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開設された。その存在は10年足らずに過ぎず、そこで何が行われていた かは必ずしも明確とはなっていない。しかし現存する限られた資料から 推察すると、満州移民とは密接な関連を持っていたと思われる。以下は

r兵庫県立北条高校六十年誌』からの引用である。

 兵庫県立国民高等学校の歴史

 一、兵庫県立国民高等学校誕生の背景

 (前略)

 国内においても、国策にしたがって戦時体制が整備されていった が、その一環として国内農地の拡大と農業生産力の増大、満蒙移民の 推進確保を図ることは、重大な課題の一つであった。この課題達成推 進力である「中堅農業人」の育成、鍛錬は必要欠くべからざるもので あった。このような情勢の下で兵庫県立国民高等学校の設立が進めら

れていった。

二、兵庫県立国民高等学校と推移

(一)略

(二)開校

 天草福太郎氏が校長事務取扱を命じられ、修業年限一ヵ年、十八歳 以上の男子で実業補習学校後期卒業程度以上を対象にして生徒募集を おこない三十七名が入学を許可された。

 昭和九年十月二十一日開校記念式典を挙行した。当日の記念式典で 次の三氏が記念講演をおこなっている。しかし資料が無いので講演の 演題は不詳である。

 京都帝国大学農学部長 橋本傳左衛門氏  農林省経済更生部長  永松陽一 氏

140 一一

日本国民高等学校長  加藤完治 氏  (以下略)(、2)

 この学校が「国民高等学校」を名乗ったこと、そして一般の満州移民 が開始された、1932(昭和7)年からそう遠くない時期に設立を見たこ

と、そして何よりも開校記念式典において、満州移民推進の強力な母体 となった「加藤グループ」から、加藤完治本人と、最大のブレーンとも 言える橋本傳左衛門の2名がやってきて講演を行っていることからも、

この学校の設立趣旨が、満蒙開拓を中核としたことは疑いようが無い。

残されたカリキュラムを見ても、学科「農村経営」の中に植民の講義が あり、軍服に身を固めた4名の教官の写真の中には、満州から迎えられ たと思われる中国人教官の姿もあることがその信愚性をさらに高める結 果となっている。

 学校設立の翌年に当たる1935(昭和10)年になると、早くもこの施設 は満州移民にとって欠かせないものとなる。

第4次満州農業移民募集要綱  一、二(略)

 三、詮衡並びに訓練

 (一) (略)

 (二)訓練

   イ、訓練は日本国民高等学校に委嘱するものとし訓練所は仮採      用者の地方的分布状況により左記の内概ね三か所を選定し      て使用する予定なり

   1.山形県 青年修養道場(北村山郡大高根村)

   2.茨城県 日本国民高等学校(西茨城郡宍戸町字友部)

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3。兵庫県 国民高等学校(加西郡北条町)

4.熊本県 球磨農業学校(球磨郡免田村)

  (以下略)(、3)

 前記資料は、拓務省拓務局東亜課作成による1935(昭和10)年の一般 成人満州移民の募集要綱である。1932(昭和7)年から数えて第4次の 募集となったこの年、全国4ヵ所の訓練所において、仮採用者の訓練を 実施しているが、その1ヵ所として兵庫県立国民高等学校が挙げられて いる。要綱は4ヵ所の訓練所中、「概ね三ヵ所」を訓練場所にするとし ているが、実際には8月下旬頃に実施された訓練は、上記4ヵ所で行わ れた模様であり、兵庫県立国民高等学校には、北陸(新潟を除く)、近 畿、中四国(山口を除く)の各地域から89名の参加があったと記録され

ている。

 この拓務省の委託訓練所は、その後は各地の農民道場がその指定を受 け、その種の施設のない地域にも1940(昭和15)年頃までには、ほぼ設 置を完了するが、兵庫県においては、最も早い時期にそれが存在してい

たという事実は見落とされがちである。

 ただ、ここまでに見た移民訓練は、学校の夏休み中に行われた、一般 成人移民対象のものであるから、この学校と義勇軍との関連は必ずしも

明確とは言えない。しかし、この学校が兵庫県内において果たした役割 を明確にする文書としては、下記のものが挙げられる。

 満洲移民事業講習會開催二関スル件

 今般標記講習會ヲ左記要項二三リ開催可相成候虜満州移民事業ハ現 下時局二鑑ミ極メテ緊急ノ要務ト被雪平二付イテハ右趣旨ヲ御了承ノ

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上多数受講セシムル様特二御配意相成度 満洲移民事業講習會開催要項

一、趣旨 略 二、主催 兵庫縣

三、期日 十月二十八日(金)及同二十九日(土) (一泊二日但シ前      夜入場ヲ要スル者ハニ泊三日)

四、場所 兵庫開立國民高等学校(加西郡北条町)

五、定員 150名

六、受講者資格  (一)中等學校長及教員         (二)小早校長及教員

        (三)青年學校長及教員 七、八 略

九、講師名 日本國民高等學校長     加藤完治       京都帝増大學教授 農學博士 橋本傳左衛門       満州移住協會   縛務部長 山名義鶴

      農村更生協会主事      杉野忠夫

      兵庫馬立町民高等學校長   天草福太郎       (以下略)α4}

 上記文書中には義勇軍の文言は出てこないものの、講習会の開催が義 勇軍送出の初年度という時期であり、義勇軍制度の強力な推進者達が講 師に名を連ねていること等を考慮すると、それについての言及は当然な されたであろう。加藤や橋本は、開校記念式典にも顔を出しているか ら、彼らとの関係も相当深かったと判断される。

 また、1939(昭和14)年6月の兵庫県小学校・青年学校長会において

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確認された「昭和14年度初等教育行事計壼」には、10月中に小学校長対 象の講習会の開催が計画されており、国民高等学校職員等を講師として

「国民高等学校精神」の講習が予定されている。各郡市1名の出席を義 務付けたこの講習では、前年から始まった義勇軍についての言及は当然 あったと思われ、それらの事実から、兵庫県立国民高等学校は、兵庫県 当局や教育会によって、教師向けの啓蒙施設として利用されていたと推

定できる。

 他方、校長の天草福太郎氏は、この時期に県内で開催された各種研究 授業などに助言者として出席しており、その席では義勇軍について何ら かの話が持ち出されたであろうから、この学校と義勇軍が決して無関係 であったとは考えにくい。 (昭和18年兵庫県送出の五十川中下中隊長五 十川萬治氏は兵庫県立国民高等学校出身であった)

 ただ、この学校が、設立趣旨にある満蒙開拓の推進に多大な貢献があ ったかどうかについては疑問が残る。この学校の存在が一般に知られる ことが少なかったのは、設立からわずか9年後の、1943(昭和18)年4 月1日付で兵庫県立北条農学校に組織が変更されたからであろう。 r北 条高校60周年記念誌』は、この変更を、中等学校令による実業学校とし ての発展的解消と述べている。しかし、毎年の入学定員50名に対して9 年間の卒業生は262名となっているから、全入学定員に対する卒業生の 割合は6割弱に過ぎないことからすると、改組の実質的理由は募集不振 であったと見られる。その主な理由は、本来農村において重要な労働力 となるべき18歳以上の青年が、学校において農業を学ぶという意義が農 村で受け入れられなかったか、それだけの経済的負担を負うこと自体が 価値の薄いことと認識されたからであろう。

 この兵庫県立国民高等学校は、兵庫県立北条農学校と改組され、戦後

ドキュメント内 兵庫県における満蒙開拓青少年義勇軍と教育 (ページ 142-147)