言われており、神戸市においても同和対策としての満州移民は間違いな く行われている(、5)。 (ただし布引郷開拓団は皮革産業とは無関係であ
る)
神戸市の義勇軍については、その実態を同和問題との関連で明かにす ることはできなかったが、部落出身者が少数ながら参加していたことは 関係者への聞き取りからも確実である。しかし、それが組織的な動きで あったかどうか、或は、学校や教師が部落出身児童に対して積極的に義 勇軍参加を勧めたかどうかという事実については、確証を得られていな いため、結論は差し控えなければならない。ただ、千種町での動きは一 般開拓団についても、義勇軍についてもほぼ同様であったことを考える と、神戸市においても同和対策としての義勇軍勧誘が存在した可能性は
強い。
満蒙開拓青少年義勇軍は、国家存亡の非常時において、少年たちが純 粋に義勇的精神で志願し、満州開拓の一翼を担うことを主目的としてい たはずであり、現に志願した少年たちにはそのような意識が濃厚であっ た。しかし、既に見たように、制度発足の当初から、国内農村救済に力 点を置いた「満蒙開拓青少年義勇軍設立建白書」や、軍事目的の色彩 を強めた「満州青年移民実施要綱」が存在したように、その目的は、必 ずしも一貫していなかった。
その上に、本節で検討した別の目的が次々と付加され、また割当によ る義務的な送出も重なって、義勇軍は、次第に当初の精神を失いつつあ ったと結論づけることができる。ばらばらなそれらの目的を統合する理 念は、「国策」ということばしがなかったであろう。とすれば、満州移 民推進者にとっては、移民を送出することが最重要課題であって、理由 付は後からどのようにでもできたということであり、すべての理由付は
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「国策」に帰することで正当なものとできた。そのような図式は、義勇 隊員の持つ犠牲者としての側面を強調している。彼らには、侵略者とい
う加害者の側面が存在することは否定できないが、そうした彼らを全面 的に、侵略者と決めつけることは、過重な責任追及であるばかりでな く、真の責任者の存在を隠蔽することにもつながりかねないことに留意 する必要があろう。
註
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満州移住協会 「満蒙開拓青少年義勇軍に関する調査」昭和15年2月
置r満蒙開拓青少年義勇軍関係史料集第5巻』 (不二出版1993) P.42)
拓務省拓北局青年課 「昭和17年度青少年義勇軍身上調査一覧表」
(前掲 r満蒙開拓青少年義勇軍関係史料集第5巻』 P.85)
兵庫県教育会 r兵庫教育』第592号昭和14年3月15日P.135 r神戸新聞』 神戸版昭和14年4月12日
「昭和二十年國民學校修了者ノ職業指導及ビ職業紹介二二スル件」
(r兵庫県報』號外昭和19年9月30日)
r神戸新聞』神戸版昭和16年3月19日ほか
r兵庫県同和教育関係史料集第2巻』(兵庫県部落史研究委員会編1973)
P. 908
r同和教育史兵庫県関係史料第2巻』(兵庫県同和教育史研究委員会編1977)
P. 412
引用文書は日付不明ながら、1940(昭和15)年8月頃のものと類推される。
「千種村昭和15年起社会関係綴」(千種町センターちくさ保管町史編纂資・史料)
上記資料は、1983(昭和58)年に発行された千種町史の執筆のために4名の編纂委 員の方々が収集した資料に含まれていたもので、現在は町役場向かいの「センターちく
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さ」視聴覚室に保管されている。ダンボール約30箱に上る執筆資料は整理番号が付され て分類整理されている。その整理状況を見ても、関係者の努力が伺われて千種町史の価値 を高めている。千種町史は、兵庫県内の市町村史の中では、義勇軍に関する記述が最も詳 細であり、そのため関係資料も残されている可能性が高いと判断したが、編纂委員のうち 池田数夫氏には面接でお話を聞き、鳥羽弘毅氏には手紙による問い合わせを行なったとこ ろ、執筆のための資料は、町役場に保管されているとの確信を得るところとなった。
1996(平成8)年7月4日に同町役場を訪問した際に、町教委事務局備付けの「町史 編纂関係資・史料目録」から関係文書を抽出したうえで、許可を得て開封した1つの箱に 同資料が保管されていた。他の関係文書はその箱には見当たらなかった。資料の開封許可 は千種町同委員会事務局長山木孝司氏にいただき、開封に際してはセンターちくさ所長 荒尾春義氏に終了まで立ち会って頂いた。突然の訪問にもかかわらず多忙な中を、長時間 の調査に協力頂いた両氏に感謝の意を表します。尚、確認できなかった、西山村に関する
「昭和16年4月社会改良事業計画ノ件」、「昭和17年6月社会改良事業計画ノ件」が あるが、この2つの文書も開封しなかった他の箱に存在することは間違いない。
前掲 r同和教育史兵庫県関係史料第2巻』 P.468 前掲 「千種村社会関係綴」
大谷正「融和運動と満州移民」 (専修史学16巻1984) P.143では、
1940(昭和15)年に、兵庫県からは60名の満州移民(義勇軍を含む)が部落から 送出され、この数は府県別では、全国最多であったことが指摘されている。
前掲 「千種村社会関係綴」
高橋幸長 r「絶望の移民史」満州へ送られた被差別部落の記録』
(毎日新聞社1995)P.179
前掲大谷正 「融和運動と満州移民」においては、
「1944年には神戸の都市部落より、地区整理事業・興廃業者を組織した第13次布引 郷開拓団が送出された」ことが指摘されている。r満州開拓史』には、戦後、同項典型関
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係者数十名が引揚げてきたと記録されているが、兵庫県拓友会は、
揚げ後の動向が全く把握できていないことを遺憾としている。
この開拓団関係者の弓
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第4節 神戸中隊の編成
1.本岡中隊の編成
1944(昭和19)年度に、兵庫県の義勇軍送出数:が全国第4位にまで上 昇するのは、県内で2つの中隊が編成されたことによるものであり、と
りわけ、従来から編成されていた兵庫中隊から独立して、神戸市単独で 1中隊が編成されたことが、それに大きく貢献していることを明らかに した。その第1次神戸中隊(通称本岡中隊)の編成は、どのように進め られたかについて検討を進める。
表3−15 義勇軍割当数と入所者数
学校名 東灘
蝋 帽
楠 東兵庫 吉田 若松 南須磨 垂水 計割当数 35 34 14 27 48 27 31 27 7 250 入所数 40 37 10 17 32 18 35 19 2 210 神戸市教育史第2集 P.66
r神戸市教育史第2集』には、上記の表が掲載されている。この表か ら明らかなように、神戸市では、1944(昭和19)年度の義勇軍募集に際 してこのような学校別の割当が行われ、それに基づいて各学校において 募集が進められた。 (神戸市では国民学校高等科は、垂水校を除いて初 等科を併設していないため、国民学校高等科○○校と呼ぶ)この割当が
どこで行われたかは明確でないが、
(前略)学校側でも、青少年の海外発展に関する職業指導教育の研 究協議とその仲介、送り出しなどをなすため、昭和十八年八月「神戸 市満州開拓協議会拓務教育協議会」を発足させた。以後同協会が義勇 軍の選出から送り出しまでの活動の推進母体として果たした役割は大