第三章 近世日本と朝鮮における「文人」形成と「知」の体得
第一節 成大中家における家門意識と家学
1.2 成後龍(1621~1671)以後の成大中家の家学
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(成海応、「研経斎府君行状」(成祐曽)、『研経斎全集行状』「行状」)
成後龍は上述した成俊耉の子である。記録によると成俊耉は正妻の間に後継がおらず、
側室の間で二人の息子と一人の娘が生まれたとされるが、その長男に当たるのが成後龍で ある138。成俊耉の庶子である成後龍は先述のように、壮洞金門の金尙容(1561~1637)の 庶女と結婚した139。幼い頃から文章と書法に長じ、落ち着いていて意志が強い性格であっ た。彼は先祖の功績によって科挙の試験を通さず子孫を敍用する蔭(蔭士制度)で最下級 である従九品の文官・参奉の職を授かったが、科挙への志がなく職には就かなかったとさ れる。その代わり、長じた芸術や医術を生かすように中国の燕行使に参加した。成後龍は 上述の従二品の観察使を務めた父・成俊耉の庶子で、宮中の言論機関にあたる司諫院の正 三品の文官・大司諫を務めた祖父・成以文の孫であったことから、そのような「門蔭」を 受けていたと考えられる。父・成俊耉にとって家を継承するという意味から、たとえ妾と の間であっても後継を得ることは重大なことであっただろうが、その結果、庶孼家系にさ せてしまうのは、彼にとっても苦痛の選択肢だったのではないだろうか。また、右議政ま で登った金尙容の子孫でも庶女は結局、また妾になるか、庶子と結婚することしかできな かった。これは朝鮮社会の庶孼を取り巻く限界を示す一例と言える。
⑵ 成後龍の子・成琬(ソンウァン・1639~?)
長諱琬字伯圭号翠虗(成琬)子。(中略)年十三四。始従南公老星鄭公斗卿(鄭斗卿・1597
138 「公諱俊耇。字徳甫。姓成氏。本昌寧人。高麗門下侍中松国之十二世孫也。其世多名 公巨人。号為大族。(中略)側室子二人。後龍、後夔。女一人武挙人権得元妻也。後龍。
某官。有二男琬、璟。」(許穆「黃海道観察使成公墓誌銘」『眉叟記言』「記言」巻二十 五)
139 「側室一男四女。(中略)女為判書韓仁及妾。次適縣監李應寅。次為郡守李碩望妾。季 為成後龍妻。」(金尙憲「伯氏右議政仙源先生行状」『清陰集』巻三十七/仙源は金尙容の 号)
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~1673)学。藻思汪洋。(中略)粛宗壬戌。倭人請信使。金公錫胄(金錫胄・1634∼1684)
聞公名。卽白上充白衣製述官以行。及為倭人作詩。倭人皆驚其神速。源璵(新井白石)
雨森(雨森芳洲)東其傑也。歎慕公彌深。及帰付承文院製述官。
(成海応「成氏世譜上」、『研経斎全集』巻四十八、「家伝」)
与伯氏翠虗公琬。以詩名于世。
(成海応「先府君行状」、『研経斎全集』巻十、「行状」)
伯氏翠虗公諱琬。聯中司馬。仁宣王后宣醞内庭。以翠虗(成琬)兄弟。亦金文忠(金 尙容)公諱尙容外孫也。(中略)。翠虗(成琬)公兄弟及嘯軒(成夢良)。以詩鳴於世。
(成海応、「研経斎府君行状」(成祐曽)、『研経斎全集行状」』「行状」)
次の成琬は詩で名高く、1682 年に朝鮮通信使の製述官として日本を訪れた人物である。成 大中家からは成琬以来、成夢良、成大中と 3 人も通信使の製述官や書記として日本を訪れて いる。成海応は「以書記入日本。翠虗(成琬)、嘯軒(成夢良)之世職也。「研経斎府君行 状」)とし、通信使に参加するのは世職、すなわち、世襲の官職であると記している。成琬 は詩文の才能が優れ(藻思汪洋)使行中は、新井白石や雨森芳洲からもその文才を絶賛され、
帰国後は、外交文書を管理する承文院の製述官として仕えた140。第一章で検討したように、
日本人との筆談を担当する製述官や書記のほとんどは庶孼であったが、中でも一家で 3 人も
140 とりわけ、新井白石は成琬が没した後の 1711 年の通信使行の際に、製述官に成琬の安 否を尋ね、成琬が没したことを知ると成琬の子に自身の悲しい気持ちを伝えてほしいと伝 えたとされる。「白石曰。成琬現在乎。洪曰。今夏已千古人矣。白石曰。僅得海外之交。
弔墓中之人。可慟可慟。東郭(製述官・李礥)卽製述官号。曰。此人官不高壽不長。可哀 可哀。白石曰。翠虛卽成琬号。有令嗣乎。東郭曰。有二子矣。白石曰。公帰国之日。以僕 一慟。幸達其二子。東郭曰。当如教耳。」(李宜顕「序」『東槎日記』)
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参加したのはほかに例をみない。このような通信使の経験は、成大中家の家学形成にも一定 の影響を与えたと考えられる。記述の最後をみると成琬兄弟を「金尙容の外孫」と特記して おり、ここからも壮洞金門との関わりが強調されていることがわかる。
⑶ 成琬の弟・成璟(ソンギョン・1641~?)
独青公(成璟)以崇禎辛巳八月二十九日生。十一歳始学。文思奇壮。不愧為翠虗(成琬)
公弟也。公豊貌偉幹。風度峻整。常有遺世長往之意。文谷(金壽恒・1629∼1689)欲薦 為官。公力辞之。帰安山丙舍。(中略)与金氏諸公為文章之好。夢窩(金昌集、号は夢 窩、忠献・1648~1722/金尙容のひ孫)忠献公留守江都(今の江華)。農巌(金昌協、号 は農巌、三洲・1651~1708/金壽恒の子)、三淵(金昌翕、号は三淵、文康・1653~1722/
金昌協の弟)二先生往遊。而公亦自安山往。相与為歌詩甚盛。江都之南門。文忠公(金 尙容)殉節之所也。江都之南門。文忠公殉節之所也。公謂忠献曰盍樹碑以記之。此公責 也。忠献曰諾。卽伐石表之。三淵詩曰文献(金昌集)後人成子過。(中略)有集二巻。
詩甚精工。三淵称之曰独青晩年成就。勝於石洲云。有四子。(中略)独青公(成璥)四 派。長派居安山。亦貧困。子孫綿弱。第二第四派並無後。三派在抱川。独以文学相伝。
得世世有科名而従叔父之後。
(成海応「成氏世譜上」『研経斎全集』巻四十八、「家伝」)
成璟についてはこれまで成夢良の父であること以外、韓国の研究界においてもほとんど注 目されてこなかった。成璟は早くから隠居を夢見ていたようだが(常有遺世長往之意)、朝鮮 後期の文臣で壮洞金門の金壽恒(1629~1689)がその文才を認め官職への推薦を試みたとい う記述がある。金壽恒は先述の成後龍とともに中国燕行に参加していた人物である。注目すべ きは、金壽恒の子で、「六昌」と称された文臣で学者の壮洞金門の金昌集(1648~1722・号は 夢窩)、金昌協(1651~1708・号は農巖)、金昌翕(1653~1722・号は三淵)兄弟が成璟と親
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交をもっていた点である。とりわけ、金昌協は成璟と次韻した詩で、「成璟と会ってともに宿 する際に、詩興が部屋中に満ちる141」と詠んでおり、その親交ぶりが窺われる。このように、
成後龍以後の人々が朝鮮後期の文人文化を牽引した壮洞金門の人々に文才を認められ、交遊 していたことは大きな示唆となる。なぜなら、六昌の兄弟たちは朝鮮真景画家の代表格である 鄭敾(1676∼1759・号は謙斎)のパトロンであり、朝鮮後期の文人文化を牽引したと評価され ているからである(カングァンシク:2006、pp121~123)。
また、成璟の子のうち長男は安山に世居し、三男が抱川を拠点に世居していた記録にも注目 したい。ここでいう長男は次に紹介する成夢良で、三男は成大中の祖父に当たる成夢奎(ソン モンギュ)のことをいう。成夢奎は短命であったようだが、科挙の合格者名である科名を世世 に得たという記録からもわかるように、生涯抱川で学問を伝え、科挙への合格者を代々輩出し ていた。この点については、ソンヘリが論じたように、成大中家は 16 世成琬(1639∼1710)と 成璟(1641∼1712)から 22 世成駿英(1817∼1835)と成駿容(1837∼1887)に至るまで 7 代に渡っ て科挙の合格者を連続輩出したとされる(ソンヘリ:2013)。上述の記録からすると、その基 になる学問の伝承は成夢奎からはじまっていたことが分かる。故郷・抱川の地における成夢奎 の教授活動は後に子・成孝基や孫・成大中にまで受け継がれるようになっていくのだが、成大 中家の家学・家業がこの時期から本格的に成り立っていたことは、成大中家における家学の特 徴を知るに非常に示唆的である。
⑷ 成璟の子・成夢良(ソンモンリャン・1718~1795)
嘯軒公(成夢良)嘗随信使日本。日本人以銅炉一贈之。久而刓敝。先考以文木為匣而蔵 之。賛曰。其来則遠。其制則工。自汝之儲吾堂。嘗拾松枝而爇之。未嘗燒沉香焉。(中
141 全文は以下の通りである。「莫以官居鬧。洗心良在玆。春陰滋露井。夜雨滴苔池。隱几 寥天近。扶藜遠壑疑。逢君成伴宿。詩興満床帷。」(金昌協「洗心齋。用池字。与成進士 璟。同賦。」『農巖集』巻六)
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略)家有少陵(中国、漢の宣帝の皇后)詩集二部。其一鄕本。壬辰之倭乱。先祖観察府 君携之。避兵山谷中而得全。其唐本仙源金文忠(金尙容)公之所点竄也。
(成海応「家中古物賛」、『研経斎全集』巻十五)
嘯軒(成夢良)。次諱夢澤字楚望。次諱夢奎(成夢奎)字文瑞。次諱夢天字季通。嘯軒 公一号適菴。(中略)壬午挙進士。己亥従通信使入倭。倭人求詩者坌集。皆応之如宿搆。
凡有贈遺無所受。惟取宝劒一口書数種以自随。庚子金忠献(金昌集・1648~1722)公 辟為天文学教授。忠献素重公。延置隣舘。托教諸孫。
(成海応「成氏世譜上」、『研経斎全集』巻四十八、「家伝」)
続く、成夢良についても叔父・成琬と同様、1719 年の朝鮮通信使に書記として参加してい たこと以外、これまでほとんど注目されてこなかった。だが、「家中古物賛」の記述からもわ かるように、日本人から贈答品として宝剣やいろり、書などを受け取り、収蔵していたこと は同じく通信使に参加していた成琬と一線を画す行動である。成夢良はその他にも中国の有 名詩集を収蔵していたが、その唐本は上述した壮洞金門の金尙容が手を加えたものであった。
成夢良と壮洞金門との関わりについて興味深いのは、先述した六昌の一人、忠献・金昌集が 諸孫の天文学の教授を成夢良に頼み、その私塾に招いたことである。金昌集が成夢良の父・
成璟と親交があったことはすでに述べたが、その親交は次の世代にまで続いていたのである。
最後に、成夢良が文苑を通して家門の名声をとどろかせたことは、最後に引用した金昌協の 門人・李宜顕(1669~1745)の詩「成主簿夢良挽次前日贈渠韻」の「文を以て家門の名声を 伝えること、誰が君のようであろうか。昌山(昌寧)は昔から明るい霊で有名である。今で もなお後世の奇気をみることができる」という詩句からも確認することができる142。
142 詩の全文は「文苑伝家孰似君。昌山自昔炳霊云。今看後出猶奇気。信識橫驅掃翳氛。束 得鯨鬐驚脊嵂。噓来熺燄覚顔薰。平生壮跡空蕪沒。哭望東槎海上雲。」(李宜顕「成主簿夢