三、中央・地方をつうつる税制の整備 四、国民生活の安定
(イ)災害防除対策 (ロ)保健施設の拡充
(ハ)農山漁村経済の更生振興および中小商工業の振興等 五、産業の振興および貿易の伸長
(イ)電力の統制強化
(ロ)液体燃料および鉄鋼の自給 (ハ)繊維資源の確保
(二)貿易助長および統制
(ホ)航空および海運事業の振興 (へ)邦人の海外発展助長等
六、対隅重要政策の確立 一 移民政策および投資の助長策等 角、行政機構の整備改善
がその全貌であるが、これによって満州移民は、国家が推進者となるこ とが正式に示されたと言ってよい。一連の経過から考えて、直前の5月 11日に関東軍司令部で決定された「満州農業移民百万戸計画」が、内閣 によって国策としての認定を受けたと考えるのが妥当であるが、広田内 閣は「2・26事件」で岡田内閣が崩壊した後を受けて、難産の末に誕生 した内閣だった。しかも、事件後の粛軍の見返りと言う形で軍部の政治 関与は一段と激しくなり、それに加えて、軍部大臣現役武官制の復活な
どにより、それをさらに加速させたという芳しからざる歴史的評価が下 された内閣でもある。組閣人事への軍部の介入は公然と行われ、また、
最後は寺内陸相の辞任によって崩壊するなど、広田内閣は、事件後の軍
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部の横暴に終始振り回され続けたといっても過言ではない。国策化され た項目についても、各界からの要望が渦巻いて整理がつかず、内閣の意 図とは異なって多数の項目を掲げる羽目に陥ったとされるから、移民政 策に関しても、軍の主張がそのまま通ってしまう形となったことは否定
できない。
高橋蔵相は、演説の中でr今日非常時であるといわれているが、いま にも戦争がおこるように国民を煽動するものがあることが、非常時であ る。」と軍部を真っ向から批判し、結果的には「2・26事件」の凶弾に 倒れるのであるが、それからわずか5ヵ月後に、満州移民の国策化が決 定されるというのは、決して偶然ではないと思われる。
もちろん、高橋是清が「2・26事件」で暗殺されたのは、満州移民実 施に反対したことを直接の原因とするものではなく、それまでの一連の 言動が事件首謀者達の受入れるところとならなかったことによってい る。したがって、事件と満州移民の国策化を短絡的に結び付けることに は、多少の危険も含まれているが、
すべての歴史がそうであるように、この事件においても、当事者の 意図とはまったく異なった結果がそこから生まれ、それが独り歩きを はじめる。そしてそのなかで、戦争への道が着実に切り拓かれていっ
たのであった(3)。
との指摘に見るように、高橋是清暗殺が、首謀者の意図とは別に、満州 移民の国策化に弾みをつけたことはほぼ確実であろう。こうした政治状 況のもとで満州移民が国策化され、しかもそれを決定した広田内閣が短 命に終わったことは、結果として、その後の移民政策の無責任さにつな
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がつたといえ、その代償が、国策の美名に踊らされた、多くの国民の犠 牲となることに気付いた人は、少なかったに違いない。
2.戦局の推移と満州移民政策
満州移民政策は、戦局の影響をも強く受けている。満州事変の翌年に 当たる1932(昭和7)年から試験移民の送出が始まったことや、日中戦 争の翌年に満蒙開拓青少年義勇軍の送出が始められたことからも、それ
は容易に理解される。
満州移民送出が広田内閣によって国策化されたことは既に見たが、そ れは、1936(昭和11)年8月25日であった。日中戦争の勃発は、その約
1年後にあたり、そのため一般の成人移民は、初期の段階から計画の達 成が危ぶまれる事態となっていた。危機的事態とは、日中戦争による兵 員の確保と、移民の確保が競合することを指す。もちろん、日中戦争初 期の政府内部には、戦線の不拡大方針が存在したから、その後の戦線の 拡大および長期化は、指導者層にも想定されていなかった。しかし、義 勇軍が開始される直接的な契機とされる、 「満蒙開拓青少年義勇軍編成 に関する建白書」、が1937(昭和12)年11月3日に加藤完治らによって 提出され、その月末には「満州に対する青年移民選出に関する件」が閣 議上程されたうえ即日決定したことや、
優良なる青年を多数満州国に送出し、大量移民国策の遂行を確実か つ容易にならしめんとす(4)
との当局の謳い文句にも見られるように、満蒙開拓青少年義勇軍が、日 中戦争開戦による、満州移民送出の停滞を補填する意図を持つものであ
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つたことは明白であろう。
一般開拓団送出にとって、国策化の決定が及ぼした影響を挙げるとす るならば、翌年から開始される「分村・分郷方式」による移民送出を挙 げることができる。折からの不況や過剰人口を抱えて恒常的に困窮に見 舞われた農村にとっては、分村・分明方式による満州移民の送出は、新 しい切り札であったし、農村経済更生計画の行き詰まりを打開したい農 林省にしても、この方式は歓迎すべきものであった。分村による経済的 効果が、母村にどの程度もたらされたかは、村によって事情が異なる が、国策化以降の一般開拓団の主流が、この方式によるものであり、全 期間を通じて送出された開拓団の約75%がそれに当たることを見ても、
一般開拓団は「経済的理由」が送出の主因となっていると見られる。し
かし、
一般開拓団の多くが生きるための手段として移民の道を選んだのに 対して、青少年義勇軍は、国家の要請に対して「この要請に応えるこ
とは日本小国民の名誉であり、義務である」と考え、ある者は自分の 意志により、またある者は先生や有志の執拗な勧奨によって広い満州 の天地に羽撃いたのである(5)
との指摘は、義勇軍と一般開拓団との間の違いを際立たせている。そし てその事実は、今もって義勇軍関係者の胸中に残る「義勇解明」を形成 する重要な要因となっているように思われるが、今一つ、一般開拓団と 満蒙開拓青少年義勇軍との違いを明確に示しているのは、軍事的色彩の 濃淡である。
表1−1は、r満州開拓史』から、義勇隊開拓団の入植先を墜下に見