• 検索結果がありません。

成大中と成海応の評価

ドキュメント内 著者別名 JEONG Kyungjin (ページ 112-115)

第二章 「文人世界」の共有-《蒹葭雅集図》の分析から

第三節 《蒹葭雅集図》の評価と成大中家の家伝

3.2 成大中と成海応の評価

ここからは《蒹葭雅集図》の成大中家での家伝について検討する前に、京坂文人と雅集図 に対する依頼者成大中とその子・成海応の評価について概観する。

答白陽川書

大中前入日本時。有木世粛者。家居浪華江上。以風流好客称。与同志九人結詩社。嘗 有雅集於其所謂蒹葭堂者。大中求見其詩。世粛乃図画其雅集而帰之。至今在吾笥。大 中於異域之人。(成大中、「書」『青城集』巻五)

この「答白陽川書」によると、成大中は木村蒹葭堂の風流人としての一面や、彼が志を同 じくする9人と蒹葭堂会という詩社を結んでいたことを知っていたことがわかる。大事な のは、「大中求見其詩」からもわかるように、成大中がその詩会で詠まれる詩を実際に見た いと願っていたことである。使行時の唱和を通して京坂文人の詩文能力を知っていたはず だが、成大中自身の興味が園林・蒹葭堂で行われる詩社と、そこで読まれた詩に向けられて

108

いたことを物語る。前章での考察のように、宿舎を離れ実際にその詩会に参加することので きなかった成大中らにとって、雅集図はその願いを叶える唯一の手段であったのである。

その次に続く「世粛乃図画其雅集而帰之(そこで世粛(蒹葭堂)がその雅集の様子を絵と 描いて、それをもって帰国した)」からは、雅集図は成大中の願望に蒹葭堂が応える形で作 られたということがわかる。

《蒹葭雅集図》は、蒹葭堂会の人々から成大中に贈答されたが、金銭的やり取りを介しな い贈答行為は後述するように、成大中にとって重要な意味を持つ。特記したいのは、成大中 も書をもって木村蒹葭堂に贈答したということである。先述のように《蒹葭雅集図》の絵の 中の蒹葭堂が旧宅なのか新築の居宅なのかは明らかでないが、成大中の記録によると、成大 中が蒹葭堂の扁額を書いたことがわかる。

書東槎軸後

及以文事赴日本。書則非吾職也。然倭人酷愛吾書。動輒求之。始為亀正魯草数紙。

又為木世粛書蒹葭堂額。(成大中、「書東槎軸後」『青城集』巻八)

成大中は記録の中で通信使の書記の役割は、日本人との詩文和唱や筆談を行うことであ ると明記している。さらに、本来なら書を書くのは仕事ではないとしながらも、成大中は使 行中、藍島で交遊した儒者・亀井南冥と木村蒹葭堂のために書を書いたといっている。残念 ながら、日本側の記録に成大中が蒹葭堂の扁額を書いたという記述は今のところ確認でき ていないうえ、成大中が扁額を書いた時期は定かでない。しかし、成大中自身の言うように 通信使の書記としての役割を離れ、扁額の書を書いたことは、《蒹葭雅集図》の贈答と無関 係ではないと推測できる。

ここで雅集図についての成大中の子・成海応の記述を紹介しよう。

109

蒹葭堂。在日本浪華江上。木弘恭所居也。弘恭好蓄書。甞与其徒僧笁常等。為雅集于堂 中。時先君子従使事入日本。弘恭乃以此画見贈。欲広之他邦也。堂宇蕭灑。花木照映。

江中帆檣。出沒於葦蘆際。悠然可望。大有黃大癡意。笁常作後序。亦雅潔可読

(成海応「書画雑識」『研経斎全集続集』巻二十六)

ここには、先にみた李徳懋の蒹葭堂に関する記録と同様の内容が記されている。だが、「弘 恭乃以此画見贈。欲広之他邦也。」からは、成大中の依頼に応じ雅集図を制作するも、他邦

(朝鮮)に自身の詩や絵などが広く受け入れられることを願った蒹葭堂会の人々の目的も 見て取れる。次に、「堂はあか抜けており、花木は照り輝き、入り江にある帆柱は、葦のほ とりで現れては見えなくなる。(その様子は)ゆっくりと見渡すがよい(堂宇蕭灑。花木照 映。江中帆檣。出沒於葦蘆際。悠然可望)」は、雅集図の視覚的イメージを描写とともに、

《蒹葭雅集図》の鑑賞の意が述べられている。最後に、成海応が《蒹葭雅集図》の絵をみて 詠んだ「題日本木弘恭兼葭雅集図」を紹介しよう。

遠くまで開いている海の光/浪華の雲一層残る香り/蒹葭(葦)は水の船に隠れ/

図や書籍は竹の裏房にぎっしり/その人の手がけたもの甚だ驚く妙手/優れた才能は/

50 年前の画を思い慕う/ひとり世間に広まって(今は)錦の袋に入っている127

(成海応、「題日本木弘恭兼葭雅集図」『研経斎全集』巻七)

内容から成海応は《蒹葭雅集図》の絵の中の雰囲気を描写したのち、雅集図を手掛けた人 の優れた才能を高く評価している。おそらく、蒹葭堂の巧みな絵の技量を評価していると考

127 粉素遥開海外光 浪華雲物尚余香 蒹葭隠約湖中舶 図史横縦竹裏房 真跡正堪驚妙手 異才初不限殊方 依依五十年前画 独自流伝在錦嚢

110

えられるが、先述のように仇英の桃花源図が盛んに用いられるようになったのがちょうど この時期であることを踏まえると、図様に表れている理想郷の表現への評価とも考えられ るだろう。注目すべきは、最後の2句で、50 年前に朝鮮に渡されたこの絵は、世間の人々 に伝わって広まったのに、今は錦嚢に保管されていると綴っていることだ。この記録からも、

先に検討したように雅集図の借覧が盛んに行われていたことが見て取れる。

ドキュメント内 著者別名 JEONG Kyungjin (ページ 112-115)