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抱川での詩社結成について

ドキュメント内 著者別名 JEONG Kyungjin (ページ 162-166)

第四章 「文人」を体現する-結社から隠逸まで

第一節 成大中と抱川での結社における諸様相

1.1 抱川での詩社結成について

前章で故郷である抱川を中心とする成大中家の家学継承の過程について考察した。抱川 と成大中家との関係を考える上で、もう一つ重要なキーワードになるのが、成大中の代から 盛んとなった詩社活動である。それについては、ソンヘリの論究に詳しい。ソンヘリの分析 によると、成大中家は16世孫・成琬から22世孫・成駿英(ソンジュンヨン・1817∼1835)に 至るまで、すべての代で科挙合格者を輩出している。ソンヘリは、成大中家のこのような業 績を可能にしたのは、76年の間に4回結社された詩社活動を通して、科挙の科文文体の勉強 である功令業を教えていたためであると分析した(ソンヘリ:2013、p169)。そこには、詩 社と科挙との密接な関係性が見受けられる。しかし、成大中の詩社は科挙の合格を目的とす る勉強会の性格を呈しながら、白居易の九老会に似せた風流韻事が行われる場でもあった。

詩社での学問と風流韻事が必ずしもかけ離れたものではなく、同時に行われる関係を有し ていたのである。このような詩社の営みは、先代から続く家業の継承といった側面を有しつ つも、成大中自身が抱いていた白居易など中国文人への憧憬をも反映しているものと考え られる。その特徴がどのように展開されていったのかについて、ここから諸記録を取り上げ

158 ながら検討していく。

以下、成大中家の詩社の営みが見て取れる成海応の「詩社記」の中で、結社の地として青 城(チョンソン・抱川の古い地名)が挙げられているため、本研究では成大中家の詩社を「青 城詩社」と呼ぶ。まず、抱川での青城詩社の結成とその目的について確認する。

青城公(成大中)曽与葉下権公(権儼)刱詩社。奨励後学。府君継之。以淑鄕為己任。

(成海応、「研経斎府君行状」(成祐曽『研経斎全集行状』「行状」)

鄕中重設詩社。属公著(権儼)及余主之。梅磎(1454~1503・曺偉、文臣)丈有詩属。

謹歩其韻。菁莪早識善鄕功。吾堂成材摠此中。

(成大中「詩」『青城集』巻二)

青城詩社は、成大中と正二品で法律などを担当する刑曹判書出身の権儼(グォンオンム・

1729~1801/字は公著、号は葉西)によって結成された。記録にもあるように、詩社の目的 は後学を奨励すること、すなわち、後代の人々の科挙合格であった。注目したいのは、最後 にあるように、成大中が後学の奨励を自身の責任として受け止めていたことである。成大中 にとって、青城詩社は後学を養成し、先代からの家学を継承するという責任を果たすための 場であったのである。ただし、その責任を果たすためには成大中自身も科挙に合格しなけれ ばならず、科挙合格は朝鮮文人の必須条件であったと考えられる。

一方、上述のような成大中の見解は、第三章で紹介した兼済という言葉に通ずるとも言え る。兼済とは兼善ともいうが、天下における救済の責務を意味し、『孟子』「尽心」に、「窮 すれば則ち独り其の身を善くし、達すれば則ち兼ねて天下を善くす。」からも確認すること ができる165。上述の「成氏世譜上」の記録によると、成大中はこのような「兼済の学」を好

165 原文は「窮則独善其身、達則兼善天下」。この内容は「どうすれば自ら満足して無欲の

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み、天下の民の安寧と天下に善が届くことを願っていたとされる。そこから窺い知られるの は、成大中が目指していたのは、兼済、すなわち、天下における救済の実践であり、詩社活 動はそれを実践する場でもあったことである。後述するが、兼済は独善と合わせて登場する 思想である。兼済が士としての成大中の役割、責任であるとすれば、独善は兼済から離れた 状態を指し、主には文人交遊の場に臨む成大中の思想であったと考えられる。

さらに、成大中の「詩」からも、権儼と成大中を主とする詩社が抱川で重ねて設けられ、

そこで科挙試験のための科文文体に長けている人材を育成していたことが確認できる。こ こでの「吾堂」とは、成大中家の人々を指しているがこのような記録からは、科挙の合格者 を一人でも多く輩出しようとする試みが士大夫家だけでなく、庶孼家においても顕著であ ったことが見て取れる。では、青城詩社における勉強会の一面をもう少し確認してみよう。

吾鄕雖僻陋。名碩故多居之。遺風余韻。得有伝述而浸遠。(中略)是時先王考(成孝基)

講道於香山之下。隣里才俊従之学。多成材者。

(成海応「書画巖宋公 玄載 事」『研経斎全集外集』巻十七)

大中亦有此社。屋後之山。適名香山。故鄕中長少目我為社主。過従談讌。迭相主賓。

(成大中、「答白陽川書」『青城集』巻五)

成海応の記録によると、抱川は僻陋であるが、学問で名の知れた人々が住んでいるという。

態度を取れるか」という質問に孟子が「士人は困窮しても道義を失わず、得意のときも道 義を離れない。困窮しても道義を失わないから、士たるものは自ら満足することができる し、得意のときも道義を離れないから、人民は彼に期待をかける。(中略)困窮している ときはひとりその身を修め、志を得て民を治めるときは、併せて天下を善くするのであ る」と答えた内容である(倉石武四郎:1968、pp269~270)。下定雅弘は白居易が兼善と 独善の獲得を目指していたと指摘しながら、今の言葉でいうと兼善を仕事の充実、独善を プライベートの喜びと訳すことができると論じている(下定雅弘:2015、p15)。

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その遺風余韻と先人の教えが影響を及ぼしていることは、家学の継承を意味すると思われ る。次に香山では講義だけでなく風流韻事も行われたのだが、実際にその香山の下とは、成 大中家の近くにあった山を白居易の居住した香山になぞらえたものである。香山では親交の ある故郷の人々と宴会が開かれ、主賓が入れ替わるような自由な集いであったことが記録か ら確認できる。

さらに、成大中家の詩社における特徴として、故郷の先輩たちである老人を敬い老人会を 設けていたことが挙げられる166。科挙合格者の集まりである榜会の様子を記した「竹谷榜会 詩序」と、成大中の孫の成祐曽による「研経斎府君行状」の一部を引用しよう。

今之尚歯者。所以尊年也。次以榜者。所以興学也。課程文者。亦寓楽育之意。

(成海応、「竹谷榜会詩序」『研経斎全集続集』二十一)

又為老人会。觴詠淋漓。文彩輝映。

(成海応、「研経斎府君行状」(成祐曽)(『研経斎全集行状』「行状」)

「竹谷榜会詩序」の記録をみると、まず、今老人を敬うのは老人たちが70歳を超えた年長 者、「尊年」であるためであり、次に、榜者、すなわち、科挙に合格した者は学問を引き立て てくれたという。科挙の文章の課程文を教えるのは、また、人材を楽しく育てる意によると いう。続く、「研経斎府君行状」からは、このように尊敬される年長者を中心とする老人会が 設けられていたことが見て取れる。とりわけ、老人会において「觴詠淋漓」すなわち、酒を 飲み、詩を吟詠する余興に満ちている雰囲気が浮かび上がる。このような交遊の様相は、京

166 実際に、郷村の老人会での交遊は、風流房の要素を有していた。例えば、高麗時代から 行われた「耆老会」(官職を引退した老人の会)でも、詩や酒、琴、碁などの風流韻事が行 われたとされる。19 世紀にまで続けられた耆老会について、シンウンキョンはその性格を 風流房や詩会の様相が強いと指摘した(シンウンキョン:1995、pp184~190)。

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坂文人の詩社においても同じくみられるが、この老人会は朝鮮の郷村における儀礼の一つの

「鄕飲酒礼」とも関わりをもつ。「鄕飲酒礼」とは、毎年陰暦10月に郷村の士たちが地域の郷 校や書院などで学徳を有した年長者を招き、酒を嗜み宴会を開くことをいう。このような郷 村の儀礼は郷村単位で行われるものであろうが、成大中家においても老人会という酒と詩を 楽しむ場が設けられていたことは、当時の郷村における「鄕飲酒礼」がより小さな単位であ る家門においても行われていたことを物語っている。興味深いのは、觴詠の詩会や交遊が老 人会だけでなく、親交のあった文人たちの間でも盛んに行われていたことである。とりわけ、

成大中家における白居易の九老会を模した風流な交わりが、成大中の孫の代にまで続いてい たことは注目に値する。

ドキュメント内 著者別名 JEONG Kyungjin (ページ 162-166)