られているが、九日楠國民學校で神戸市内の応募者第一次詮衡が行わ れた。神戸市だけで一個中隊を編成する方針であるが満州飛躍を目指 す青少年は績々と申込み兵庫校の五十二名を筆頭に、若松校三十五 名、楠校三十名、東灘校帽八名、南須磨校二十五名と市内各國民學校 最高學年生徒ら二百名が元気に出頭身髄検査や人物考査をうけたが本 人の意志は固く、新しい秩序の建設に満州で御奉公したいと愛國の至 誠に燃えてをり等等の結果も非常に好成績で九割の合格率を示した、
教へ子の満州進出に先生たちも奮い起ち義勇軍中隊長のほか、教學、
教練などの幹部指導員として参加することを決意し、現在旧名の申込 みがあり詮衡が行はれてるる、先生と教へ子が一つとなって編成する 義勇軍は全國で初めてである(3)。 (以下略)
となっており、第1次詮衡の段階で、相当数の志願者があったことがわ かるほか、幹部の編成はこの時点においては決定を見ていなかったこと も記されている。東兵庫校などのように、割当を上回る志願者を出した 学校は、詮衡において不合格となる者がでることを予想した上で、割当 の達成を見込んだか、割当以上の志願者を集めて、学校単位での国策へ の協力を誇示する目的があったと思われる。
第1次詮衡には相当数の志願者があったもののく250名という目標人 数には届かなかったため、12月16日には、同じ会場で第2次詮衡が実施 され、中隊の編成が完了したことと、中隊長に本岡達次氏が内定したこ とが翌日の新聞に報道されている。しかし、 「神戸市民時報」には、第 3次詮衡を予告する記事が掲載されており、
目下第三回目の義勇軍が募集され、最後の詮衡が二十二日午後二時
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より楠國民學校で開かれるが期日迄に参加者は本人自ら各青年學校、
國野饗校高等科又は市商工課に、當平なれば詮衡着場に申し出られ度 い鷹募資格は数へ年十六歳(早生まれは十五歳)から十九歳(但し十 二月二日以降生まれの者に限り二十歳でも差し支えなし)迄の者で國 民學校初等科を卒業してみれば職歴は問はない
尚父兄の承諾と身髄の強壮は磨募必要条件であるが、其の他詳細は商 工課へ問ひ合わせられたい(4)。
との内容からすると、編成が完了したものの、第1次及び第2次合格者 から多数の辞退者が出たために、翌年1月22日に第3次詮衡を開催せざ るを得なかったのであろう。また、詮衡当日に直接来場しても志願が可 能だったということは、目標達成がかなり危ぶまれる状況にあったこと が予想される。第1次詮衡合格者は179名、第2次詮衡合格者は72名と 報道されているが、表3−16では、本岡中隊の内原訓練所入所者数:が21 0名となっていたから、第3次詮衡での合格辞退者も含めると、全体で 数十名規模の辞退者があったことになる。
本岡中隊のもう一つの特色は、第3次詮衡から内原出発までの間に、
団体訓練を実施していることである。新聞報道では、
(前略)大陸開拓の若き第一線部隊として神戸市では今春卒業の国 民学校高等科児童で肥立の満蒙開拓青少年義勇軍神戸中隊を編成すべ
く隊員募集に全力を注いだ結果、目ざす二百名の隊員獲得に成功した ので三月上旬内原訓練所への入所に先立って隊員の心身鍛錬のため七
日午前八時十分全隊員が阪神三宮門前に初の勢揃ひを行ひ、
仁徳天皇陵ならびに阿倍野神社に参拝、意義ある一日練成で皇道精
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神の髄得と強歩行軍による身艦鍛錬を行ひ、戦友としての団結を固め たが最初の中隊幹部は市當局で適材を物色中のところ中隊長は林田匠 池田村山ノ谷二四一吉田國民學校訓導本岡達次氏(三九)、教學指導員は 須磨塵月見山本町一丁目五三若松國民學校訓導荒井廣一氏に六)、教練 指導員林田匪池田村半三郎一六六陸軍曹長藤本輝夫氏(二八)に決定、何 れも選任された(5)。
と記録されている。出発前にこうした集団訓練を実施した背景には、そ れまで行われていた神戸市興亜少年義勇隊訓練が中止されたことに加え て、都会出身者で編成した神戸中隊から、内原での脱落者が少しでも減 るようにとの配慮もあったと考えられる。
中隊幹部は、前年11月には未定と伝えられていたが、最終決定は出発 1ヵ月前までずれこんでいることを考慮すると、市当局による選考作業 はかなり難航したのであろう。難航の理由は、希望者が集まらず、編成 に手問取ったからである(6)。
r神戸市教育史第2集』には、
満蒙開拓青少年義勇軍の入所数:は割当数にみたなかったが、その選 出には各校とも非常に苦労した。その上志願者の数は調査ごとに動揺
し、学校側をはらはらさせたが、昭和十九年三月三日の壮行式は湊川 神社と海員会館で行われ、参加者は百九十二名、神戸駅を出発した時 は二百二十一名であった(7)。
とあるから、参加者は出発直前においてもその数が確定しない状況であ ったことがわかる。
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本岡中隊は、それから約3ヵ月後の1944(昭和19)年6月22日に、満 州に向けて出発しているが、その壮行行事は、2年前の河南中隊の渡満 時のように七千名もが参加した大規模な見送りではなく、神戸駅を通過 する列車を、駅頭で関係者が見送るという簡素なものであった。その通 過時刻が午前五時四分野七時六分という早朝に設定されたのも、軍事目 的からの必要性があったのであろう。その模様を伝える報道では、隊員 数が百四十二名となっているから、3ヵ月前に神戸を出発した時に比し て、70名もの隊員が、内原において脱落している計算となる。
参考文献として使用している櫻本富雄氏のr満蒙開拓青少年義勇軍』
には、
r資料』の「昭和19年度義勇軍入(退)所状況調(昭和19年4月19 日現在)」によれば、総入所者数:11640名のうち、年齢超過・朝鮮人・
病気の理由で不合格となった者は162名(大分県の14名が最高)、入 所後に病気退慨した者・111名・うち3名は死亡者(愛媛県の15名が 最高・死亡者は奈良県2名、埼玉県1名)、本人の都合による退所 者・132名(兵庫県の14名が最高)、無断退所者・115名(岡山県28 名、兵庫県27名、奈良県12名の他は一桁数)、無断箭所平中の者・
299名(千葉県の38名が最高、ついで和歌山県の34名、秋田・徳島県 の18名などが目立つ)となる(8)。
との記述がある。 r資料』とは著者の持つ、 「大東亜省謄写印刷書類」
という極めて貴重な資料あるが、ここに示された、本人の都合による退 所者・兵庫県14名と無断退所者・兵庫県27名はいずれも本岡中隊員とし か考えられず、その数は合わせて41名に上っている。