• 検索結果がありません。

少年達が三年の訓練を終へ、開拓團として開拓地に入り、妻を持ち健 やかな子供等を生み、二三十町歩宛の土地を耕して新しき村々を打建 て>h,ゆく将来を胸に書いた、そしてそれが彼等自身の生活の幸福と安 定とを約束するばかりでなく、日本がなほ越えてゆかねばならぬ幾多 の試練に於て大きな役割を果すことを思ひ、「義勇軍送るべし、萬難 を排して」と心の中に叫んだ(g)

 この手記が掲載された「神戸市民時報」は、1944(昭和19)年11月18 日に発行されているが、この時期は翌年に送出すべき第2次神戸中隊の 募集時期にほぼ一致していると思われる。したがって、本岡中隊の現地

での生活を市民に知らせるだけでなく、それに続く隊員の確保を進める ための広報活動という目的もあったと推定される。筆者が神戸市商工課 主事であったことを考慮すると、神戸市が満州移民を失業対策として推 進した事実はここにも表れており、「義勇軍送るべし、萬難を排して」

という決意は、敗戦間近の翌年も、義勇軍を編成・送出しようとする動 きにつながったものと考えられる。

2。本岡参議院議員の話

(1)本岡議員との面会(、。)

 本岡昭次参議院議員は、1931(昭和6)年生まれで神戸市出身。兵庫 師範卒、教員経験の後、兵庫県教職員組合執行委員長、兵庫県総評議長 を経て1980(昭和55)年参議院初当選(社会党)現在3期目。現在は社 民党を離れて独自で活動中である。最近では従軍慰安婦問題を始めとす る、戦後処理問題にも強い関心を持っており、それに関する埋もれた新 資料の発見にも貢献している。

177

 元来が教員である氏は、国会議員という格式ばった印象は全くなく、

庶民派ということばがあてはまる。実は、満蒙開拓青少年義勇軍第1次 神戸中隊(通称本岡中隊)の本岡達次中隊長は、本岡参議院議員の父君 だった。以下はその面会時のメモをもとに再構成したしたものである。

(2)本岡達次中隊長

 本岡達次氏は、いくつかの学校で教員を勤めた後、神戸市立国民学校 高等科吉田校訓導となり、第1次神戸中隊の中隊長に選任された。本岡 議員は、「父はスポーツ好きでした」という言葉で父君を表現した。身 体は壮健で、格技、球技などをこなし、相撲では全国的な大会にも進ん だほどであったと聞いたから、その元気の良さはかなり目立つものであ ったと想像される。最も関心を抱いていたことの一つは、中隊長に就任 することになる経緯であったが、明確な回答は得られなかった。

 しかし、本岡議員母(すなわち達次氏夫人)本岡悦氏は健在で、途中 から話に加わって頂き、いくつかの証言を得た。そのなかで、「早い 話、夫は先生(学校)の仕事があまり好きではなかったようです。」と の話があった。中隊長就任の経緯については、達次氏の志願か、当局の 指名かが最も気になるところではあるが、運動選手としても名を挙げる ほどの活躍をしていることからみて、何人かの中隊長候補者として白羽 の矢が立ったことは間違いないらしく、最終的には「誰も行きそうにな いから自分が行く。」という決断があったようである。本岡議員から は、 「私もそうだが父も反骨精神は相当に強く、上司と争うことも多く あって、転勤を繰り返したばかりでなく、同年代の先生と比較して、俸 給も低いままだった。」とも聞いたから、それらの事情も重なって達次 氏が学校に見切りをつける結果となったのではないかと考えられる。

一一

D178一

 達次氏の渡満後は、本岡家は経済的に困窮を極め、 「あの時期のこと を思うと、女も自活のための知識なり技能なりが必要だと思った。」と 厳しい表情で悦氏は当時を語った。結局、本岡議員が兵庫師範予科に進 むのも、経済的理由から、学費のかからない学校を選んだからなのであ ろう。本岡中隊長が家族を満州に呼び寄せる意志があったかどうかは定 かではないが、呼び寄せの決断の前に敗戦となったことは、日本に残っ た家族にとってはかすかな幸運であった。とはいえ、一日一日の生活が 重苦しくのしかかっていたことは、この時期の本岡家も例外ではなかっ

たと言える。

(3)本岡中隊

 本岡中隊は、神戸市内国民学校高等科9校の児童によって編成され た。多い学校は30入門上もの児童を送り込んでいるが、県の割当数250 名に対して、新聞報道では内原訓練所入所時が212名、渡満時142名と、

予定していた人数は確保できなかった模様である。また、幹部の編成に も苦労したようで、教練指導幹部の藤本輝夫氏は、本岡中隊長のいとこ であった。中隊幹部の編成にあたって、自分で親族に声を掛けなければ ならないほど作業が難航したのであろう。

 前年度送出の兵庫中隊(五十川中隊)も、幹部編成に手間取ったた め、渡満が予定より約1年遅れたとの指摘もあり、義勇軍の送出にあた っては、中隊幹部の編成に難航することがしばしばあったようである。

やはり大人は単に「義勇」という言葉には魅力を感じなかったか、義勇 軍の中隊幹部など、率先して行くものではないと考えられていたからで あろう。引揚げ後、 「いとこからはかなり恨まれたと思います。」と幣 制は語ったが、終戦後の満州で味わった辛酸を思うと、それも致し方な

ドキュメント内 兵庫県における満蒙開拓青少年義勇軍と教育 (ページ 179-182)