第一章 「文人」の交叉-1764 年の朝鮮通信使行と蒹葭堂会との交遊
第二節 庶孼文人と蒹葭堂会の交遊
2.1 藍島での亀井南冥との出会い
ここからは 1764 年の使行に参加した南玉らが使行途中の大坂で蒹葭堂会の人々と交遊 し、《蒹葭雅集図》が制作されるまでの道のりを当時の記録から時間順に追ってみることに する。製述官や書記が日本の民衆と交わした筆談の規模や唱和の雰囲気を探ることから考 察をはじめる。先述のように、本研究の立場は南玉らが通信使の役割と同時に、庶孼文人で あったことが大坂での交遊を可能にした一因となったというものである。それをより明確 にするためには、交遊そのものに注目するのも重要だが、その前後の過程にも光を当てる必 要がある。その両方を考察する上で、主な材料となるのが日記形式の使行録である。1764 年の使行の場合、製述官をはじめ、三書記がいずれも使行録を記しており、これは 12 回に わたる使行の中でも他に例を見ないことであった。ここからは、日本ではほとんど注目され
55 アンデフェの論及によるとここでいう斬新さとは、袁宏道を主とする公安派の詩風、す なわち、それ以前の擬古主義を批判する詩風を積極的に受容したことを意味する。格式に とらわれない自由な心情の表現や、より個性や写実性を強調する公安派詩風を受容した代 表的な人物として李徳懋が挙げられる。18 世紀朝鮮の詩風については同時期の近世日本と の比較をも視野に入れてより踏み込んだ議論が要される。
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てこなかった製述官・南玉の使行録『日観記』を中心に、必要に応じて三書記の使行録の記 録との比較を試みる。また、『日観記』に加え、帰路の大坂については蒹葭堂と親交の深か った僧侶・大典が記した筆談集『萍遇録』の記録との比較も行いながら《蒹葭雅集図》の制 作の過程についても考察したい。
まず、実際に使行をはじめてから南玉ら庶孼文人がいつ、どのようにして、木村蒹葭堂の ことを知るようになったのか、その経緯を探る。その出発点となるのが、南玉らが対馬の次 に逗留した藍島で出会った儒者・亀井南冥(1743~1814・名は魯、字は道載、通称は主水。) との交わりであった。朝鮮通信使一行は 1764 年 12 月 3 日藍島に到着し、23 日間滞在した。
藍島に着く前は対馬に 16 日間、対馬から肥前56州の壹岐島に移動し、船に留りながら 9 日 間逗留した。12 月 8 日、筑前州の書記、井土周道や櫛田彧、嶋村暠が亀井南冥とともに詩 文唱和のため南玉らを訪れる。4 人はそれぞれ書いてきた詩を朝鮮文人に見せ、和答詩を求 めた。亀井南冥と唱和をした南玉は彼の詩文について高く評価し、次のように記している。
亀井魯(南冥)は 21 歳にもかかわらず、その詩筆は軽快で、才気は非常に鋭い57。
(南玉『日観記』1764 年 12 月 8 日)
筑前州の書記、井土周道、櫛田彧、嶋村暠とともに亀井魯に会った。私は風邪で体調を 崩したが、何とかしてやっと詩に酬唱した。亀井魯は奇才であった。
(成大中『日本録』1764 年 12 月 8 日)
紀国瑞が本州の文人 4 人を連れてきて我々に会わせた。それぞれ詩を何篇も書いて 持ってきたが、その中でも筑前州の医員である亀井魯は 21 歳の若さの上利口であり
56 現在の佐賀県と、壱岐(いき)・対馬(つしま)を除く長崎県にあたる。
57 亀井魯年甫廿一、詩筆翩々才気甚銳。
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ほかの人々よりはるかに詩文に長じて、筆がまるで飛ぶように動いた。
(元重擧『乗槎録』1764 年 12 月 8 日)
亀井魯(南冥)から書簡が送られて来た。我々に逢うため訪れたかったが差し障りが多 かったため、自身の著書・東遊詩文を送り題評を求めた。亀井魯が従遊した者は、独嘯 菴永富鳳(永富独嘯庵)である。亀井魯(南冥)が海東の第一人者と思うのは、僧侶の 大潮と木弘恭(木村蒹葭堂)であるという。いずれも大坂にいる58。
(南玉『日観記』1764 年 12 月 9 日)
亀井南冥は大坂に遊学した際に師事した医者・永富独嘯庵(1732~1766・名は鳳、字は 朝陽、号は独嘯庵)だけでなく、僧侶・大潮元皓(1676~1768・名は元皓、字は月枝、号は 大潮)や、木村蒹葭堂とも交遊した。1764 年 12 月 9 日の『日観記』の記録にあるように、
とりわけ、木村蒹葭堂については「海東の第一人」と薦めた。『我昔詩集』から亀井南冥が 1763 年の 8 月、木村蒹葭堂のところで開かれた詩会に参加していたことが確認できる。
『日観記』の藍島での記録をみると、滞在期間中、南玉らはほぼ毎日、亀井南冥と詩文や 筆談を交わした。さらに、12 月 17 日には、亀井南冥が永富独嘯庵宛に書いた書簡を、南玉 らが大坂にいる間に伝えてほしいという頼みごとをする。亀井南冥との交遊の詳細をここ ですべて扱うことはできないが、大坂から遥かに離れたところで行われたこの交遊につい ても注目する必要があると思われる。
石川泰成によると、亀井南冥は南玉や成大中、元重擧、金仁謙だけでなく、医院の李左国 や訳官の李彦瑱とも交流し、10 人の朝鮮通信使と詩文唱和・筆談をしたという(石川:2001、
58 亀井魯致書、来欲見多阻、之語並致所著東遊詩文、乞題評。其所従遊者、所謂独嘯菴永富 鳳、魯以為海東一人僧大潮、木弘恭。皆在大坂。
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pp37~38)。また、成大中は後に自身の使行録『日本録』の中に別の章を設け、亀井南冥を
「日本に来てから出会った奇異な人材」と特記している。
私が日本に来てから奇異な人材の二人に出会えたのだが、筑州の亀井魯と西京の那 波師曽である。魯は 20 歳の時、四方を遊歴しながら学問に励むことを望み、西の長 崎に出て官庫にある書籍を読んだ。大潮を師匠としては、東の大坂に出て木弘恭と福 尚修、合離(儒者・細合斗南)と交遊したが、木弘恭は即ち、蒹葭堂の主人である。
そして、師匠の永富鳳から学んだ。
(成大中『日本録』、「日本の二人の才子について書す」)
辰時(午前 7~9 時)に出航のため、いかり綱を下した。亀井を呼び別れを告げたが、
亀井が対馬人を恐れるあまりすかさず立ち上がり何回かお辞儀をした。ただ、丘の上 で「平安」という字を書いては両手に持ち、しばらく船の方に向かい立っていた。こ の小柄な倭人との間に情が深まったら、それもさみしく思えた。
(南玉『日観記』1764 年 12 月 26 日)
このように亀井南冥から木村蒹葭堂に関する情報を得た南玉らは、いよいよ 12 月 26 日 に藍島を出発し、豊後州の南泊に向かった。別れの日に、亀井南冥は丘の上に上り、「平安」
と書いたものを掲げて南玉一行を見送った。後の大坂での別れの際にもそうであるが、当然 のことながら、筆談を用いない限り両方の間に言葉は通じない。だが、南玉の記録にもある ように、筆談と唱和を通して両方の情はすっかり深まっていた。