢 密顧問官、石黒忠篤農林次官、那須皓東京帝国大学教授、古在由直東京 帝国大学総長らの顔ぶれが並んでいる。中でも、古在総:長は加藤と師弟. 関係にもあり、当時の日本農学界の元老とも称される人物であったが、. その古在が、加藤の執拗な説得によって満州移民可能論者に転じたこと は、彼にとって大きな力となった。先に、加藤の障害は政界と学界の双 方にあったことに触れたが、荒木陸軍大臣の了承と、師である古在総長 の翻意は、二つの障害を一気に除去するものであった。. 1月26日には、加藤、石黒に宗光彦を加えた3名が、拓務省で講演を 行なっている。宗光彦は当時、満鉄公主嶺農業実習所長で、後に第2次 移民団長に就任する人物である。拓務省での講演の目的は、省内の不可 能論の克服にあったが、その実現は、石黒の力によるところが大きかっ たであろう。この時の収穫は、管理局長生駒高常が協力者となったこと だった。生駒は政策面における加藤の有力なブレーンとなる。. 加藤が最初にまとめた移民計画は、「満蒙植民事業計画書」であっ た。加藤の他に、石黒、宗も協議に加わったが、実質的には加藤案と呼 んで差し支えない。その一部を引用する。. 満蒙植民事業計画書 一、趣旨. 満蒙植民ハ今が千載一遇ノ絶好機会デアル何デモー刻モ早ク而モ 出来ルダケ多ク彼ノ地二植民スルコトハ我国ノ現状二照ラシテ最 重要ノート確信スル。ソレデ次ノ如ク満蒙植民事業ヲ計画ス。但 シ之ハ第一期計画デアツテ年ヲ追ツテ事業ハ続行拡張シ、五十年. 一14.
(18) 後二満蒙在住日本人ヲ最小限五百万人二達セシムル事ヲ目標トス ル。. 二、移民ノ募集 在郷軍人ヲ主体トシテ全国的二募集スル。. 募集人員ハ植民幹部三百名植民者六千名トシ、昭和七年度ハ主ト シテ東北、北陸、関東地方二於テ募集ノ事トスル(、7)。 (以下略). 上記計画は、在郷軍人で移民団を編成するという点で、1932(昭和. 7)年から1933(昭和8)年にかけて実施された第1次及び、第2次移 民の原形であり、後に議会に提出された拓務省案も、加藤案をほぼ踏襲 したものであるから、その意味においては、「武装移民」とも称される. 第1次、第2次移民の生みの親は加藤だった。また、目標とする人数 も、後に国策化される「20ヵ年100万戸500万人移住計画」と一致してい. ることも見逃せない。さらに本計画書では、移民の内地教育、現地教 育、寄宿生活方式の訓練に加え、期間を設けての訓練生受け入れ計画 (これは多分に施設の整備状況によると考えられるが)も盛り込まれて おり、これらは満蒙開拓青少年義勇軍送出の雛形と見ることもできる。. 対象年齢を下げさえずれば、本計画書は満蒙開拓青少年義勇軍計画と大 筋では一致するものであるから、日中戦争の開始に伴って、一般成人移 民の確保が困難に陥った時に、年少者による満州移民構想が浮上してく るという流れは、かなり早い段階で準備が整いつつあった。. この計画書の公表から約2週間後の3月12日には、満鉄総裁社宅にお まみあな. いて官界、学界、財界の主要な顔ぶれが揃って、「狸穴会議」が開かれ ている(、8)。拓務省主催とされる同会議は、直後に開催予定だった、第. 1 5一.
(19) 61臨時議会への移民送出予算案提出を目指したものであった。加藤はこ の会議直後に渡満する。加藤としては、政界工作に一応の目途がつき、. 次なる課題である入植地の確保にかかる必要があったからである。既 に、関東軍からは好感触を得ていたから、目的の達成には自信を持って いたであろう(、9)。. しかし、加藤は渡満途中の朝鮮で、移民送出予算案が閣議において否 決されたことを石黒からの電報によって知らされる。加藤の計画はこれ によって頓挫するのであるが、それが再び日の目を見るまでには、それ ほどの時間を要しなかった。. 3.石原莞爾 満州移民の先駆者としてもう一人、石原莞爾の名を挙げなければなら ない。石原は1889(明治22)年山形県鶴岡市生まれで、1941(昭和16). 年3月に退役するまで、陸軍の中枢部を渡り歩いた、日本陸軍有数の戦 略家であった。彼は、1902(明治35)年に仙台陸軍幼年学校に入校した が、仙台陸軍幼年学校は、後に昭和の陸軍に強い影響を与えた人物を多 く輩出している(2。)。東北地方の農村の窮状を身を持って体験した彼ら. には、満州移民計画が潜在的にではあるにせよ、生み出されやすい状況 にあったと考えられる。. 石原は仙台陸軍幼年学校を首席で卒業した秀才で、陸軍士官学校卒業 時の歩兵科における彼の席次は第6位であった(2、)。横山臣平氏はそれ を意外な結果とし、. (石原は)学校に於ける態度や服装などに欠点が多く、その上相手. により真面目さを欠き、区隊長を侮辱するような言動が多かったの. 16一.
(20) で、区隊長の採点する術科と品行点に峻烈さが加えられたこともあっ たと思う〔22)。. との石原評を述べて、本来の首席は石原であってもおかしくはなかった ことに言及している。事実、陸軍大学校卒業時には首席となったが、そ こには後年の「自信家」石原の人間性が、規律厳しい陸士時代にして、. 既に発揮されていることが読み取れる。その自信家ぶりは、ある意味で はそれを嫌う上官もいたが、彼の履歴を見ると隊附きの期間は極めて短 く、ドイツ留学や陸大教官、参諜などの勤務歴は、彼に対する評価を無 言のうちに表している。. 石原と満州移民計画との直接的関係は、彼の、1928(昭和3)年10月. 関東軍参謀(旅順)への転出以降と見られる。1932(昭和7)年8月1 日に兵器本部廠附きになるまでの約4年間に、東宮や加藤らの強力な後 ろ盾となるのであるが、彼自身の移民構想は明確にはなっていない。と いうより、石原の計画の全体像は、陸軍増強計画(17個師団体制を36個. 師団体制に増強)、満州産業開発5ヵ年計画(鉄鋼年産2500万tなど) や、世界暦終戦論といった壮大なものであり、移民計画などはその一部 に過ぎなかったと言うべきであろうか。. 石原が東宮鐵男を知るのは、関東軍参謀として旅順に着任した後のこ とと推定される(23)。関東軍参謀時代の石原は、. 満州移民の慶先権を、直接事変に参加した仙台師団の除隊兵に与え るよう規定した(24). とされるから、邦人移民の満州送出に対しても積極的な見解を持ってい. 1 7 一一.
(21) た。したがって、東宮も何らかの形で、石原が満州移民に積極的である. という感触を持っていたのであろう。石原が関東軍に着任したのは、 「張即下爆殺事件」からそれほど間もない時期だったから、事件を現場 で指揮した東宮の存在については、石原も認識していたに違いない。. 加藤完治が悲願の満州移民の実現にむけて、日本国内で活発に行動し ていた頃、奉天では関東軍統治部主催の「満町政策諮問会議」が開催さ れている(25}。石原はその席上で、委員として会議に参加した那須皓、. 橋本傳左衛門の両名から加藤の存在を初めて知らされるが、それは、移 民計画が各方面で別々に検討され、この時点では、統一的な動きには至 っていないことを物語っている。しかし、片倉参謀の、. 「関東軍においては最初から満州の移民をやるべきか、やるべきで はないとか、やれるか、やれないかなどということをかれこれ迷った ことはない(26)。」. との発言にも見られるように、同会議は、移民に関してはその可否を諮 問するものではなく、実施方策の検討を目指したものであった。. 那須や橋本が委員として選ばれたということ自体が、意図的人選であ ったことを感じさせるが、両名の満州移民即時断行論は、当然ながら軍 部に歓迎された(27)。会期中のある日の夜、板垣、石原両参謀は、那 須、橋本の宿舎を訪ねて、両名からさらに詳しく意見を聴取したばかり でなく、加藤の存在を耳にした石原は、. 「そんな訳なら、場合によっては日本国民高等学校に対し移民に必 要な土地と建物を提供してもよい(28)。」. 一18一.
(22) と発言したとされている。この石原発言は時を置かずして加藤に伝えら れたであろう。加藤が移民実施に向けて、内地での工作に一応のめどを. つけた3月に渡満するのは、石原に対して、発言の確認を取ることが重 要な目的であったと考えられる。土地建物の提供をほのめかした石原の 言葉は、加藤にとっては願ってもないものであったが、いかに関東軍参 謀とはいえ、会ったこともない石原に対して、多少なりとも疑念を抱く のは、むしろ当然かもしれない。途中、朝鮮滞在時に、移民送出予算案 が閣議において否決されたことを知った加藤が、平明を中止しなかった 事実を見ても、彼の甲子の目的が、石原との接触にあったことは疑いな い。. 石原は加藤に極めて好意的に接し、北大営を提供すべく加藤を本庄繁 司令官に紹介したが、同司令官から提示された条件は、加藤にとっては 比較的簡単なものであった(2g)。この土地は日本国民高等学校北大営分. 校となり、現地での加藤の活動拠点となった。. その直前の1932(昭和7)年3月18日に、石原は東宮に対して「吉林 軍門墾化構想」の研究を非公式に指示したことから考えると、石原の構 想中にあった邦人移民計画と、東宮に指示された構想とは、本来は独立 したものであった。関東軍内に統治部が発足したのは満蒙政策諮問会議. の約1ヵ月前であるから、統治部では当初から移民問題についても準備 を進めており、2月に決定された「移民方策案」を見ても、. 即ち新国家は朝鮮人に対しては其特殊の技能に依る水田の開発を委 する外多きを望むべからず(3・)。. と規定していることからも、関東軍は、邦人移民にはその他の期待を持. 一19 一一.
(23) っていることが言外に表明されている。軍の持つその他の期待とは、対 ソ戦略上のことを指す以外には考えにくいから、石原構想でも、邦人移 民と、吉林軍勢墾化計画は、その名が示すように別々のものであったは ずである。事実、関東軍がその直後に作成した移民案でも、 「日本人移. 民案要綱」と、「屯田兵制移民案要綱」とは独立したものになっていた から、石原の構想とも大筋において一致している。. しかし、実施の段階においてはそうした区別はないから、治安と対ソ 戦略を主目的とする北満への屯田兵制移民を、当面は吉林軍の屯墾化に. よって進めるという考えを石原が抱いていたとすると、2つの計画は統 一が可能なものだったと言える。 「日本人移民案要綱(3、)」では、東支. 線を境界として、それより北を屯田兵移民の入植地とし、東支線以南は 普通移民の入植先として分割しているが、先に見たように、南満には朝 鮮人移民の水田農業が相当広がっていたから、計画の主力は、北満への 入植にあったと考えて間違いない。しかし、加藤には北満への入植とい う考えは無かったらしいから、同じ満州移民計画とは言うものの、加藤 と石原の考えには、かなり違いがあったと見てよい(32)。. 一方、東宮は石原からの非公式な指示に対して、約3ヵ月後に意見具 申書を出し、それが「在郷軍人を以て吉林屯墾軍基幹部隊を編成し吉林 省東北地方に永久駐屯せしむる件意見具申書」となって橋本虎之助関東 軍参謀長に提出されたことは、既に見た。しかし、具申書は時期尚早と いうことで、石原のもとに返されてしばらくは眠っている。再び日の目. を見るのは、加藤が6月下旬に渡満して以降である。加藤が再度渡満し たのは、入植地を確定することが目的であった。加藤の計画が、3月の 移民送出予算案閣議否決で一旦は頓挫したことには触れたが、彼が再び. 活発に活動するのは、直前の6月15日に「満州移住地および産業調査に. 一20一.
(24) 関する経費」が議会で承認され、調査班が渡満する前に入植候補地を絞 る必要が生じたからである(33)。. 加藤は石原を介して、1932(昭和7)年7月14日に東宮と初めて会見 するに至る。石原の机で眠っていた東宮の計画を見せられたことが会見 のきっかけとなったのであるが、この会談の実現は、満州移民にとって 歴史的なものとなる(34)。橋本参謀長の承認の出なかった計画案を、加. 藤に提示した石原の意図はどこにあったのかはいささか測りかねるが、. 東宮の「男呼軍案」には板垣高級参謀、多田満州国軍政部最高顧問 らとともに本庄軍司令官も賛成していた。石原は手を回して荒木陸相 にも非公式に連絡して了解を得ていた(35)。. とされているから、石原自身は、この計画の実現に強い確信があったの であろう。桑島節郎氏は「上官をへとも思わぬ石原のいかにもやりそう なこと」とこれを評している。. この、加藤・東宮会談によって、満州移民決行に加速がつくのである が、ここまで見たように、加藤、石原、東宮の描いた満州移民はそれぞ れ異なった計画であった。それは、国内農村対策を念頭に置いた加藤、. 対ソ戦略の観点に立つ石原、治安上、邦人移民に否定的な東宮の考えを 比較すれば、一目瞭然である。しかも、できあがった計画は、石原が橋 本参謀長を飛び越して、上層部に了解を得ていたものとも、若干の違い があったから、本来、意見の一致を見い出すことが困難であった。しか し、結果としてまとまった計画となったのは、東宮の妥協によるところ が大きい。また、この会談によって、加藤は内地で、東宮は現地でそれ ぞれ満州移民決行に向けて奔走し、それを石原が支援するという役割分. 一2 1 一一.
(25) 担ができたことは、大きな成果と評価でき、3人が満州移民構想が現実 のものとなる過程において、それぞれに重要な役割を演じる準備が整っ たといえる。. 満州移民計画が、一民間人に過ぎない加藤完治と、軍人とは言え関東 軍という言わば出先の軍隊からさらに吉林軍に出向していた一大尉の身 分であった東宮鐵男という、およそ国家の政策決定からは程遠い位置に 居たと思われる二人によって練られたうえ、短期間のうちに政策として 実施が可能となったことは、理解に苦しむことの一つではあるが、それ だけに石原の援助は小さくなかったと考えられる。. また、この時期に移民計画が急展開した現地の事情には、石原の転出. があったと思われる。石原は1932(昭和7)年8月1日付で兵器本部廠 へ移っているが、転出後も間接的に満州移民に関わり続けている〔36)。. したがって、石原は満州移民の誕生段階だけでなく、展開期にも陰なが らの影響を発揮し続けたことだけは間違いなく、実質的には演出者の役 割を果たしたといえるのではなかろうか。また、結果的に見て構想を描 いた石原が、後に東条英機との確執で左遷され、予備役となって軍を離 れてしまったことは、終末期、あるいは敗戦後の満州移民政策に少なか らぬ影響を与えたと考えられる。. 註 (. 1)梁瀬春雄 r東宮大佐傳』 (新紘社 1939) P.66. (. 2)満州開拓史復刊委員会編 r満州開拓史』 (全国拓友協議会1980)P.11. (. 3)前掲 r東宮大佐傳』 P.159. (. 4)三根生幸也 r赤い夕陽愛媛の元満州開拓団記録』 (愛媛新聞社 1973) P.26. (. 5)桑島節郎 r満州武装移民』 (教育学歴史新書1979)P.85. 一22 一一.
(26) ( 7). 前掲 r満州開拓史』 P.52. ( 8). 前掲 9東宮大佐傳』 P.210. ( 9). 前掲 r満州開拓史』 P.100. (1 O). r現代人物事典』 (朝日新聞社 1977) P.331. (1 1). 前掲 r満州武装移民』 P.24. (1 2). 武田清子氏は、論文「加藤完治の農民教育思想国民高等学校運動と満州開拓団」の中で、. この頃から加藤は国際的社会主義ともいうべき土地再配分の思想を強く持つようになった らしいと指摘している。. (r国際基督教大学学報教育研究11』 1965P.75) (1 3). 前掲 r満州開拓史』 P.37 角田中佐について若干の説明を加えると、山形県東村山郡大郷村出身で、前年10月に自 らの移民計画である「満蒙経営大綱」を持って上京したが、日の目を見ず、年末に再上京 した時に加藤と出会い、荒木陸相訪悶に同行した。. (1 4). 同 上 書. P.38. (1 5). 同 上. (1 6). この点について、武田清子氏は、前掲論文の中で、. 当の荒木貞夫氏は、こうしたことは全然記憶していないと発言していることに言及してい. る。(P.78)武田氏は荒木元陸相から直接聞いたこととしており、満州開拓史のこの 記述とは大きな矛盾が存在する。荒木陸相は、加藤との会談で満州移民決行に協力を確約 したということではないとすれば、荒木の官僚的な返答を加藤が確約と受け取ったのであ ろうか。いずれにせよこの会談の成果ついて、二人の間に受け取り方のギャップが存在し ていたことは確かであろう。 (1 7). 前掲 r満州開拓史』 P.41. (1 8). 満鉄総裁社宅が東京麻布狸穴にあったことからそのような名称が冠された。. 一 2 3.
(27) (19) 1932(昭和7)年1月15日から奉天で開催された、関東軍統治部主催「満蒙政策諮 問会議」に参加した那須皓と橋本傳左衛門が加藤完治の存在を関東軍部内に知らしめてい たことを指す。. (20)前掲 r満州武装移民』において、著者は 板垣征四郎、土肥原賢二、多田駿、根本博らは入校の時期に多少の差はあるものの、石原. 莞爾と同窓といって良いと指摘し、「満蒙経営大綱」を作成した角田一郎(S7当予備役 大佐)もこの学校の出身者であったことにも触れている。. (21)横山臣平 r秘録石原莞爾』(芙蓉書房1971) P.81 (22)同 上 (23)東宮の稿で見たようにr東宮大佐傳』には、時期は明確ではないものの、たまたま列車に 同乗した石原に、東宮がいきなり移民の話を持ち込む場面が記述されている。おそらく、. 榊原農場を訪問する際に生まれた接点であろう。. (24)前掲 r秘録石原莞爾』 P.239. (25) 1932(昭和7)年1月15日から1月29日とされる。 (26)片倉衷関東軍参謀の発言 (前掲 r満州開拓史』 P.49) (27)那須皓、橋本傳左衛門の他にこの会議に委員として参加した農学者の顔ぶれは、. 鈴木梅太郎(東京帝国大学)渡辺侃(北海道帝国大学)上原轍三郎(北海道帝国大学)宍 戸三王(北海道帝国大学)であるが、いずれも満州移民積極論者であった。. (28)前掲 r満州開拓史』 P.50 (29)本庄司令官が加藤に示した条件は ①無暗に新聞宣伝をせず、黙々としてやること ②自ら額に汗して働いて農業労働の範を示すこと. ③付近の満人農家とよく強調を保って行くことの3つであった。 (前掲 r満州開拓史』 P.56). 2 4.
(28) (30)関東軍統治部昭和7年2月決定 「移民方策案」. (山田昭次編 r近代民衆の記録6満州移民』新人物往来社1978P.355) (31) 「日本人移民案要綱」 (前掲 r近代民衆の記録6満州移民』 P.359). (32)前掲 r満州武装移民』 P.63 (33) しかし、入植予定地は当初の依蘭から、後に永豊鎮に変更されたこと、第1次移民が越冬. 後に本格入植する翌年3月になって「土地議定書」が移民団長と、樺川県長とのあいだで 結ばれていること、さらには、既に見たように、一人当たり5円の立ち退き料の支払いが. 1933(昭和8)年4月頃まで行われていることなどからして、土地の確保は実際には ほとんでできていなかったというおどろくべき杜撰さであった。. (34)この会談については、6月14日説と7月14日説とがあるが、本稿では後者を採った。 (35)前掲 『満州武装移民』 P.95 (36)例えば第1次移民の出発を石原が見送っていること、石原日記に加藤の来訪がしばしば記 されていること、幹部の応召が「石原将軍のはからいで免除」になったこともあったとさ れることなど、その後の石原と満州移民との関わりを示すものは少なくない。. 2 5 一一.
(29) 第2節 満州移民政策に影響を与えた2つの要因. 1.政局の変動と満州移民政策 初期の満州移民政策は、決定の過程でとりわけ、政局の変動による影 響を強く受けた。満州移民が本格化にむかう時間的経過のなかで、注目. すべきは「5・15事件」であろう。前節でも見たように、1931(昭和 6)年9月に起きた満州事変が、満州移民推進論者にとっては、絶好の 機会となったことは、直後から、加藤完治の政界工作が本格的に始まる. ことからも明らかである。ただ、1932(昭和7)年3月半移民送出予算 案閣議否決は、満州移民推進論者たちを落胆させたことは間違いない。. 閣議直前の3月12日に開かれた、通称「狸穴会議」に集まったグループ は、よもや直後の閣議で満州移民送出予算案が否決されるなどとは思っ てもみなかったであろう。だからこそ、会議後に、加藤は入植地確保の ために渡満したのである。. 満州移民構想の最大の反対者は、大蔵大臣の高橋是清であったことは 広く知られている。高橋の満州移民反対論は、当時のものとしてはごく 一般的なもので、反対根拠の第一は、過去の満州における邦人移民の実 績であった。満州移民構想は、児玉源太郎や小村寿太郎の時代から既に その主張が繰り返されており、福島安正による錦川愛川村への除隊兵入 植を始めとして、いくつかの試みがあったが、いずれも見るべき成果を 挙げることができていなかったため、高橋の主張は、当時の常識的見解 を代表していたといえる。. 移民送出予算案が否決された閣議の模様は、元拓務省管理局事務官 森重干夫氏の言葉によると、. 一26一.
(30) 「(前略)それを持って大臣は閣議に行かれたのですが、午後にな っても、夕方になっても来られません。そのうちに大蔵省の方から移 民案は否決になったという電話です。そんな馬鹿なことはない、大臣 が帰って来られないうちはまだ否決ときめる訳には行かん、と私達は その日一日役所で首を長くして待っていたのでしたが、とうとうその 日は大臣も次官も役所へは見えられませんでした。あとで次官にお聞 きしますと役所へ来られないのも道理です。秦さんが満洲移民と一言. いい出すと、rああわかってるよ、わかってるよ。でも移民なんて可 哀想だからやめとけよ、やめとけよ。』とまるで駄々ッ子をお爺さん がなだめるような調子で高橋蔵相にかるく抑えられてしまったのだそ うです(、)。」. と伝えられているから、息せききるような思いで閣議に満州移民送出予 算案を提出した秦拓務大臣も、犬養内閣の長老で発言力も大きかった高. 橋蔵相には、歯牙にもかけてもらえなかったというのが実情であろう か。森重氏の回想によると秦拓相は、その後の数日間登庁しなかったよ うであるから、落胆もことのほか大きかったと思われる。加藤完治が朝. 鮮で受け取った石黒忠篤からの電報は、この結果を伝えたものであっ た。高橋蔵相の意見は、不振だった過去の満州移民の実績に加え、蔵相 としての財政事情への配慮が含まれていたものと思われる。. にもかかわらず、閣議において満州移民送出予算案が否決されてから そう遠くない時期に、拓務省は各府県知事宛てに満州移民希望者数:照会. の電文を発送している(2)。さらに、移民案否決を知った加藤が、朝鮮. から半国せずに石原莞爾のもとへ向かっていること等から見て、移民実 施にむけての水面下の動きは消え去ってはおらず、彼らが次の機会を模. 一27 一一.
(31) 索しょうとしていたことは間違いない。そして、その機会は意外に早く 訪れた。. その機会が「5・15事件」であった。事件によって内閣が交代し、し かも拓相には、かねてから満州移民積極論を唱える永井柳太郎が就任す ることによって、状況は大きく変化した。新しい斎藤内閣では、高橋が 蔵相に留任してはいるが、事件前に秦拓相との問で、満州移住調査費の 話し合いがあったとも言われ、彼の満州移民に対する態度が、軟化して いたことは確かだった。新しく拓相に就任した永井は「大アジア主義」. を唱え、早稲田大学で植民論を講ずるほどの満州移民肯定論者であった から、拓務省の姿勢が一気に満州移民実現に傾いたことは、加藤にとっ ては大きな味方となった。事件直後の5月下旬に加藤が渡満したのは、 その手ごたえを感じ取ったからであろう。. 高橋蔵相が認めた移民費は、「調査費」の名目だったから、彼の中に あっては、依然として満州移民に対する慎重な姿勢が支配的であったと 考えられる。しかし、まがりなりにも、移民計画が短時間のうちに閣議 を通過して議会に上程され、可決に至るのは永井の力によるところが大 きいと見なければならず、永井を拓相に登場させた「5・15事件」が、 満州移民の開始に大きな影響があったことは疑う余地はない。. ついで、満州移民についての一大転換期として1936(昭和11)年を挙 げなければならない。この年が満州移民にとって極めて重大な意味を持. つ年になる理由は、8月25日置国策化の決定によるものである。広田内 閣によって発表された7大国策14項目は、. 一、国防の充実 二、教育の刷新改善. 一28一.
(32) 三、中央・地方をつうつる税制の整備 四、国民生活の安定 (イ)災害防除対策 (ロ)保健施設の拡充 (ハ)農山漁村経済の更生振興および中小商工業の振興等 五、産業の振興および貿易の伸長 (イ)電力の統制強化 (ロ)液体燃料および鉄鋼の自給 (ハ)繊維資源の確保 (二)貿易助長および統制 (ホ)航空および海運事業の振興 (へ)邦人の海外発展助長等 六、対隅重要政策の確立 一 移民政策および投資の助長策等 角、行政機構の整備改善. がその全貌であるが、これによって満州移民は、国家が推進者となるこ とが正式に示されたと言ってよい。一連の経過から考えて、直前の5月 11日に関東軍司令部で決定された「満州農業移民百万戸計画」が、内閣 によって国策としての認定を受けたと考えるのが妥当であるが、広田内. 閣は「2・26事件」で岡田内閣が崩壊した後を受けて、難産の末に誕生 した内閣だった。しかも、事件後の粛軍の見返りと言う形で軍部の政治 関与は一段と激しくなり、それに加えて、軍部大臣現役武官制の復活な どにより、それをさらに加速させたという芳しからざる歴史的評価が下 された内閣でもある。組閣人事への軍部の介入は公然と行われ、また、. 最後は寺内陸相の辞任によって崩壊するなど、広田内閣は、事件後の軍. 一一. @2 9 一一.
(33) 部の横暴に終始振り回され続けたといっても過言ではない。国策化され た項目についても、各界からの要望が渦巻いて整理がつかず、内閣の意 図とは異なって多数の項目を掲げる羽目に陥ったとされるから、移民政 策に関しても、軍の主張がそのまま通ってしまう形となったことは否定 できない。. 高橋蔵相は、演説の中でr今日非常時であるといわれているが、いま にも戦争がおこるように国民を煽動するものがあることが、非常時であ. る。」と軍部を真っ向から批判し、結果的には「2・26事件」の凶弾に 倒れるのであるが、それからわずか5ヵ月後に、満州移民の国策化が決 定されるというのは、決して偶然ではないと思われる。. もちろん、高橋是清が「2・26事件」で暗殺されたのは、満州移民実 施に反対したことを直接の原因とするものではなく、それまでの一連の. 言動が事件首謀者達の受入れるところとならなかったことによってい る。したがって、事件と満州移民の国策化を短絡的に結び付けることに は、多少の危険も含まれているが、. すべての歴史がそうであるように、この事件においても、当事者の 意図とはまったく異なった結果がそこから生まれ、それが独り歩きを はじめる。そしてそのなかで、戦争への道が着実に切り拓かれていっ たのであった(3)。. との指摘に見るように、高橋是清暗殺が、首謀者の意図とは別に、満州 移民の国策化に弾みをつけたことはほぼ確実であろう。こうした政治状 況のもとで満州移民が国策化され、しかもそれを決定した広田内閣が短 命に終わったことは、結果として、その後の移民政策の無責任さにつな. 一30 一一.
(34) がつたといえ、その代償が、国策の美名に踊らされた、多くの国民の犠 牲となることに気付いた人は、少なかったに違いない。. 2.戦局の推移と満州移民政策 満州移民政策は、戦局の影響をも強く受けている。満州事変の翌年に. 当たる1932(昭和7)年から試験移民の送出が始まったことや、日中戦 争の翌年に満蒙開拓青少年義勇軍の送出が始められたことからも、それ は容易に理解される。. 満州移民送出が広田内閣によって国策化されたことは既に見たが、そ. れは、1936(昭和11)年8月25日であった。日中戦争の勃発は、その約 1年後にあたり、そのため一般の成人移民は、初期の段階から計画の達 成が危ぶまれる事態となっていた。危機的事態とは、日中戦争による兵 員の確保と、移民の確保が競合することを指す。もちろん、日中戦争初 期の政府内部には、戦線の不拡大方針が存在したから、その後の戦線の 拡大および長期化は、指導者層にも想定されていなかった。しかし、義 勇軍が開始される直接的な契機とされる、 「満蒙開拓青少年義勇軍編成. に関する建白書」、が1937(昭和12)年11月3日に加藤完治らによって 提出され、その月末には「満州に対する青年移民選出に関する件」が閣 議上程されたうえ即日決定したことや、. 優良なる青年を多数満州国に送出し、大量移民国策の遂行を確実か つ容易にならしめんとす(4). との当局の謳い文句にも見られるように、満蒙開拓青少年義勇軍が、日 中戦争開戦による、満州移民送出の停滞を補填する意図を持つものであ. 一一. @3 1.
(35) つたことは明白であろう。. 一般開拓団送出にとって、国策化の決定が及ぼした影響を挙げるとす るならば、翌年から開始される「分村・分郷方式」による移民送出を挙 げることができる。折からの不況や過剰人口を抱えて恒常的に困窮に見 舞われた農村にとっては、分村・分明方式による満州移民の送出は、新 しい切り札であったし、農村経済更生計画の行き詰まりを打開したい農 林省にしても、この方式は歓迎すべきものであった。分村による経済的. 効果が、母村にどの程度もたらされたかは、村によって事情が異なる が、国策化以降の一般開拓団の主流が、この方式によるものであり、全 期間を通じて送出された開拓団の約75%がそれに当たることを見ても、. 一般開拓団は「経済的理由」が送出の主因となっていると見られる。し かし、. 一般開拓団の多くが生きるための手段として移民の道を選んだのに 対して、青少年義勇軍は、国家の要請に対して「この要請に応えるこ とは日本小国民の名誉であり、義務である」と考え、ある者は自分の 意志により、またある者は先生や有志の執拗な勧奨によって広い満州 の天地に羽撃いたのである(5). との指摘は、義勇軍と一般開拓団との間の違いを際立たせている。そし てその事実は、今もって義勇軍関係者の胸中に残る「義勇解明」を形成 する重要な要因となっているように思われるが、今一つ、一般開拓団と 満蒙開拓青少年義勇軍との違いを明確に示しているのは、軍事的色彩の 濃淡である。. 表1−1は、r満州開拓史』から、義勇隊開拓団の入植先を墜下に見. 一32一.
(36) たものである。義勇隊開拓団とは、概ね3年間の訓練を終えて開拓団に. 移行した満蒙開拓青少年義勇軍の一般的名称である。したがって1938 (昭和13)年に送出が始まった満蒙開拓青少年義勇軍の開拓団移行は、. この表にあるように、1941(昭和16)年が最初となる。表からは、東部 の東安平、牡丹江省、三江省と、北部の北安省、竜江省、黒河省への集 中的な入植が顕著であることが容易に理解される。 (巻末資料1満州国 表1−1 義勇隊開拓団入植先分布表(6) (訓練所欄の数値は所属中隊数) 省. 三江省 黒河省 北安省 東安省 牡丹江省 間島省 竜江省 浜江省 興安東省 興安北省 興安南省 吉林省 錦州省 奉天省 通化省 四平省 安東省 興安西省 熱河省. 1941年. 5. 23. 7 5. 1942年. 5 5. 14 6. 1943年. 3 6 7. 12 2. 1944年. 4 3. 16 12. 1945年. 5 2. 訓練所. 2. 8. 16. 38. 7 3. 9. 6. 6. 17 13. 1. 12. 8. 3 3 3. 6 1. 2. 3. 8. 1. 1. 1. 7 2 2. 2 2. 1. 3 6 2 1. 略:地図参照)一般開拓団についても、これらの地域に入植する団数は決. して少なくはないが、その比率は義勇隊開拓団のそれに比較すると小さ く、1944(昭和19)∼45(昭和20)年にかけて、南満に入植した一般開 拓団が約20団に及ぶのに対して、義勇軍の入所した訓練所は、そのすべ てが北満あるいは東満であることからも、満蒙開拓青少年義勇軍に課さ れた軍事的役割の重さは、一般開拓団のそれよりも重いと言わざるをえ. 33一.
(37) ない。. もちろん、一一般開拓団の軍事的役割を否定するものではないが、敢え. て言えば、一般開拓団が果たすべき軍事的役割として期待されたこと は、「門戸」を第一と見るべきであり、とりわけ糧秣の確保は、義勇軍 に比して一般開拓団に期待するところが多かったものと思われる。最初 に渡満した義勇軍が、実際に開拓団に移行するのが1941(昭和16)年以 降であり、移行直後の増産は多くを期待できない場合が多かったことか らも、そのことは推測できる。また、. 義勇隊訓練所の諸施設は、対ソ戦略上において、有事の際の各種軍 需物資集積所としての機能を負わされた(7). という指摘も合わせて考慮すると、義勇軍に対してより重く課せられた 軍事的役割が、終末期における一大悲劇の伏線となったことは疑う余地 がない。. そうした、義勇軍への過重な軍事的使命を与える契機は、1939(昭和. 14)年5月に起こった「ノモンハン事件」に帰着すると考えられる。こ の事件は、国民にも真相が伝えられなかったが、日本陸軍が長年にわた. って仮想敵国と想定し続けてきたソ連軍との約4ヵ月にわたるノモンハ ンでの衝突は、日本側の惨敗という結果に終わっている。戦後の対ソ戦 略研究では、. 兵力量・編成装備は出発点から寡弱不備であり、それだけに、用兵. 思想・戦法・訓練の面には無形的戦力の強化が殊に強調されたもの の、近代戦遂行のためには、諸般の面において欠陥が少なくなかっ. 一34 一一.
(38) た(8)。. との分析に加えて、. ノモンハン事件は日ソ両軍が本格的に交戦した最初の戦闘であり、. また日本陸軍が体験した初めての近代戦であった。それだけにこの事 件の残した教訓は貴重であったが、事件後幾ばくもなく勃発した第二 次世界大戦による情勢の変動に伴い、陸軍中央省部の関心は急速に南 方に移り、事件の教訓のごとき概して熱意をもって活用されなかった ようである(9)。. とも結論づけられているように、主な敗因は、機械化の遅れにあった。. 事件後にその遅れを取り戻すことに対しては、陸軍中枢部は熱心とは言 えず、その判断は、中枢部の関心が、急速に南方に向けられたことにも. よるとされているが、そうした極東ソ連陸上兵力に対する観測の甘さ は、日露戦争での勝利に起因したものであった。陸上兵力機械化の遅れ に対する唯一の対抗手段は、人員の増強でしかなく、. 関東軍の対ソ地上戦準備は物心両面とも、一応、昭和17年前半期以 降約1年内外の期間が最盛期であったと見られる(、。). との指摘でも、事件後の約3年間に兵力の増強が大幅に進められたこと がうかがわれる。. その中で、満蒙開拓青少年義勇軍に対する軍事的使命を明確に示して. いると思われるのが、1941(昭和16)年7月上旬の関東軍特別演習であ. 一35一.
(39) る。通称「関特演」と呼ばれるこの演習に、現地訓練所に入所中の満蒙 開拓青少年義勇軍が動員されている事実は、その軍事的役割が決して小 さいものでないことを物語っている。満蒙開拓青少年義勇軍が送出され. 始めてから3年目に当たるこの時期は、渡満した中隊のすべてが開拓団. 移行前であり、そのため現地訓練所に入所中である。彼らの主な役割 は、鉄道奉仕など、主として後方支援に関する業務ではあるが、 「関下. 演」は名称に演習の2文字が含まれるものの、現実には独ソ開戦後の極 東ソ連兵力の弱体化を衝いた攻勢をも視野に入れたものであり、単なる 演習とは性格を異にするものである(、、)。実質的な開戦準備に義勇軍が. 動員されたことは、軍部においてはかなり早い段階から、その軍事目的 への転用が意図されていたと見るべきであろう。. 「関特演」には人員50万人、馬15万頭が動員されたが、陸軍統帥部が 最終的に年内北方武力行使を断念したのは演習開始から約1ヵ月後の、 8月9日だった〔、2)。その理由は、対米戦準備を優先するため、北方で. の衝突を回避するという方針が決定されたためである。ただ奇妙なこと に、末端にはこの決定はじゅうぶんに知らされず、その後も演習が続け られている事実は、関東軍の持つ体質を暗示しているように思えてなら ない。. それ以降は、南方作戦展開のため、北方はいわゆる「門門保持」の状 態で推移し、1945(昭和20)年8月に向かう。先に、関東軍の兵力が、. 1942(昭和17)年前半期から約1年間に最も増強されたことに触れた が、1943(昭和18)年後半からは、南方の戦線後退に伴って、関東軍か ら「兵力抽出」が随時行われ、無敵と称された関東軍も、終末期には相 当に無力化されていた。. このように、義勇軍は、その時々の戦局の推移や、軍中枢部の戦略方. 一36一.
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