• 検索結果がありません。

 達次氏の渡満後は、本岡家は経済的に困窮を極め、 「あの時期のこと を思うと、女も自活のための知識なり技能なりが必要だと思った。」と 厳しい表情で悦氏は当時を語った。結局、本岡議員が兵庫師範予科に進 むのも、経済的理由から、学費のかからない学校を選んだからなのであ ろう。本岡中隊長が家族を満州に呼び寄せる意志があったかどうかは定 かではないが、呼び寄せの決断の前に敗戦となったことは、日本に残っ た家族にとってはかすかな幸運であった。とはいえ、一日一日の生活が 重苦しくのしかかっていたことは、この時期の本岡家も例外ではなかっ

たと言える。

(3)本岡中隊

 本岡中隊は、神戸市内国民学校高等科9校の児童によって編成され た。多い学校は30入門上もの児童を送り込んでいるが、県の割当数250 名に対して、新聞報道では内原訓練所入所時が212名、渡満時142名と、

予定していた人数は確保できなかった模様である。また、幹部の編成に も苦労したようで、教練指導幹部の藤本輝夫氏は、本岡中隊長のいとこ であった。中隊幹部の編成にあたって、自分で親族に声を掛けなければ ならないほど作業が難航したのであろう。

 前年度送出の兵庫中隊(五十川中隊)も、幹部編成に手間取ったた め、渡満が予定より約1年遅れたとの指摘もあり、義勇軍の送出にあた っては、中隊幹部の編成に難航することがしばしばあったようである。

やはり大人は単に「義勇」という言葉には魅力を感じなかったか、義勇 軍の中隊幹部など、率先して行くものではないと考えられていたからで あろう。引揚げ後、 「いとこからはかなり恨まれたと思います。」と幣 制は語ったが、終戦後の満州で味わった辛酸を思うと、それも致し方な

かったであろう。

 戦後、無事帰還し、現在神戸近郊に在住する元本岡中隊員達の集まり が時折開かれており、その会合に悦氏や本岡議員が顔を出していると聞 いた。1931(昭和6)年生まれの本岡議員と本岡中隊員との年齢差はご くわずかでしかなく、互いに気安く話ができる関係のようであるが、そ こに集まる元隊員には、「本岡中隊長に助けてもらった」という感覚の 者が少なからずいると議員は言う。「助けてもらった」とは、義勇軍に 参加しなければ、国民学校高等科卒業後に路頭に迷ったであろうという 意味においてである。中には、「義勇軍に行かなければ転落の道を歩ん でいたかもしれない」と当時を語る元隊員もいると聞かされると、義勇 軍に職業指導、あるいは進路指導の一環という位置づけがあったことは 本岡中隊にも当てはまっている。

 本岡中隊干満後、残された家族は、悦氏の出身地である加東郡滝野町 でひっそりと生活を送った。悦氏の父親は北海道の開拓(極めて初期の 屯田兵)にたずさわり、成功を収めて道会議員にまでなったらしい。

「祖父は北海道開拓、父は満州開拓と、開拓とは妙に縁が深い。」とは 本岡議員の言。しかし、達次氏の唐竹後、経済的に困窮した本岡家に北 海道からの支援は全くなかったと悦氏は語る。本岡議員は、小野中学

(現兵庫県立小野高校)に通った。長時間に渡った話の中で、

 「尋常高等小学校(或は国民学校高等科)を募集対象の中心に据え たこと自体が、義勇軍というものの差別性、選別性を示していると思 えてならない。この時代は、出身学校がそのまま徴兵された時の軍隊 での位階に対応している。事実、小野中学でも神戸三中でも(入学は 神戸三中だが、滝野に移ってから小野中へ通った)在学中に義勇軍の

180

ことなど聞いた記憶がない。満蒙開拓青少年義勇軍が真に大陸での五 族協和をめざし、王道楽土の理想郷建設を目指したなら、なぜ、中 学、高校、大学、師範など、他にも16〜19才の募集年齢期の学生を抱 えるそれらの学校でも募集を行わなかったのか。また、戦後の新教育 制度が発足した時に、予科練や陸軍幼年学校などに在学中の生徒は、

そのどこに位置づけられ、どの段階の学校が彼らを受け入れるかが決 められていたが、私の知る限りでは、満蒙開拓青少年義勇軍出身者が 引揚げ後に新しい学校制度のどの段階に受入れられることになってい たかということを聞いたことがない。そのことは、彼らが切り捨てら れたことを示していると考える以外にはないのではないか。」

との貴重な指摘を受けたが、ここでも、義勇軍の持つ選別性が問題とな

った。

 本岡中隊長は1947(昭和22)年に佐世保に引揚げてきた。引揚げてき た本岡中隊員の一部が、三田付近に入植したと記録にあるのは、帰るあ てのない隊員の面倒を見るため、本岡中隊長が、渡満せずこの付近の開 拓に当たっていた、第2次神戸中隊の大東中隊長のもとに、それらの隊 員の一部を合流させたというのが真相であった。本岡中隊長は家族の住 む滝野町にもどり、隊員が開拓を進めていた広野(現三木市)や鹿の子

(現神戸市北区)にしばしば足を運んだ模様である。「帰るあてのない 隊員」というのは、もともと恵まれない家庭環境下に育った隊員が少な からずいたことに加えて、神戸大空襲によって家や家族を失った者が多 かったことによる。本岡中隊長の口癖は「(神戸)市がもう少し、この 子供達の面倒を見てくれたら・・」だったと悦氏は回想する。それらの 開拓地に入植した中隊員も、戦後の食糧難の時期を乗り切ると、徐々に

181

新しい職業についてそれぞれが独立、離散し、現在はそれらの開拓地に 残るものはいない模様である。

 そうした隊員の独立を見守ることが、本岡中隊長にとっての「戦後処 理」であったが、自身は満州での生活がもとで発病した治療方法のない 風土病が進行して、1971(昭和46)年に病没された。帰る当てのない中 隊員の心配と、自分の病気との戦いが大部分を占めたといっても過言で はない本岡中隊長の引揚げ後の四半世紀は、戦争というものの代償:とし て個人が背負うにはあまりに大き過ぎた。しかし、病気がもとで復職も ままならなかった中隊長にとって、生き残って帰還したものの、帰る当 てのない中隊員への配慮:は、自分の力で可能なせめてもの償いであり、

またそれは満州で命を落とした中隊員への鎮魂と同一線上にあったか ら、おろそかにはできなかったのであろう。

 戦後50年を経て、政府の戦後処理が政治問題としてしばしば議論の対 象となるが、切り捨てられたに等しい義勇軍にあって、末端の指導者た

ちには、何らかの形でその責任を全うしようとする戦後があったことは 確かであり、そうした生き方は、多くの隊員の命を失いながらも、故国 に帰還し得た他の中隊長経験者にも共通に見られるものではないかと思

われる(11)。

 本岡議員が教職についた後、組合活動に深く関わり、 「教え子を再び 戦場に送らない」ことを一大スローガンとして、強力に活動した背景に は、父である本岡達次中隊長の姿があり、議員当選後の、戦後処理問題 や人権問題に対する強い関心も、それとは無関係ではないことを改めて 認識した次第であった。 (本岡中隊の主な動向については、巻末資料3

参照)

182 一一

3.大東中隊

 1944(昭和19)年に続いて、翌年も神戸市単独で義勇軍の編成が行わ れた。先の本岡中隊を第1次神戸中隊とも呼んでいるが、第2次神戸中 隊は大東中隊(大東末一中隊長)と呼ばれる。同中隊の特色は、編成さ れたものの、渡満しないまま解散したことである。義勇軍について最も 詳しい資料であるとされるr満州開拓史』においても、同中隊のことは 全く触れられていないため、史料不足は否めない。「神戸市民時報」に は、大東中隊激励会の記述があり、それによると、

 昭和二十年度満蒙開拓青少年義勇軍神戸中隊は關係者の熱誠によっ て編成愈々成り、近く堂々内原訓練所に進附することになったが、市 商工課では二月二十四日午前八時半楠國民學校で中隊訓練生激励の會 を開催、神戸市長拉に關係町民學校長代表(林東兵庫國民學校長)の 激励の辞の後、骨壷を観賞して散増した、 (以下略)(、2)

となっている。会では、「満蒙義勇軍神戸中隊の歌」も披露され、中隊 員に歌唱指導も行われているが、歌詞を以下に紹介する。

 満蒙義勇軍神戸中隊の歌 一、燦たる希望胸躍る  我等神戸の青少年   いざ敢然と満蒙に  無限の沃野を拓かなん   湊川原に鎮まれる  大楠公の心して

二、凛たる決意に血潮湧く  我等神戸の青少年   いざ溌刺と満蒙に  天祖の三塁を仰ぎ見ん  六甲摩耶に須磨の浦  鍛へし心と身髄もて

三、厳たる使命に奮い立ち  我等神戸の青少年   いざ堂々と満蒙に  興亜の光を弥増さん   強く明るく逞しく

 五族協和の軸として(、3)

一一

@183一

ドキュメント内 兵庫県における満蒙開拓青少年義勇軍と教育 (ページ 182-187)