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 以上の検討によると、兵庫県からの義勇軍送出数:は、約1600程度とな り、従来の資料にある約2200という数字は考えにくいという結果が導き 出されてくる。ここでの検討には推定があり、また、兵庫県の資料に見 落としと思われる部分があったように、もう600人分の送出を見逃して いる可能性も否定し得ないが、内原訓練所入所者数を送出数とみなした 数値よりは、実際の送出数に近いものとなっていると考える。

6.偏る地域・偏る時期

 先に、義勇軍運動が「全国的規模の一大運動」であったという関係者 の言葉に疑問を呈しておいたが、この点が兵庫県の場合はどうであった について触れる。最も単純な方法として、兵庫県関係義勇隊員の出身地 について分析するが、送出数が推定に頼ったように、すべての隊員につ いて集計・分析することは不可能であるので、ここでは隊員名簿の入手 が可能だった1941(昭和16)年度送出の藤原中隊と、1943(昭和18)年 度送出の五十川中隊についてのみになることを断っておく。

 表3−8 出身戸別人数比較表(藤原・五十川中隊のみ)

中隊名

藤原中隊 五十川中隊

淡 路

34 34

神 戸

50 25

宍粟郡

24 26

佐用郡

1 1

 0

赤穂郡

16

 1

総 数

221 193

備考

藤原中隊の淡路34のうち津名郡30

藤原中隊の赤穂郡16は相生の7を含めたもの 五十川中隊に淡路の内訳は集計なし

五十川中隊には兵庫県としか記載のないものが18ある

 表3−8は2中隊の名簿に記載されている、隊員の本籍地を集計した ものである。本籍地を、応募当時の出身地と考えてよいかどうかは、多 少の疑問が残るが、概ね一致しているということを前提としている。

 表からも明らかなように、この2中隊はいずれも淡路島、神戸市、宍 粟郡出身者を中心に編成されている。したがってこれらの地域では、義 勇軍送出運動が盛んに行われたものと判断できる。しかし、他の地域の 送出数は、極めて少数:ずつでしかないことは、「郡教育会において1小 隊編成」を目標とした郷土中隊方式も、末端では機能していない地域が 多くあったことを示している。もちろん教育会等の努力にもかかわら ず、応募者の確保が困難であったとの解釈もなりたつが、いずれにしろ 兵庫県内においても、著しい地域的格差が存在したことは否定できな い。また、藤原中隊の宍粟郡出身者について見ても、その約4割が山崎 町の出身者であることを考慮すると、同じ郡内でも、地域によって送出 数にかなりの格差が存在している。

 また、表からは赤穂郡や佐用郡に見られるように、年によってもその 送出数に大きな変動が見られる地域もあることがわかる。その格差が何       し じみ

に起因しているかは解明し切れなかったが、例えば、三木市立志染小学 校創立百周年記念誌r志染』の年表には、1940(昭和15)年後半の部分

に、 「このころから高等科宿泊訓練が盛んに実施される(6)」との記述 を見いだすことができる。同校の訓練は、時期的に見て、兵庫県初の郷 土中隊である、藤原中隊の編成に関連して実施された拓植訓練であろ う。しかし他の年度では、翌年しかその記述が見いだせないことを考え ると、そのような訓練も、恒常的に実施されたものではないことがうか がわれる。志染小学校が属した美嚢郡出身者は藤原中隊に1卜いるが、

五十川中隊には存在を確認できず(不明18の中に存在の可能性はあるも

一一 121 一一

のの)いたとしても少数であろう。したがって、送出数:の時間的格差 は、そうした訓練の有無の影響を少なからず受けたものと考えられる。

 それらの事実は、義勇軍の送出が割当というノルマを課すという体制 を採ったために、末端に位置づけられた学校では、割当が下りてきた時 のみ、義務的な送出が行われた可能性を示していると考えられる。

7.渡満動機について

 ここで、少年たちが満州に渡る決断をする際に、最も大きな要因とな ったものは何かを検討しておきたい。少なくとも、教育と義勇軍との関 わりについて考察しようとする本研究においては、そのことは欠かせな いと判断するからである。しかし、ここでは資料収集能力の関係から、

限られた範囲においての検討に留まるのであるが、既存の資料との比較 において、彼らを干満へ衝き動かしたものは何かをさぐるという試みは 無意味ではないと考え、取り上げることとした。

 次頁からの表3−9は、1941(昭和16)年兵庫県送出の藤原中隊の中 隊史から作表したものである(7)。渡満動機については当初、いくつか の範疇に分類して集計作業を進めようとした。しかし単純要因のみでは ない、複合した動機もあり、また、分類の判断に疑問符がつくもの(例 えば「大陸へのあこがれ」といった場合、大農にあこがれるという経済 的動機と考えるのか、あるいは単に少年の持ちがちな海外雄飛の心情な のかという問題)が多数:出てきたため、分類による集計作業が困難と判 断するに至った。さらに、中隊史の記述には少数ながら見逃すべきでは ないと考えられるものも存在し、集計・分類によってそれらがかすんで

しまうことを恐れたため、長くなるが全文を掲載した。

 藤原中隊の中隊史r五野獣の歩み』は、中隊員全員について細かな資

一一 122一

表3−9 藤原中隊員渡満動機 氏 名

大西美智春 宮本盟 坂田正 北垣文男 近野三郎 坂部雄司 菱田昭二

鎌内春夫 佐伯正一 藤田甲一 大樫操

名畑信治 泉昇平 山口繁 平野功

上野由一

阿曽一美

岸本俊二 小林英一 佐伯三郎

浅田茂男

清水博 藤原章 八塚磯治 村上一美 正本嘉三

渡 満 動 機 未来の大農を夢見ていた

王道楽土建設。友人が満鉄に勤務、色々話を聞いた事によって第二の故 里を求めて。

元満蒙に新天:地を求めて。

学校での映画及び先生の指導による。

国策に副って、海外雄飛を抱いて王道楽土の建設に志願する。

先に渡満して徽江訓練所にいた同級生のさそいが動機。

学校の先生に勧められ、それまで義勇軍の義の字も知らなかった。 王 道楽土 の建設という当時の国策にそって大陸の荒野の説明を詳しく聞

き感動したから。

満蒙に第二の祖国をうちたてる あくまで自分の希望でした。

貧農の三男にて前途もなく、思いきって元満州に行くことにした。

学校の先生に聞いて、自分も大陸に行く事を考えていた。父も兄弟が多 いので一人くらいは満州に行って大農場を作る、そうして弟達も後から 行くようになればと話していた。

学校で話を聞き、国家優先の時代に自分の生きる道はこれしかないと決 心して、父母の反対を押して志願する。

学校教師、校長、村長の勧め。戦時下、次男生まれは奉仕隊、開拓団は 時代の流れ、先駆者といわれた。

三町歩の田畑があり、生活的ではなく、その時代の流れでしょう。自分 自身わかりません。

拓植訓練を楽しく受け、私は小農家の四男でもあり、校長先生や、担任 の先生の説明を聞き、5名が拓植訓練を受けたが一人も応募者がなく、

それでは一人でもと奮起し志願を決意した。

先生のすすめ。叔父、三等学生時代に満州へ見学旅行に行った話等にあ こがれ、母が病気で別れっらいこともあったが父からもそのことについ て四男三女の二男坊満州へ新宅をと言う事になった。

私の村は山奥で田畑は少なく貧しい寒村であり、家には兄弟も多く私の 学校からは何人も行っていませんでしたので、元満州に第二の故郷をつ

くろうと思いました。

義勇軍のパンフレットを見てあこがれた。

憧れと夢をいだいた。当時の国策と、少年として大志をいだいた結果の 志願であった。

昭和の初期は不景気と貧しい生活の時代で、学校や役場から、満州の大 原野に新天地を求めてみないか(私は三男)、三ヵ年の訓練を終えて開 拓団に入植すれば三十町歩の大地主になれる。

兄がノモンハン事件に参加無事退役。北満の広大なる土地と住民の暮ら しを聞いて、勉強がきらいな自分は兄弟も多いので移民として、百姓に なろうと思った。

子供ながら地図を見た時、また学校にて先生に学んだ世界の偉大さ、そ の時に私も狭い日本にいるより大陸に渡ってやってみたいと思った。

大東亜共栄圏を目指しての時代背景と家庭の事情(末っ子であったか ら)と高等小学校二年生の時の担任の先生の指導もあった。

国のため、満蒙に第二の祖国(新天地)を拓くという14歳の純粋な精

神。

国策の名のもと、五族協和、王道楽土建設。

大陸の生活を夢見て…  。

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ドキュメント内 兵庫県における満蒙開拓青少年義勇軍と教育 (ページ 123-128)