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青城詩社と科挙

ドキュメント内 著者別名 JEONG Kyungjin (ページ 166-171)

第四章 「文人」を体現する-結社から隠逸まで

第一節 成大中と抱川での結社における諸様相

1.2 青城詩社と科挙

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坂文人の詩社においても同じくみられるが、この老人会は朝鮮の郷村における儀礼の一つの

「鄕飲酒礼」とも関わりをもつ。「鄕飲酒礼」とは、毎年陰暦10月に郷村の士たちが地域の郷 校や書院などで学徳を有した年長者を招き、酒を嗜み宴会を開くことをいう。このような郷 村の儀礼は郷村単位で行われるものであろうが、成大中家においても老人会という酒と詩を 楽しむ場が設けられていたことは、当時の郷村における「鄕飲酒礼」がより小さな単位であ る家門においても行われていたことを物語っている。興味深いのは、觴詠の詩会や交遊が老 人会だけでなく、親交のあった文人たちの間でも盛んに行われていたことである。とりわけ、

成大中家における白居易の九老会を模した風流な交わりが、成大中の孫の代にまで続いてい たことは注目に値する。

162 による。)

この記録の冒頭では、青城(抱川)が文鄕として名が知られるようになったのは、詩社が 結成されてからだと言っている。続く文章からは、詩社がのべ4回結成されたことや科挙合格 者について確認することが確認できる167。内容からも分かるように、まず青城詩社は1748年 にはじめて結成されたのだが、詩社を結成した成大中と権儼が二人とも進士の文科に合格す る。その後、二人は1774年に再び詩社を結成するようになる。汾臯李公など李氏家の人物は、

成大中家の人々と婚姻関係にあった慶州李氏家の人とされる(ソンヘリ:2013、p183)。記 録をもとに、1774年以降に科挙に合格した成大中家の人物を取り上げると、成大中の子・成 海応と成海運が進士に合格、1813年には成海応の子・成憲曽、成海運の子・成祐曽と成翼曽 も進士に合格した。このように、勉強会の性格を色濃く呈していた青城詩社では、科挙の中 でも庶孼層に許されていた進士への合格を目指して功令(科文)体の教授と学習が行われた とされる。その一端が窺える「研経斎府君行状」の記録を確認しよう。

時家君風窩公(成海運)。築室於花山竹谷。頗有林池之勝。花辰楓節。会両家子孫及門 徒二十余人。以較功令之体。設司馬会。序歯而食。如黌舍。憲曽及祐曽与焉。

(成海応、「研経斎府君行状」(成祐曽)(『研経斎全集行状』「行状」)

記録によると、成大中の子・成海運が花山(抱川の地名)の竹谷に設けた部屋に、両家、

おそらく成大中家と慶州李氏家の子孫と門徒約20人が集まり、功令の体を勉強していた。

特記すべきは、ここで生員と進士向けの科挙・司馬試の合格者が集まる司馬会を設け、学

167 この点は、ソンヘリの論究においても触れられている。しかし、76 年間 4 回に渡って結 成した詩社がもっぱら科挙合格者を輩出するためのものであり、その行為の有する故郷で の意義や役割についてはほとんど言及していない。

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堂でのように年齢順に座り食事をしていたことである。司馬会には先述した成海運の二人 の息子も参加していた。司馬会について説明する際に、榜会168という言葉もよく登場する が、榜会とは同年に科挙合格をした者の集まりを指す。しかし、実際には司馬会と榜会は 大きな区別なく使われていた。朝鮮の各地方には司馬試に合格した人々が集う司馬所が設 けられており、司馬試に合格した人は一生を通してこのような会に参加し、社会共同体的 結束を強めていたことは注目に値する。(イホンリョル:1969、pp109~110)。以上の内容 から青城詩社において勉強会に参加した人々は科挙に合格するようになり、また彼らがそ のまま司馬会にも参加していたことがわかる。

ここで司馬試・榜会についてもう少し詳しく検討する。成海応が『研経斎全集続集』巻 二十一に収録した「竹谷榜会詩序」の内容を確認しよう。

舍弟(成海運)卜宅于竹谷。有花木池沼之勝。里中之秀。多従之学。歲戊寅(1818年か)

端陽(端午・5月)月之望(陰暦15日)。邀同里中司馬者十人。列坐会食。倣泮水之堂。

石軒李公為首。次艮村李公。又松亭李士希及余。士希弟士兼。余弟鵬之(鵬之は成海運 の字)。楸谷李錫老。清浦趙士玄。侄子祐曽。兒子憲曽。皆以榜次之。飯訖。齊出池上。

少長製功令体已訖。託士希。考定高下。

(成海応、「竹谷榜会詩序」『研経斎全集続集』二十一)

題名の「竹谷榜会詩序」とは、先述の花山竹谷で行われた榜会の際に詠まれた詩の詩集の 序である。その内容から成海運の花山竹谷の塾にはその地域の秀才たちが多く集まり、功令

168 このような榜会は高麗時代から設けられ、朝鮮社会に入っては 16 世紀から盛んに行わ れた。その様子を描いた榜会絵も制作されるようになったが、この点については、パクジョ ンヘ(2002)「16.17 세기의 사마방회도(16、17 世紀の司馬榜会絵)」『美術史研究』16 号 に詳しい。

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の体を学んでいたことがわかる。門徒とは、故郷・抱川で教授活動を続けてきた成大中家の 塾に集った人々であったのだろうが、一家の詩社が家門の枠を越え故郷の門徒にまで広ま っていたことを物語る。

この5月の榜会は、故郷の司馬試合格者10人が招かれ行われた。10人は科挙試験が行われ る泮水堂に似せた空間に集まり食事をしたとされるが、座る順番は、科挙に合格した序列・

榜次に沿っていた。その10人の中には、成海応自身や成海運、甥(成海運の子)・成祐曽と 成海応の子・成憲曽なども加わっていた。記録から彼らは、食事が終わると池に出向き、功 令体の詩を作っては、李士希が詩をまとめ、その優劣を決めていたことが確認できる。科挙 のための功令体の詩作がこのように彼らを結びつける交遊の一種であったようだが、池な どに出向き功令体の詩を作る様子は、「遊山」のようにも見受けられるが、このような様相 は後述するように蒹葭堂会や混沌社においても顕著であった。

以上、青城詩社の主な目的が科挙合格にあり、勉強会を通して功令体を学ぶことであった ことについて検討した。ここからは、そのような営みが詩社を通して行われた意義について 検討したい。彼らが詩社を通して実践しようとしたことについて、成海応の「詩社記」の記 録から確認してみよう。

記余年十五。始遊社中。見先輩長者。皆享高年。威儀儼然在座。常慕仰若不可及。距今 五十一歲。余遽已当先輩長者之坐。課子姪而既小成。又復課孫兒曺。其衰朽固宜。夫士 之生也。必欲以名自見于世。而今之功令之業。不足以為名。然国朝以是取士。士之欲顕 揚而立身者。安得捨之哉。故自幼少時先習此。然未可以是為宲学而乃終始之也。(中略)

昔孔子曰。以文会友。以友輔仁。夫会之于文者。聖人之所許也。且不徒以会。奨以輔仁 也。此吾鄕所以結社之意也。(成海応「詩社記」(『研経斎全集続集』巻二十一)

内容はかつて詩社の勉強会で教わる立場であった成海応が、先輩長者として詩社を率いる

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ようになったことの心境を綴ったものである。成海応は15歳の時から青城詩社に参加してお り、その当時、彼の目に映った先輩長者たちは、詩社において礼の作法をきちんと守ってい たという。先輩長者たちを常に慕い、敬っていたという成海応の記録から青城詩社に集う先 輩長者には詩社を率いらなければならないという責任意識が、教わる立場の後輩には先輩長 者に対する信頼があったと推測できる。

続く内容には、なぜ功令の勉強をするのかについて綴られている。士として生まれたなら ば、必ず世に名を知らせようとするが、今の功令の業は名にするに足らない。しかし、国が これ(科挙)を通して士を選抜しようとする以上、世に名を広めたいと思う士や立身出世を 望む者は、功令の勉強を簡単に捨てるわけにはいかないと言っている。内容から庶孼文人の 現実における葛藤が窺えるが、その時代を生きた庶孼文人にとって、士として与えられた責 任を果たし、家学を継承するためには、科挙は避けて通れないものであった。

ここで文の最後に述べている、青城結社の結成意義に注目したい。成海応は孔子の話を引 用し、詩社の結成意義は「以文会友。以友輔仁」であると明らかにしている。これは『論語』

の「顔淵」第十二169を出典とするが、輔仁とは、「仁の徳を養うことをたすけること、互い に励ましあうこと」という意味である。続く内容を瞥見しても、文を以て人々が会うのは聖 人(孔子)によって許されたことであると強調されている。それを踏まえ、成海応は最後の 文で、吾鄕、すなわち、抱川で詩社を結成した理由について「仁を助けることを奨励するた めである」と述べている。『論語』の「以文会友。以友輔仁」が「君子たる者は、詩書礼楽 の学問をすることで友を集め、その学問に志す友との交際を通じて、仁徳涵養の助けとす る」(吉田賢抗:2002、p160)を意味することを踏まえると、詩社を通して成大中家の人々 が体現しようとしたのが「輔仁」であり、言い換えれば、詩社は士・ソンビに要される仁や 徳の体現の場でもあったことを物語っている。

169原文は「曽子曰。君子以文会友。以友輔仁。」である。通訳や内容については、五十嵐晃:

2005、p34、吉田賢抗:2002、pp160~161 を参照。

ドキュメント内 著者別名 JEONG Kyungjin (ページ 166-171)