万町義勇隊開拓団 ョ日義勇綱開拓団
道溝義勇隊開拓団
荻野惣治 至ル信長 ャ島守次
東今省勃利県 k安雲南泉県 g林省敦化県
混成 混成 混成
満州開拓青年義勇隊勃利訓練所概要(康徳6年1月末現在)のなかに は、荻野中隊に兵庫県出身者の在籍が記されており、同年6月の鉄騙訓 練所概要にも、月館中隊と小島中隊に県関係者在籍の記録がある。 (康 徳6年は昭和14年)したがって、兵庫県の資料は、この第1次の混成中 隊について県関係者の存在を見落としているものと思われる。しかし、
すべての混成中隊について確認できたわけではなく、その点から言え ば、この3中隊以外にも、兵庫県関係者の存在は十分頃予想できる。
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5.送出数の推定
満州関連の研究が困難を伴う一つの要因は、残された統計資料が正確 さを欠いているからである。例えば義勇隊員の送出数にしても、満州拓 殖公社の1945(昭和20)年5月現在の調査では、101,627名であるのに 対して、1946(昭和21)年10月31日の調査ではその数を推定としながら も、義勇隊開拓団と義勇隊中隊員をあわせると、58,694名にしかなら ず、 「内原訓練所送出名簿」なる資料から算定されたものは、86,490名
という数字になる。また、先に掲げた表3−1から算定しても、72,607 名という全く異なった数字が導き出されてしまうほどであり、資料によ
ってばらつきが著しい。もちろん、それぞれの資料の調査時期や調査方 法、あるいは算定基準などが統一的でないことによるのであるろうが、
正確な送出数すら判然としないという事実をみても、義勇軍がいかに無 責任に送出されたかは明白である。全国の送出数については詳細に検討 するだけの資料に乏しいため、ここでは兵庫県のみを取り上げ、複数の 資料を照合しながら送出数について把握しようと試みるものである。残 念ながら資料の不足した部分は、推定に頼っていることを予め断ってお
きたい。
兵庫県関係者の存在が確認された中隊については、既に見たが、これ を渡満時期によって整理したものが表3−7である。
兵庫県出身者の数:がほぼ確定しているものは、野中右端に、その人数 を記入している。それを見ても明らかなように、人数の確定が比較的容 易なのは、郷土中隊方式が導入された1940(昭和15)年以降の中隊であ る。しかし、兵庫県の資料に見落としと思われる部分があったように、
初期の全国混成の中隊については、兵庫県関係者の数を確定することに 困難が伴っている。
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表 3−7 兵庫県関係者在籍義勇軍一覧
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中隊名 訓練所 渡満日 備 考第1次 村崎中隊 混 徽江 13. 4.27 1次 和気中隊 混 轍江 13. 6.26
1次 小島中隊 混 鉄弓 13. 7.18 確定 22 謙醐要 1次 酒井中隊 混 寧安 13. 9.23
1次 荻野中隊 混 一利 13.10. 4 確定 1 訓練瀦要
1次 月館中隊 混 鉄驕 13.11.25 確定 5 調踊醸
2次 久保中隊 混 鉄騒 14. 3. 2
初年度357
2次 木村中隊 混 鉄駿 14. 6.20 2次 羽賀中隊 混 勃利 15。 2.15
2次 噺肌鼓隊 混 面立 15. 3. 2
2年度推定200
3次 谷本中隊 混 轍江 15. 6.15 152 面会資料 3次 片桐中隊 混 鉄騒 15.12. 4
3次 川村中隊 混 山江 16。 3. 1 26 拓友会資料 4次 藤原中隊 徽江 16. 6.18 確定 221 中隊史,
5次 河南中隊 混 豊栄 17. 5.15 130 拓友会資料 3次 佐藤修 混 内原 17.12. 3
6次 五十川中隊 徽江 19. 3.13 190 撤会資料
7次 本岡中隊 一面披 19. 6.22 150 拓友会鮒
8次 岸中隊 孫呉 20 .5. 6 160 拓友会資料
r満州開拓史』から作表
まず、初年度の送出数について見る。 「事変下開拓民募集方策ノ検 討」 (満鉄東京支社作成)には、1938(昭和13)年度の府県別送出数と 1939(昭和14)年12月末日の内原訓練所入所者数:が掲載されている。そ れによると、兵庫県の初年度送出数は357となっているが、表3−1で は、その数が409となっていたから、この数値と矛盾する。後者の数値 は、内原訓練所入所者数をもって渡満数に置き換えたものであろう。入 所者数が渡丁丁数:に一致しないのは、内原訓練所において脱落者が出た
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ことからも明らかであるから、ここでは前者の数値に信愚性があるもの と判断した。したがって、後者の数値についてはこれ以後、内原訓練所 入所者数の参考資料として取り扱う。
1939(昭和14)年度については有力な資料に乏しく、先に見た内原訓 練所入所者数232が最も送出数に近いと推定する以外にない。しかし、
ここからある程度の脱落者が出たものと考えなければならないため、こ こでは、この年の送出数を約200と推定する。
1940(昭和15)年度についても同様であるが、幸い谷本中隊152と川 村中隊26の数字は拓友会資料に残されており、この年の内原訓練所入所 者数:213と比較した場合、残った片桐中隊の兵庫県出身者は30程度とな り、しかもそこから脱落者も想定されるため、この年の送出数も約200 と推定して差し支えないと考える。
1941(昭和16)年度は、既に郷土中隊方式による編成が開始されてお り、この年の兵庫県関係者は藤原中隊のもと考えられる。したがって、
藤原中隊の中隊史に残された221が正確な数字であろう。内原訓練所入 所者数との誤差は、脱落者とみて差し支えない程度の数字であるから、
この年は、これ以外には兵庫県関係者は無かったと考えられる。
ついでユ942(昭和17)年度は河南中隊と佐藤修団長の中隊とがあるこ とになるが、表にも見られるように、佐藤団長の中隊は第3次(昭和15 年度)の入所であり、この年の人数は、こちらに加算されたものと考え るべきであろう。したがって、この年の送出数は河南中隊のみの130を 妥当な数値と考える。
それ以降は、五十川、本岡、岸の郷土中隊3つ以外に兵庫県出身者の 存在は考えにくく、拓友会資料をもとに挙げた数:字に妥当性があるもの
と推定し、表中に掲げている。
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以上の検討によると、兵庫県からの義勇軍送出数:は、約1600程度とな り、従来の資料にある約2200という数字は考えにくいという結果が導き 出されてくる。ここでの検討には推定があり、また、兵庫県の資料に見 落としと思われる部分があったように、もう600人分の送出を見逃して いる可能性も否定し得ないが、内原訓練所入所者数を送出数とみなした 数値よりは、実際の送出数に近いものとなっていると考える。
6.偏る地域・偏る時期
先に、義勇軍運動が「全国的規模の一大運動」であったという関係者 の言葉に疑問を呈しておいたが、この点が兵庫県の場合はどうであった について触れる。最も単純な方法として、兵庫県関係義勇隊員の出身地 について分析するが、送出数が推定に頼ったように、すべての隊員につ いて集計・分析することは不可能であるので、ここでは隊員名簿の入手 が可能だった1941(昭和16)年度送出の藤原中隊と、1943(昭和18)年 度送出の五十川中隊についてのみになることを断っておく。
表3−8 出身戸別人数比較表(藤原・五十川中隊のみ)
中隊名
藤原中隊 五十川中隊
淡 路
34 34
神 戸
50 25
宍粟郡
24 26
佐用郡
1 1
0
赤穂郡
16
1
総 数
221 193
備考
藤原中隊の淡路34のうち津名郡30
藤原中隊の赤穂郡16は相生の7を含めたもの 五十川中隊に淡路の内訳は集計なし
五十川中隊には兵庫県としか記載のないものが18ある