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混沌社への移行期にみる交遊の様相

ドキュメント内 著者別名 JEONG Kyungjin (ページ 186-192)

第四章 「文人」を体現する-結社から隠逸まで

第三節 文人交遊から隠逸へ

3.1 混沌社への移行期にみる交遊の様相

前節で成大中家の青城詩社と京坂文人の詩社の営みの諸様相について詳論してきた。

ここからは、結社を通して展開される交遊の様相や、日韓文人の生き方を支えた中国文人 の思想までを射程に入れながら、18世紀日韓の文人社会における文人のあり方の一端を より深く掘り下げる。まずは、前節の続きから京坂文人の交遊ぶりを取り上げたい。とり わけ、前節で紹介した混沌社の「自由奔放」な交遊ぶりが、混沌社が結成される以前の蒹 葭堂会においてすでにみられていたか否かを再検討したい。そのための重要な手がかり となるのが、本研究の主な題材である《蒹葭雅集図》である。《蒹葭雅集図》の詩などの 資料から読み取れる蒹葭堂会の交遊の様相が、混沌社のそれと重なる部分を中心に検討 していく。

第一に、蒹葭堂会から混沌社にまで共通して行われた交遊の一端として「遊山」を挙げた い。遊山とは、山野に出かけて花見・紅葉狩・茸狩などの遊びをすること(『日本国語大辞 典』)を指し、近世から使われた概念である177。もちろん、文人たちが自然を楽しみ、その

177 近世日韓の「遊山」について論じた貴重な論考として、金廷恩(2013)「近世日本・韓 国における遊山の旅―十八世紀以降の漢文紀行を中心に」(染谷智幸・崔官編『日本近世 文学と朝鮮』)がある。金廷恩が指摘するように、朝鮮では 18 世紀に入ってからも旅を楽 しむ層は両班の特権階級に限られていたという。道路や宿の整備はされていたものの、そ れを利用できるのは、官吏や一部の階級に制限されていたことがその一因になると指摘し ている(金廷恩:2013、pp111~112)。

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中で遊ぶことは日本固有のものでも、この時代固有のことでもない。前に触れた成大中家の 詩社の場合も司馬会の後、近くの池に出向いては作詩をし、交遊する様子が確認された。遊 山は文人のありように重要な影響を与えたと考えられるが、蒹葭堂会での遊山はその進め 方が会約に盛り込まれていたことにその特徴がある。では、記録から蒹葭堂会と混沌社にお ける遊山の様子を確認してみよう。

一、策謀日々の下馬、あるいは江山及び郊外勝外に遊ぶ。会集を為す者、以て浴沂風雪 の楽に倣ふ、然して帰期は載星を得ず。(「草堂会約」)

二、一社親疏無からずと雖も、或いは結伴出遊し、月に花に東西相ひ携へ、虚日無きが 如し。而して人各事故有つて、挙社相ひ会する有ること少なし。担だ余と子琴とは 必ず往く。(『在津紀事』)

まず、「草堂会約」は、先に引用した蒹葭堂会の会約である。その内容をみると、江山や 郊外の景勝地で行う遊山の掟が収められている。これについて野間は「草堂会約」の内容か ら蒹葭堂会の特徴を「秩序と時間の厳守」と論じたうえで、その厳格さが後に結社の解散を 促したと分析している178(野間光辰:1973、pp15∼16)。確かに、蒹葭堂会における遊山が 定めた日の午後からにして、帰りが遅くなりすぎることを禁じていたことを踏まえると、

「秩序と時間の厳守」が重んじられていたと考えられる。しかし、本研究が注目したいのは 盟主・木村蒹葭堂が明らかにしている遊山の目的、すなわち、「浴沂風雪の楽に倣う」であ る。浴沂風雪の楽しさの「浴沂」は、『論語』の「先進第十一」に「浴乎沂、風乎舞樗、詠 而帰、」という故事を出典とし、「名利に営々とするを忘れて優游自適する喩179」をいう。そ

178 そのような見解は、梅溪の研究からもみられる(梅溪昇:1998、pp162~163)

179 曽晢が孔子の問に対して沂に浴し舞雩に風し詠じて帰らんと自適の志を述べた故事『大 漢和辞典』

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れは蒹葭堂会の遊山が、中国故事の文人が遊山を通して体現した楽しさにちなんで行われ ていたことを意味している。そのような様相は、蒹葭堂会の交遊がもっぱら詩作のみを重ん じていたのではなく、同人同士の交遊をも大事にしていたことを物語っており、《蒹葭雅集 図》の木村蒹葭堂の詩に「何年をともに歩き回ったのだろうか」に通ずるものと言えよう。

野間が蒹葭堂会と混沌社との間にある相承発展の関係を、「草堂会約」の既望の日に景勝 地で行う会集に見出した(野間光辰:1973、p18)ように、遊山の交遊は蒹葭堂会を経て 混沌社にもそのまま受け継がれていた。しかし、混沌社における遊山の様子は蒹葭堂会に おける厳格さから脱していた。『在津紀事』の記録をみると、混沌社の場合、遊山に参加す る人は親交の深さに関係なく、ひまな日がないほどあちらこちらへともに出かけていた様 子が浮かび上がる。また、混沌社の遊山は個々人の都合によって自由に行われ、必ずしも 会を挙げてのことではなかった。この点はきちんと決まった時間内で行われる、強制性を 伴う行事の性格であった蒹葭堂会の遊山と趣を異にするものである。つまり、蒹葭堂会に おいて「浴沂風雪の楽に倣う」という遊山の目的がはっきり示されていたことに対し、混 沌社に至るとそのような目的が不要となっていたことを物語る。言い換えれば、混沌社に おいては遊山が交遊の一部として定着していた、とも言えるのではないだろうか。

次に、再び《蒹葭雅集図》の詩を取り上げ、蒹葭堂会から混沌社への移行期にみる交遊の 様相を分析してみよう。繰り返しになるが、蒹葭堂会が詩社という名にふさわしい交遊の場 であったことは雅集図のいずれの詩からも読み取ることができた。注目したいのは、《蒹葭雅 集図》の詩から受け取れる交遊のイメージを分析すると、前章で論じた菅甘谷塾や蒹葭堂会 の会約にみられた厳格な雰囲気にそぐわず、むしろ、『在津紀事』などこれまでみてきた混沌 社の交遊の様相に近いということである。それゆえ、雅集図のいずれの詩にも題材として飲 酒や自由な詩作、談論の様子などが挙げられている。ここで交遊の様子を詠んだ詩句をまと めてみると、以下のようになる。

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(表8)

蒹葭雅集図にみる交遊 詩句

飲酒と風流 風流を知る客がいる

ひたすらこの春の夜明けに酒を飲み 人は三春の酒に酔う

酒屋の酒は司馬が売っていたのと同じで 詩は新しい口調により

この中、酒注ぎが許され/二、三かめは飲めそうだ

くさびを打ち込んで(客を引きとどめ)常に白酒に浮かれ 上気して回る限りない興を誰が知るだろうか

詩作・学問 詩を詠む筆をどれほど遊ばせただろうか 招隠の詩は詠むに難しくなく

文雅はあの人にいたって 冬の間は史記を用い堪えて 文を論じ、日々声を高くし 交遊 この稧会の図はどうだろう

これほどの金石のような盟約があろうか 美しい琴の音楽はいまだ休まず

長い年月付き合った友の文があり 人はみな旧知であり

高堂で常に友と付き合い

親密な仲をふだんから好み/主人と客を問う必要などあろうか 談笑は偏ることも余ることもない

何年をもともに歩き回ったのだろうか 盟社がこのようにあるのに

雅集図の詩における交遊ぶりを管見すると、上の表8のようになる。たとえば、木村蒹葭堂 の「何年をもともに歩き回ったのだろうか/文を論じ、日々声を高くし」からは長く続いた遊 山の慣行や、自由な談論の様子が見て取れる。また、聞中浄復は「親密な仲をふだんから好 み/主人と客を問う必要などあろうか/談笑は偏ることも余ることもない」といい、詩会の客 人として詠んだ詩であることが想定できる。先述の蒹葭堂会の会約の内容に「坐次は必ずし も賓主を分たず…若し他賓来る有らば、則ち時に因りて其の例を異にするは可」、「劇談笑語

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は最も構思を妨ぐ」とあったことを思い返せば、聞中浄復の詩からは、客人を交えたより緩 やかな雰囲気の詩会の様子が窺える。先述のように混沌社が客人の参加に寛容であったこと を踏まえると、すでに蒹葭堂会においてその開かれた交遊の様相が見られたことが指摘でき よう。

その一方で、福原承明の「美しい琴の音楽はいまだ休まず」や片山北海の「上気して回る 限りない興を誰が知るだろうか」などに注目すると、詩からは詩作や飲酒、音楽などを通し て、興をかき立てる場の雰囲気が伝わるようである。さらにいえば、必ずしも琴が演奏され るわけではないにしても、詩・飲酒・琴は中国文人の嗜みの基本であった。それは、先述し た同人たちの体得した「知」と文人趣味が詩会で体現されていたこと、あるいは、第二章《蒹 葭雅集図》を評価した李徳懋が述べたように、琴を採用することによって、風流な集いのイ メージを強調しているとも言えよう。

以上をまとめると、前章でみたように蒹葭堂会の詩会では、菅甘谷塾より緩やかであった としても依然として厳格に詩作が行われていた。しかし、《蒹葭雅集図》の詩から浮き彫りに なったのは、蒹葭堂会の場においても酒や文人趣味を楽しむ自由な交わりが盛んに行われて いたということである。これは《蒹葭雅集図》をどう読み解くかの問題にもつながると思わ れる。なぜなら、雅集図に具現された交遊のイメージは必ずしも蒹葭堂会に限定されるもの ではなく、蒹葭堂会から混沌社に移行する時期の様子の表れと読み解くことができるからで ある。

最後に、混沌社への移行期における交遊の様相を究明するうえで重要な資料として、《蒹 葭雅集図》の制作される前の1764年正月に、蒹葭堂会の有力詩人であった鳥山崧岳が大坂 一の景勝地・網島の酒楼で開いた詩会での詩を検討したい。『垂葭詩稿180』巻三にその日、

吟詠した詩が入っている。

180 本研究の『垂葭詩稿』の引用は『浪華混沌詩社集』般庵野間光辰先生華甲記念会(1969)

に収録されたものによる。

ドキュメント内 著者別名 JEONG Kyungjin (ページ 186-192)