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朝鮮文人の《蒹葭雅集図》評価

ドキュメント内 著者別名 JEONG Kyungjin (ページ 107-112)

第二章 「文人世界」の共有-《蒹葭雅集図》の分析から

第三節 《蒹葭雅集図》の評価と成大中家の家伝

3.1 朝鮮文人の《蒹葭雅集図》評価

朝鮮通信使の帰国とともに朝鮮に渡された《蒹葭雅集図》は、成大中家に収蔵され、没後 は成大中の子・成海応に受け継がれた。朝鮮の文人の中で《蒹葭雅集図》や蒹葭堂について 記録を残しているのは、先に触れた朝鮮後期の文臣で学者の朴趾源や実学者・朴斎家、実学 者・李徳懋など、成大中と主に「北学派」の文人たちである。

彼らの記録は、成大中の話を基にしていると思われるが、共通して木村蒹葭堂について評

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価し、とりわけ、「日本蒹葭堂主人木世粛、蔵秘書三万巻(日本には蒹葭堂の主人、木世粛

(蒹葭堂の字)がいて、秘書を三万巻も収蔵している)」と言及している121。それは成大中 らが使行中の大坂で、はじめて蒹葭堂に会った 1764 年 1 月 22 日の使行録に「木弘恭、字 は世粛、号は蒹葭堂、浪華に堂を開き、中国の奇書を集め毎年千以上を買い集めているとい う。日々四方から詩と酒を好む者が集まり、豪傑な文士として名が知られており、亀井魯が 評価した人物である」と特記したことにも通じる。このように朝鮮の文人たちが木村蒹葭堂 に関心を示したのは彼の蒐集家としての一面であった。その理由は一概には言えないだろ うが、北学派あるいは、庶孼文人の場合、主に中国への燕行の際に書籍を手に入れていたこ とから、木村蒹葭堂が直接長崎を通して中国書籍を購入していたことは、朝鮮文人の興味を 引くに十分であったと考えられる。

ここからは李徳懋の記録を中心に検討していく。その前に一つ注目したいのは、李徳懋と 成大中の交友関係である。とりわけ、『雅亭遺稿』巻八の書簡「成士執大中」の全文を見渡 す限り、成大中と李徳懋は書画の鑑賞のみならず、詩拳の品評や図譜の閲覧、楽器の演奏な ど、いわゆる文人趣味を嗜む間柄であったことがわかる。興味深いのは、成大中と李徳懋が 本格的に親交を結び始めたのは 1764 年、日本使行復命後というであるという。成大中が記 した李徳懋の哀辞の一部の内容を見てみよう。

李懋官哀辞

始余識懋官。因元子才。日本之役。与子才俱道。閱其贈行軸。得一詩序光鋩射人。不 可狎視。驚問其誰製。則乃懋官也。及帰卽就之。懋官年尚少文弱甚。

(成大中、「昌山成大中士執著」『青城集』巻十)

121同様の記述が確認できるのは、朴趾源「銅蘭涉筆」『熱河日記』(『燕巖集』巻十五)、李徳 懋「耳目口心書」五『青荘館全書』巻五十二、「天涯知己書」『青荘館全書』巻六十三、朴斎 家「詩」『貞蕤閣初集』などがある。いずれも『韓国文集叢刊』に収録。

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記録によれば、成大中がはじめて懋官(李徳懋)の詩序を目にしたのは、使行中同じく書 記であった元子才(元重擧)を通してであった。その文才に感銘を受けた成大中は帰国後、

李徳懋と親交を結び始めたという。その親交は後に、成大中の子・成海応の代にまで続いて いったが、成大中父子は、李徳懋を通して李徳懋と親交のあった実学者たちとも交遊をして いた(ソンヘリ:2011、p69)。このような親交の背景には、成大中、元重擧、李徳懋に共通 する庶孼という身分的連帯があったと考えられるが、その一方で彼らは優れた文才をもと に、中国の文人文芸に対する高い関心や知識を有していた。

李徳懋は自身の著書の中で木村蒹葭堂と《蒹葭雅集図》を紹介・評価し、それに対する自 身の考えを述べている。とりわけ、『清脾録』の巻一では「蒹葭堂」という項目を設け、木 村蒹葭堂について記した後、雅集図の詩と後序をそのまま載せている。雅集図の詩を紹介し た後、李徳懋は次のように述べている。

木弘恭字世粛。日本大坂賈人也。家住浪華江上。売酒致富。日招佳客。賦詩酌酒。購書 三万巻。一歲賓客之費数千金。自筑縣。至江戶数千余里。士無賢不肖。皆称世粛。又附 商舶。得中国士子詩数篇。以揭其壁。(李徳懋「蒹葭堂」『清脾録』巻一)

内容をみると、李徳懋は木村蒹葭堂が酒造業を営んでいたことや、培った富を用いて日本 全国から賓客を招待し詩を賦しては酒を嗜んでいたと記した。さらに、三万巻にのぼる書籍 を購入しており、最後には、商舶を通して中国の士の詩を数編手に入れ、それを壁に掲げて いるとした。李徳懋のこのような関心は、やがて自身の日本、日本の文事に対する認識の変 化を導く。続く『清脾録』巻一「蒹葭堂」の記録を確認しよう。

ああ、朝鮮の風俗は見苦しくて狭く、忌諱するものが多い。文明の教化は古くからある が、しかし、風流文雅において日本も衰えていないのに、自ら高ぶり、異国を凌侮する。

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私はこのようなことを悲しむ。元玄川(元重擧)の言うように、「日本の人は聡明で優 れた人材が多く、心のすべてを注ぎ、心中の思いに照らし詩文や筆語に臨んでいるため、

それらすべては貴重で捨てることができない。朝鮮の人は、(日本を)夷と侮り、(日本 人の文を)一瞥しては、その過ちをそしることを好む」と。私はかつて元重擧の話から 感じたことがあり、異国の文字を得るたびに、それを手に取り愛したのだが、まるで朋 友に出逢ったような気持になるものであった(筆者訳)122

李徳懋のこの記述は当時、朝鮮の知識人の間で蔓延にした日本および日本人の文に対す る偏見と一線を画す見解として示唆に富んでいる。彼は成大中とともに 1764 年の通信使の 書記として参加していた書記・元重擧の話を引用しながら、そのような偏見を批判している。

さらに、日本人の文事を「まるで朋友に出逢ったような気持になるようなものであった」と いう自身の想いを綴った。このような日本や日本人の文事に対する意識の変化は、元重擧と 成大中といった庶孼文人から得た情報によるものだけでなく、李徳懋自身が実際に《蒹葭雅 集図》を目にしたことからも影響を受けていたのであろう123。言い換えれば、李徳懋がここ で評価したのは、文事にいそしむ近世日本の文人のことでもあったのだろう。

《蒹葭雅集図》を取り巻く李徳懋の記述をもう少しみてみよう。成大中宛に送った李徳懋 の書簡の一部を紹介しよう。

122 嗟呼。朝鮮之俗狹陋而多忌諱。文明之化。可謂久矣。而風流文雅。反遜於日本。無挾自 驕。凌侮異国。余甚悲之。善乎。元玄川之言曰。日本之人。故多聦明英秀。傾倒心肝。

烱照襟懷。詩文筆語。皆可貴而不可棄也。我国之人。夷而忽之。每驟看而好訛毁。余嘗 有感於斯言。而得異国之文字。未嘗不拳拳愛之。不啻如朋友之会心者焉。

123 李徳懋の日本観については、河宇鳳(1987)「李徳懋の日本観に関する研究」に詳しい。

河宇鳳は、李徳懋の日本観は成大中や元重挙など日本に使行した人々からの情報のほか、使 行の際に伝来した日本の書籍の影響を受け形成されたと指摘した。その詳細はp162の表か ら確認することができる。

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蒹葭堂図及一百単八図、両令公要弟願借一閱、天下之宝当与知者共鑑賞、亦千古勝絶、

恵仮如何少選卽当奉還。

(李徳懋、「成士執大中」、「雅亭遺稿」巻八(『青荘館全書』巻十六に収録))

記録から李徳懋自身はすでに《蒹葭雅集図》を目にしており、「両令公要弟願借一閱」を みると、弟(李徳懋)は両令公から雅集図の借覧を頼まれたことがわかる。その両令公が誰 なのかは定かでないが、朝鮮社会における令公とは、令監(ヨンガン)、すなわち、官僚、

あるいは高官を意味する124ため、高官の士大夫であった可能性が高い。それを踏まえると、

当時、中国の文人画に見慣れていた朝鮮文人にとって、日本人による雅集図や詩文が組み込 まれている≪蒹葭雅集図≫は目を引くに十分なものであったのではないだろうか。雅集図 に対する李徳懋の評価をみると、《蒹葭雅集図》は「天下の宝」であり、その価値を知る者 が鑑賞すると、その風景は「千古勝絶」と言っている125

さらに、『清脾録』巻一の「蒹葭堂」で、《蒹葭雅集図》の感想を次のように述べている。

蒹葭堂は浪華江に建てられ、荻(葭)は青く茂って靡き、瑟(琴)をならし、帆柱の 苫には霧雨、見渡す限り(水は)果てしない126

このような李徳懋の描写は、《蒹葭雅集図》と比べてみても一致していることがわかる。

内容の中でも、「瑟(琴)をならし」というのは、琴を奏でるという意で「鳴琴」は竹林の 七賢の一人で思想家の阮籍(210~263)の「詠懐詩」十七首や、西晋の文人の左思(250~

305 ころ)の「招隠詩」の中にも登場する語である。琴などの楽器は中国文人の風流な交遊

124 『標準国語大辞典』韓国、国立国語院に拠る。

125「蒹葭堂及一百八、両令公要弟願借一閱、天下之宝当与知者、共鑑賞亦千古勝絶、恵仮如 何少選即当奉還。」(李徳懋「成士執大中」『雅亭遺稿』巻八)

126 築蒹葭堂於浪華江、菼花荻葉、蒼然而靡、瑟然而鳴、檣篷烟雨、極望無際。

ドキュメント内 著者別名 JEONG Kyungjin (ページ 107-112)