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感覚は、個人によって違いがあり、取材でも「粗食に耐えられなかっ た。」との評価と、 「それほど苦痛ではなかった。」という評価に分か れている。

 そのように、内原での食事についての不満が意外に少ないのは、渡満 後の食糧事情が、極めて貧弱だったことによるのであろう。ただ、簡素 なものであったことは確かであり、その分量も不十分なものであった。

さらに、国内の食糧不足を反映してか、終末期になるにつれて内原の食 糧事情も次第に窮迫し、とりわけその時期の所外訓練では、開墾や増産 の支援に出た中隊への食料供給は、滞りがちであったとも聞いた。r満 州開拓史』は、食事について

 満州現地の事情に即応した食品の調理が要請され、饅頭、豆もや し、黄粉、鉄火味噌、煮豆、塩煎餅、焼芋、味噌、豆腐、油揚、飴、

パン、ビスケット、妙豆、菓子等の製造も訓練生自身の手で行われ た。食事は訓練生も職員も同様に、一椀一汁の簡素な献立であった が、主食は米麦で、入所後の一週間が九分揚、次いで五分掲と細かい

ところにまで神経を配った(4、)。

と記しているが、これは訓練所概要にも一致しており、食事について は、ほぼこのようであったのではないかと思われる。しかし、先にも触 れたように、現地訓練所の食糧事情は極めて悪く、

 私の所属していた佐俣中隊は、250名ほどおりましたが、そのうち、

約200名が、栄養失調で働けなくなってしまったのです(42)。

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といった関係者の証言は、それを裏付けている。

(3)訓練内容

 内原での訓練は、大別すると学科、術科、実習の3つを主な内容とす るものであった。内原中央公民館長黒澤毅一氏から頂いたメモには、詳

しく時間配当が記されており、それによると、内務訓練88時間、農事訓 練150時間、教練108時間、教学56時間、武道30時間の訓練内容となって

いるから、訓諌の重点は教練や農業関係の実習であったことが理解でき る(43)。また、訓練期間は当局が出した要綱等でも、2ヵ月と表記して いるものもあれば、3ヵ月となっているものもあり、流動的であった。

 この点を確i遷してみると、初年度の1938(昭和13)年に内原訓練所に 入所したことが記録されている中隊のうち、入所月の不明確な5中隊を 除く65中隊中、7中隊が3ヵ月を越えて内原に残っている。原因は不明  表2−4 内原訓練所日課(44)

時    刻 合図 内    容

午前  6:00 太鼓 起床・洗面

6:30〜  7:30 嘲肌 点呼・礼拝・体操・武道・教練等

7:40 朝食

9:00〜11:30 学科・教練・作業

12:00 太鼓 昼食

午後  1:30〜 5:00 嘲夙 教練・作業・武道

6:00 夕食

6:30〜 8:00 入浴・自習・放送・詩吟・唱歌

8:30 太鼓 点呼・礼拝

9:00 嘲臥 消灯

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であるが、最長では約5ヵ月の中隊もある。初年度は、現地訓練所の建 設等も重なって、一刻も早く隊員を渡満させる必要があったはずである が、全期間を通じて最も長く内原に残ったものでは、約2年半を内原訓 練所で過ごし、現地訓練所を経ずして開拓団に移行した凌雲義勇隊開拓 団(昭和15年3月内原入所、昭和17年12月渡満)の例もあるように、内 原での訓練期間は中隊によって著しい違いがあった。

 公表されている訓練所内での日課は表2−4の通りである。日課は季 節によって若干の違いがあり、表は夏季の訓練日課の基準を示したもの

である。

 この他にも、

 土曜日はほとんど行軍に費やし、日曜日の半日が休養であった。夜 半、警備勤務の模擬夜襲に肝をひやし、三日に一度は輪番でまわって

くる半不寝番勤務に、発育期の眠い目をこすった(45)。

とあるように、訓練は必ずしも日課の通りではなく、不寝番などは年少 者達にとっては過重な負担であったと推察される。また、必要に応じて 実施された所外訓練は、そのほとんどが開墾、あるいは土木作業であっ て、終末期に至っては、かなり遠方にまで出向いて現地に泊まり込んで の作業も行われていた。いずれにせよ、不十分な施設や食事に耐えなが ら、重労働に駆り出された少年たちには、辛い試練であったに違いない が、関係者からは、「耐えることを学んだ。」あるいは「この時に苦し んだから今の自分がある。」といった肯定的な話を耳にすることが多か ったことも付け加えておく。

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(4)現地訓練所

 義勇軍に志願した者は、現地で約3年間の訓練が終了した後に、中隊 を基本とする開拓団に移行することになっていた。従って、内原での内

:地訓練を予定通り2、3ヵ月で終えて渡満した後の約3年は、満州の現 地訓練所で過ごすことになる。前述のように、内原での訓練期間が、中 隊によってまちまちであったから、現地訓練所での訓練期間もそれに応 じて異なっている。最も早くに設置されたのが5大訓練所であった。轍 江(竜江省轍江県伊三吟)、孫呉(黒河省孫呉県孫呉)、寧安(牡丹江 省平安県沙男運)、鉄驕(浜江省鉄曜甲鉄騙)、勃利(三江省勃利県桃 山)の五つがそれである。

 これらの5大訓練所は、義勇軍の募集が始まった1938(昭和13)年の 年頭から準備が進められたものであるが、冬季の満州での訓練所建設作 業は難航した模様で、規模が縮小された訓練所もあった。そのため、初 年度送出予定の3万人を収容する施設が確保できなくなり、急遽、喀爾 浜と昌図に、特別訓練所が設けられることになった。特別訓練所は、大 訓練所の施設が完成するまでの当座の期間を過ごすべきものとして設置 されたが、それだけに施設面の不備は否めず、不十分な施設の中に、大 量の訓練生がひしめいていたために、問題が頻発する訓練施設でもあっ

た。

 義勇軍制度の初期にあっては、訓練所は大訓練所と小訓練所に大別さ れ、通常は大訓練所において概ね1年を過ごし、その後の2年間は小訓 練所に移行する予定であった。小訓練所はさらに甲種、乙種、鉄道自警 村訓練所の3種に分かれていたが、甲種訓練所は、訓練終了後にその地 で開拓団へ移行するもので、乙種訓練所は訓練終了後に別の地に入植地 を求めて開拓団に移行することを前提としていたという違いがある。乙

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種訓練所は、訓練生が出ていけば、再び訓練生を受け入れることになっ ていた。鉄道自警村訓練所は満鉄経営のものであるが、ほぼ甲種訓練所 に準ずる取扱いと考えてよい(46)。しかし、これらの訓練所の種別は、

訓練本部組織の改編に伴って、1940(昭和15)年度以降は、廃止される こととなった。

 r満州開拓史』に付された地図を見ると、声望各地に展開された一般 開拓団や義勇軍現地訓練所および、訓練所から移行した義勇隊開拓団の 分布が極めて詳細に記されている。

 満蒙開拓青少年義勇軍訓練所や、義勇隊開拓団の入植先は、明らかに 一般開拓団に比して、ソ満国境よりにある傾向が見られる。とりわけ、

吟爾浜〜牡丹江を結ぶ鉄道沿線(通称浜江線)の延長上以北に著しく偏 っており、それは北安省、黒河省、の北部ソ満国境と、東安省、牡丹江 省といった東部ソ満国境に圧倒的に多く認められる。 (鉄道路線につい ては、巻末資料2満州国鉄道地図参照)白取道博氏はこれら訓練所の分 布から、その意味する軍事目的を詳細に検討しており、訓練所に与えら れた主たる軍事目的は、兵靖基地、あるいは糧秣庫としての期待が高か ったと分析している(4。)。そして、その分析に見られるように、現地訓 練所および義勇隊開拓団は、攻撃的要素よりも防衛的あるいは持久的要 素を主眼に置いた施設であった。

 だとすれば、この分布はあきらかに関東軍の戦略の一端を担ったこと を示しているのであり、1941(昭和16)年後半からのいわゆる「静誰保 持」や、1943(昭和18)年頃から激しくなった南方への「兵力抽出」と 表裏一体をなすものであると言わなければならない。ノモンハン事件で の大敗を、敗戦まで国民に秘していた関東軍上層部は、 「無敵関東軍」

の実態が、ソ連機甲師団に遠く及ばないことを知っていたはずである。

一一

@73一

にもかかわらず、極めて軍事的色彩が濃厚な、満蒙開拓青少年義勇軍に 与えられた戦略的価値は、「捨て石」としての役割だったのではないか という疑念がぬぐい去れない。事実、多くの犠牲者を出した在満邦入の 中で、義勇隊員の被害は、比率を見れば一般開拓団や他の自由移民に比 べて圧倒的に高くなっているが、その主な要因は、危険な北部及び東部 ソ満国境への派遣であったことは疑いない。

(5)昌図事件

 訓練所の姿を再現するために、住環境や食生活、そして訓練内容や日 課等を見てきたが、その実態の一端を知るためには、「昌図事件」につ

いて述べなければならない。四丁とは、現地訓練所で触れた、昌図特別 訓練所を指し、同訓練所で1939(昭和14)年5月5日目発生した訓練生

の大規模乱闘事件を「昌図事件」と呼ぶ。

 事件の発端は、事件当日に同訓練所で実施された運動会の「百足競 争」の判定をめぐるものであったが、その背景には、同訓練所に入所し ていた9(または10)中隊問の日常的な反目があった。つまり、1938

(昭和13)年度入所の3中隊と1939(昭和14)年度入所の6中隊との間 での恒常的なトラブルがあり、その原因は、端的に言うと「先輩中隊の 後輩中隊いびり」にあった。

 先に、本事件を「乱闘事件」と紹介したが、実際の事件は、その表現 が必ずしも適切とは言えない内容のものであることを断らなければなら ない。事件は5月8日未明にまで及ぶが、銃が持ち出され、突撃ラッパ が吹かれ、未遂に終わるが火災も引き起こされるなど、棲惨としか表現

しようのないものであった〔48)。

 ただ、戦闘は長くは続かず、満州国軍が重機関銃をならべて鎮圧に当