第三章 近世日本と朝鮮における「文人」形成と「知」の体得
第一節 成大中家における家門意識と家学
1.1 庶孼家になる以前における家門意識
『研経斎全書』巻四十八の「家伝」をみると、成海応は家門の先代や功績について「昌寧 成氏世譜上」と「成氏世譜上」に分けて記録している。その区分は、庶孼家になる前と以後 に分かれている。成大中家は昌寧(チャンニョン)成氏135の中でも成石因からなる桑谷公派 に属するが、「昌寧成氏世譜上」は昌寧を本貫(始祖の出生地)とする昌寧成氏の始祖・成 仁輔(生没年不詳)から成稷(1586~1680)に至るまでの人物を取り上げている。一方で 後述する「成氏世譜上」は、先述した壮洞金門136の金尚容(1561~1637)の庶女と結婚し た成後龍(1621~1671)の記述から始まる。
135 昌寧成氏の族譜については、成俔(1439~1504)が 1493 年ごろ著したとされる「昌 寧成氏族譜序」が『虚白堂集』巻六に採録されており、その後、成文濬(1559~1626)に よって「昌寧成氏族譜跋」、「「昌寧成氏宗会法式」(『滄浪先生文集』巻四)が著された。
桑谷公派の分派については、『昌寧成氏桑谷公派譜』(韓国、国会図書館蔵)を確認する必 要がある。
136 壮洞金門は政治的な門閥であると同時に、朝鮮後期の文芸に多大な影響を与えたことで も名高い。とりわけ、本研究でも登場する「六昌」と呼ばれる金昌集(1648~1722・号は 夢窩、忠献)、金昌協(1651~1708・号は農巌)、金昌翕(1653~1722・号は三淵)は、「朝 鮮中華」「真景文化」と呼ばれる朝鮮後期の文化を牽引した。彼らの面々については詳細に 論じることはしないが、成大中家の人々が壮洞金門の人々と親交をもっていたことは、成大 中家の家学形成に何らかの影響を与えたと考えられる。イキョング(2007)『朝鮮後期安東 金門の研究』カングァンシク(2006)「光州鄭門と壮洞金門の世交と謙斎鄭敾の〈清風溪〉」 などを参照されたい。
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まず、庶孼家になる前の記録を中心に取り上げることにしよう。「昌寧成氏世譜上」と合 わせて成海応が父・成大中について記した「先府君行状」と成海応の弟(成海運)の子・成 祐曽が成海応について記した「研経斎府君行状」の二つの行状を取り上げ、各々の記録に共 通して成後龍につながる先祖 5 人を中心に分析を進める。
吾成氏係昌寧。昌寧新羅時比自火郡。(中略)高麗太祖改今名。一称昌山。又昌城又夏 城又夏山。而成氏宗族雖衆。皆籍昌寧而無他籍。然文献(文献)不完。無以徵得姓之由。
①有諱仁輔(成仁輔・?)為鼻祖(始祖)而称中尹戶長。(中略)②初諱漢生号怡軒(成 汝完・1309~1397)。年二十八中文科。歴事忠粛、忠恵、忠穆、忠定、恭愍、恭譲王。
官僉書密直政堂文学。(中略)③石因字子由号桑谷(成石因?∼・1414)。皆中第。石因 又壮元。皆顕於朝。(中略)檜谷公季弟桑谷(成石因)公。在本朝官至礼曹判書兼脩文 舘大提学。卒謚靖平。史臣柳思訥曰天資端亮。行己溫良。(中略)④子以文号隠几翁(成 以文・1546~1618)。中文科官至副提学黃海監司。当光海時。屛居十一年而卒(中略)
⑤以文子俊耉(成俊耉・1574~1633)中文科。歴翰林、吏曹佐郞、弘文舘校理、修撰、
議政府舍人等職。(中略)➅国朝世家。以文章名者或少風節。以風節名者或少事功。以 事功称者或少道学。兼此四者。唯吾宗是也。且今之大姓多異貫。非顕栄于世者。祖先系 譜家法与派流。鮮能不失其伝。而独成氏無異貫。故無貴賤。皆知其同出於中尹(始祖・
成仁輔)公也。且皆能謹飭。(中略)➆吾成氏今雖少蹇。其視当世所称権勢栄利之門。
其軽重高下。必有所辨矣。夫收族之法古也。然枝葉各分処四方。又多貧困不自振者。大 宗小宗無以別焉。故惟世譜可以徵信137。
(成海応、「昌寧成氏世譜上」(『研経斎全集』巻四十八、「家伝」))
137 本研究で引用する朝鮮側の原文は韓国古典翻訳院の DB による。ただし、()の語句説明 や番号、傍線とうは筆者による。以下、同様。http://db.itkc.or.kr/
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府君姓成氏諱大中字士執号青城。一号醇斎。貫昌寧。①始祖諱仁輔(成仁輔)。高麗中 尹。是生諱松国。官至門下侍中。②四世而諱汝完(成汝完)。以麗朝大臣。当革命之際。
遯于抱川王方山而卒。謚文靖。⑤五世祖諱俊耉(成俊耉)。光海初。論賊臣李爾瞻竄極 西南辺。仁祖登極始還。観察海西。管餉椵島天兵。当丁卯之乱。活西民累万。世称有陰 徳云。(成海応「先府君行状」(『研経斎全集』巻十、「行状」))
府君諱海応字龍汝。号研経斎。成氏之籍昌。①自高麗中尹諱仁輔(成仁輔)始。②四世 而諱汝完号怡軒(成汝完)。高麗政堂文学。国亡。隠于抱川王方山。謚文靖。③生諱石 因号桑谷(成石因)。本朝礼曹判書。謚靖平。其後多名節為大族。④七世而諱以文号隠 几翁 (成以文)。副提学。⑤生諱俊耉(成俊耉)。号楽峯。光海時。劾爾瞻竄西北。仁祖改 玉後。観察海西。管餉椵島天兵。丁卯之乱。西民賴活者累万人。故有陰徳云。
(成海応「研経斎府君行状」(成祐曽)『研経斎全集行状』「行状」)
「昌寧成氏世譜上」や「先府君行状」、「研経斎府君行状」は、いずれも①の昌寧成氏の始 祖・成仁輔(生没不明)の記述からはじまる。成仁輔は高麗王朝の郷職の一つである中尹(中 尹戶長)に仕え、行政を総括する役を務めていた。②では、昌寧成氏の四世に当たる成汝完
(号は怡軒・1309∼1397)が挙げられている。成汝完は始祖・成仁輔の玄孫で祖父や父も顕 職についていたとされる。成汝完自身も高麗時代従二品の行政総括職である政堂文学にま で昇った人物である。その次をみると「先府君行状」には言及されていないが、「研経斎府 君行状」に③の成汝完の子・成石因(号は桑谷・~1414)の名がある。韓国には本貫の単位 からより絞られた家門の単位として「派」があるが、成石因は成大中家の属する昌寧成氏の 桑谷公派の始祖に当たる。彼は高麗王朝末から朝鮮建国時の人物で礼曹判書、すなわち、朝 鮮王朝の礼楽や祭祀、宴会、朝会、交聘、学校、科擧を管轄する正二品の礼曹の首長にまで 昇った。④には、成以文(号は隠几翁・1546~1618)が登場する。成以文も司諫院の首長・
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大司諫だった相曾・成世貞や正二品の吏曹参判の祖父・成倫、従六品の察訪に就いた父・成 效寬と、桑谷公派の祖である成石因の流れを汲んでいる。成以文は、朝鮮の第 15 代国王・
光海君の時代、宮中の経書や史籍を管理する国王の諮問機関・弘文館の業務を総括する副提 学を経て、宮中の言論機関にあたる司諫院の正三品の大司諫を務めた。最後に⑤の成以文の 子・成俊耉(号は楽峯・1574~1633)は次章で取り上げる成後龍の父である。「昌寧成氏世 譜上」によると、彼は生涯様々な官職を経て、晩年には地方を統括する長官で従二品の観察 使を務めていた。
以上の内容から、明らかになったことは成大中家の先祖が高麗時代から朝鮮の 14 代国王・
宣祖(在位 1567~1608)の代まで要職についており、庶孼になったのは 17 世紀に入ってか らだという点である。成海応が「昌寧成氏世譜上」の文末にまとめた内容をみると、昌寧成 氏家門の先代についてどのような認識を有していたのかが窺えるが、上述の人物について
「皆顕於朝」、すなわち、政事において重要な官職に登り、際立っていたと特記している。ま た、「研経斎府君行状」には、とりわけ、成石因の以後、昌寧成氏家がその名誉と節操のため 勢力のある一族となったと強調している(其後多名節為大族)。さらに、➅には「世家、すな わち、名門家において文章をもって有名になったところには風節が足りず、風節で名の知れ た家には功績が足りず、功績で称される家には道学が足りないが、この四つを兼備している ところは、ただ吾宗しかいない」とあり、続く、➆の内容は「今、(昔に比べたら)我々成氏 の勢力は少し困窮しているが、今でも権勢と営利のある家門であると称されている」などと 挙げられている。これらの記述から見て取れるのは、家門に対する自負意識である。言い換 えれば、先代の記録を通して自身の家門が「世家・名門家」であることを再確認することは、
その後代のアイデンティティの確立とライフスタイルまで含む家学の継承につながること でもあったのだろう。また、成後龍の代から庶孼家になることを踏まえると、政事の表舞台 で活躍したこの時期の先代の功績と評価は、成大中家の家門精神の土台となっていたと言え よう。
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