第一章 「文人」の交叉-1764 年の朝鮮通信使行と蒹葭堂会との交遊
第三節 《蒹葭雅集図》の制作をめぐって
3.1 大典との出会い
これまで見てきたように、盛んに行われていた筆談や唱和は4月7日の崔天宗殺人事件 の発生以後、ほとんど途絶えた。事件が解決されたとはいえ、通信使が帰国した 1764 年の 5 月 6 日まで、公式に日本人との面会が再開されたわけでもなかった。しかし、注目すべき ことに、本研究で取り上げる《蒹葭雅集図》はちょうど、この期間中に依頼・制作・贈答さ れたのである。だが、事件発生後にも使行録に度々その名が挙がるのが、大典をはじめとす る蒹葭堂会の人々であった。それは事件発生後も、朝鮮の庶孼文人と蒹葭堂会の人々との交 遊が何らかの媒介を通して続けられていたことを意味する。ここからは庶孼文人と蒹葭堂 会の人々の間で重要な架け橋となった人物として、先述の僧侶・大典に焦点を当てる。木村 蒹葭堂と親交の深かった大典は 4 月 5 日から、通信使一行が大坂を去ることになった 5 月
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6 日まで南玉らと筆談を行い、それをまとめ『萍遇録』とした。『萍遇録』は、使行録から は確認することのできない相互のやりとりの内容や、《蒹葭雅集図》制作をめぐる詳細が確 認できる重要な資料である。緊張関係が続くなか、南玉らは事件の真相を明らかにするため かろうじて筆談は継続したが、そこで南玉らは主に大典と筆談を交わしていた。事件発生後、
朝鮮文人の宿舎への出入りは僧侶や事件関連者のみと厳格に制限されていたため、僧侶の 大典は比較的に出入りが自由であったという理由も大きいが、何より大典に対する南玉た ちの信頼が高かったためではないかと思われる。
大典は 1 月の大坂での交遊には参加しておらず、4 月 5 日になって宿舎となる本願寺で初 めて南玉らと顔を合わせた。南玉らと大典との出会いはどのようなものであったのか。
真夜中に魯堂(那波魯堂)、仲達(富野義胤)、周宏、周遵がやってきて話を交わした。竺 常(大典)は以前、会ったことのない者だが、明利を狙って立ち回る者ではなかった67。〕
(南玉『日観記』、1764 年 4 月 5 日)
甲申(1764 年)4 月 5 日、朝鮮通信使が大坂に戻って来た。私は木世粛(木村蒹葭堂)、
子玄と共に通信使の宿舎に行き、はじめて製述官や書記と出会い名乗りあった。(中略)
私が言うに、「私と木弘恭(木村蒹葭堂)らとは、世俗を離れた親密な間柄のもので、
本日お目にかかったのもまた木氏によるものです。請うに、少しでも時間があれば、木 弘恭らと共に一度、会っていただけるなら大変ありがたく存じます。」秋月(南玉)が 言うに、「世粛は私が親愛する人なので、会えば必ず慕わしく感じます68。」
(大典『萍遇録』、1764 年 4 月 5 日)
67 至夜分魯堂、仲達、周宏、導来話、竺常去時不見者、而非以名利持身者。
68 甲申四月五日、朝鮮使者反于浪華、余与木世粛及子玄至公館、始見製述書記通名字。(中 略)余曰、衲与木弘恭輩方外莫逆、今日奉謁亦木氏是由、請少有閑暇、与弘恭等周施一遭幸 甚月、世粛吾所親愛者、相見豈不傾倒。
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記録を見る限り、この日、はじめて顔を合わせたにもかかわらず、南玉は大典に親近感を もったように思われる。それは、南玉が言うように、木村蒹葭堂への信頼が厚かったためで あった。
『萍遇録』の記録に、「私と木弘恭(木村蒹葭堂)らとは、世俗を離れた親密な間柄のも ので、お目にかかったのもまた木氏によるものです。」とあるが、記録からは大典と京坂文 人との親交のありようが窺える。崔天宗の殺人事件の発生後、大典はいったん西京に帰って いたため、『萍遇録』には 4 月 19 日までの記録が残っていない。そこで、『萍遇録』には記 されていない 4 月 8 日から 19 日までの使行録の記録を簡略にまとめてみた。概観すると、
南玉らと蒹葭堂会の人々との交遊は書簡などを介して依然として続いていたことがわかる。
(表 3)使行録の記録の比較(4月8日~19日)
表3のまとめにあるように、この期間中にも両社は訪問や書簡、贈り物を介して交遊が続 4 月 8 日 酬唱と応接を禁止、大典が訪れる(元重擧)
9 日 周宏、木村蒹葭堂、細合斗南から書簡をもらう(南玉)
周宏が鏡と筆を、西翼が硯十個、韓天寿(書家・1727~1795)は木世粛を通して、書簡や賜りを送 る(成大中)
10 日 福原承明、木村蒹葭堂、那波師曾、西翼に書簡を送る(南玉)
12 日 周奎が詩札を送り別れの音を伝える(南玉)
周奎が西京に帰るとし、画幅を別れの賜りにする(元重擧)
13 日 周奎が訪れる。木村蒹葭堂から硯一つが送られる(南玉)
木村蒹葭堂から書簡と硯一つ、大典からは手紙と赤い硯二つが送られる(成大中)
周奎が別れを告げる。木村蒹葭堂、細合斗南から書簡が送られる(元重擧)
周宏から書簡で内々の事情を伝えられる(金仁謙)
14 日 周遵が訪れる(南玉)
15 日 細合斗南、木村蒹葭堂、仲尚賢、丹羽嘯堂の書簡に返事を贈る。
那波師曾が訪れ談笑を願う。(南玉)
周宏、周遵が訪れる(元重擧)
17 日 福原承明、安井屬玉、三宅斌、心縁、知本、周宏、周遵が訪れる(南玉)
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いていた。事件発生後、公式な唱和や筆談が断たれた中、これらの記録からは、庶孼文人と 京坂文人との交遊ぶりが見て取れる。逆に言えば、表 3 にあるような活発な交遊がなけれ ば、《蒹葭雅集図》制作にまでたどり着くことも困難であったのだろう。『萍遇録』の記録は 4月 20 日から再開されるが、そこからは《蒹葭雅集図》について本格的な筆談がくり広げ られる。だが、使行録には『萍遇録』にみられるような雅集図制作をめぐる筆談記録は残さ れていない。これは何を意味するのだろうか。殺人事件の収拾過程を記録として残さなけれ ばならないという製述官と書記として責任感とともに、雅集図制作という非公式なやりと りを残すわけにはいかないという慎みも作用した、と推察できる。
3.2 《蒹葭雅集図》の依頼
ここからは 4 月 20 日からの記録を中心に《蒹葭雅集図》の制作過程を追ってみる。雅集 図は書記・成大中が制作を依頼したもので、大典を介して木村蒹葭堂が絵巻の画を、蒹葭堂 会の人や木村蒹葭堂と親交のあった京坂文人たちが詩文を、大典が後序を寄せたものであ る。雅集図は通信使一行が大坂を去る前日の 1764 年 5 月 5 日に完成し、大典が南玉らの宿 舎に持参して贈る。『萍遇録』の記録によれば、《蒹葭雅集図》の完成をめぐっては依頼者の 成大中だけでなく、南玉や書記の元重擧、金仁謙も大いに喜んだという。
まず、4 月 20 日『萍遇録』の記録からみてみよう。
龍淵(成大中)が言うに、「①以前の書簡で世粛(木村蒹葭堂)に浪華春曉と蒹葭雅 集の絵を、師(大典)や麗王(細合半斎)、承明(福原承明)たちには、詩あるいは、
跋を(絵巻)の末に書きしるしてお渡しくださるようお願いしました。世粛はすでに承 諾してくれましたが、はたして草案をすでに描きはじめたのか、また、僧(大典)も心 中に考える下書きがあるかどうか(気になります。)②西に帰った後、遠いところにい てもその顔を思い起こそうとするため、このように何度もお聞きします。」私が言うに、
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「画のことは、世粛と私たちがすでにその命を受け取りました。このことは(私たちも)
強く願うところです。世粛が少しずつその粉本を試みているので、大旆(通信使のこと か)が出発する前に間に合わせて、必ず差し上げます69。」)
(大典『萍遇録』、1764 年 4 月 20 日)
4 月 20 日の『萍遇録』の記録を概観すると、成大中がいつ《蒹葭雅集図》を依頼する書簡 を送っていたのかは定かではない。だが、先ほどの表 3 のまとめからすると、4 月 13 日に成 大中が木村蒹葭堂に書簡の返信をしたことがわかるため、おそらくこの日の可能性も十分に あると思われる。つまり、まだ、事件の犯人が特定される前のことである。①の内容をみる と、成大中は絵と詩文、跋と雅集図の構成とそれを担当する人まで具体的に注文している。
第二章で検討したように、これは雅集図が別号図の形式として制作依頼されたことを物語っ ていると思われる。さらに、興味深いことは、成大中が浪華春曉と蒹葭雅集を主題とする絵 巻制作を頼んでいること、さらには、大典の他、木村蒹葭堂や細合半斎、福原承明と蒹葭堂 会の同人を指名している点である。すなわち、成大中が蒹葭堂会の存在や交遊についてすで に知っていたことを意味する。実際の絵巻には木村蒹葭堂や細合半斎、福原承明の他、この 時、南玉らと会っていない葛子琴、岡魯庵など蒹葭堂会の同人が詩を寄せている。彼らはと りわけ、大典と木村蒹葭堂とも親交が深い人々であるが、以上のことから《蒹葭雅集図》は 浪華春曉と蒹葭雅集を一つにしたものであるということ、そして、大典か木村蒹葭堂が葛子 琴、岡魯庵に作詩の依頼をしたことが推察できよう。何より、成大中と木村蒹葭堂をはじめ とする京坂文人の間に、《蒹葭雅集図》を制作するほどの共通の認識、すなわち、次章で論じ る「文人世界」の共有があったことを意味すると考えられる。次に、②を見ると、「朝鮮に帰
69 龍淵曰、向書託世粛、画浪華春曉、及蒹葭雅集、而師及麗王承明輩、或詩或跋、以識其末 而恵之、世粛已領諾矣、果已起草、而師亦有腹稿否、西歸之後、要作萬里顔面、故如是屢言 耳、余曰、絵画一事、世粛及衲輩既領命矣、此固所願也、世粛稍試粉本、及大旆之未發、必 當奉呈。