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菅甘谷の塾と文人たち

ドキュメント内 著者別名 JEONG Kyungjin (ページ 139-143)

第三章 近世日本と朝鮮における「文人」形成と「知」の体得

第二節 近世京坂文人の「文人」形成と儒学塾

2.2 菅甘谷の塾と文人たち

儒者・菅甘谷は大坂徂徠学の祖と呼ばれ、その門下からは後に大坂の詩社を牽引する同人 が多く輩出されたと言われている。菅甘谷が来坂したのは 1744 年前後とされるが、中野は 菅甘谷の功績として後に活動する門人を育てたという点を挙げた(多治比郁夫:1993、p174)。

それは、菅甘谷門下の人々の文人社会形成を裏付けるものであろうが、その土台として彼ら が儒学塾に相会し、交遊していたことは注目に値する。菅甘谷門下の代表的な人物に、葛子 琴(号は蠧庵、名は張、字は子琴・1739~1784)や細合斗南(字は麗王、号は半斎・1728

~1803)、岡魯庵(名は元鳳、字は公翼・1737~1787)、などがいる。彼らは北海門下の木 村蒹葭堂とも親交が深く、後に蒹葭堂会や混沌社にも参加し、《蒹葭雅集図》にも詩を寄せ ている。彼らの面々については、混沌社の同人で儒者・頼春水(1746~1816・字は千秋、

伯栗)の『在津紀事147』と『師友志148』から確認することができる。

その面々を概観してみると、まず、医師で漢詩人の葛子琴は「天賦の詩才と精励の学識と を兼ね備えた天成の詩人149」という評価を受けている(水田紀久:1993、p325)。

葛張、字は子琴、号は螙庵、橋本貞元を以て行はる。家は玉江橋の北畔に在り。世、浪 華の人。人と為り、恬澹楽易、人に接すること甚だ謙なり。而して詩名最も高し。(中 略)子琴、詩を作るに、苦しみ学ぶ者に似ず。人と古今の詩を評するを欲せず。詩友、

相ひ会すれば、動もすれば輙ち議論蠭起す。子琴、絶えて一語を交へず。一日、独行し

147 『在津紀事』は混沌社の同人・頼春水による回想記である。本研究の引用は多治比郁夫, 中野三敏校注(2000)『当代江戸百化物;在津紀事;仮名世説』岩波書店による。

148 本研究の引用は、『師友志』『春水遺稿別禄』巻三、『師友志譯註第一稿』(1965)による。

149 葛子琴については、水田紀久注(1993)『葛子琴 ; 中島棕隠』pp325~331 の解説を参照 されたい。

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て南紀に遊び、祇園尚濂に謁す。尚濂は伯玉の子、亦作家なり。尚濂、子琴を喜び、為 に伯玉の平生を説いて曰く、「先人の志す所、甚だ遠く、詩は其の余業なるのみ。世、

詩を以て之を知るは、是れ其の刻苦する所に非ず。而して其の詩は独り韓退之を尸祝す」

と。子琴、之を聞いて拱壁を得るが如く、南帰後、人に逢へば輙ち之を説く。

(『師友志』、()の説明は筆者による。以下、同様)

子琴、人目して詩人と為す。而れどもその学該博して、究討せざる莫し(中略)子琴は 未だ嘗て本朝人の詩文集を閲せず。麗王(細合斗南)は好んでこれを読み、その鹿瑕を 挙げてこれを講す。亦た一癖なり。(『在津紀事』)

『師友志』から葛子琴の人柄を窺うことができる。一言で言えば、恬澹楽易、すなわち、

「ものごとにとらわれず、心安らか」である。とりわけ、「あっさりしていて物事に執着し ないこと。心やすらかで欲のないこと」(『日本国語大辞典』)の意味の「恬澹」に注目して みると、後の片山北海の記録からも、「恬澹」と類似する言葉として「恬然」が登場する。

さらには、蒹葭堂会の「草堂会約」にも「最も恬淡を主とする」といい、結社としての蒹葭 堂会の特色が「恬淡」という語で端的に表れている。ここで、「恬澹」「恬然」「恬淡」につ いてもう少し検討を加える必要がある。この三つの言葉は同じ意味を有するが、『大漢和辞 典』から「恬淡」の意味を調べると、「あっさりして、思うことも為すこともないさま。心 静かで無欲な様。虚心平気」とあり、『大漢和辞典』でも「恬淡」と「恬澹」を同じ意味と して捉えている。『日本国語大辞典』にも「恬淡」は「物事に執着しない、心やすらかで欲 のないこと」の意味で載っている。『老子』三十一章や『荘子』の「天道篇」第十三と、「刻 意篇」第十五を出典とする「恬淡」の意をめぐって、金谷治の訳注に頼りながら『荘子』の

「天道篇」第十三の内容の一部をみると「そもそも無心の静けさで落ち着いて安らかさを保 ち、ひっそりした深みにいて作為がないということこそ、天地自然の平安なありかたであり、

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真実の道との実質的な内容となるものである(夫虚静恬淡寂漠无為者、天地之平、而道徳の 至」。)といい、「刻意篇」第十五では「(心を空虚にして落ち着いた安らかさを保っていくな ら、そこで天の徳とぴったり適合するのだ(虚静恬淡、乃合天徳)。)という(金谷治:1994、

pp147~148:pp223~224)。結局、真実の天の道や徳の獲得に、恬淡さは欠かせない条件で あったことを意味しているが、落ち着いて安らかさを保つ恬淡は、後に論ずるように近世の 京坂文人、ひいては文人詩社における文人「体現」を支えた重要な思想であったのではない かと本研究は考えている。

再び話を葛子琴に戻すと、彼は謙虚な態度で人々と交わり、詩で名高かったようであった が、続く記録からは詩作に対する態度を確認することができる。『在津紀事』の記録を合わ せてみると、葛子琴は日本人の詩文には興味がなく、詩作においては「詩を作るに、苦しみ 学ぶ者に似ず」という態度であった。さらに、祇園南海の次男で儒者の祇園尚濂(1713~

1792)とも親交があった葛子琴は、祇園尚濂の「詩は其の余業なるのみ。世、詩を以て之を 知るは、是れ其の刻苦する所に非ず。」という見解に同調していた。そこから葛子琴が菅甘 谷の塾から詩を学ぶも、次第に詩作を余技と受け止めていたことがわかる。しかし、余技と 捉えるということは決して詩作を粗末にすることを意味するものではない。後述するよう に、葛子琴は詩社の詩会において誰よりも真剣に取り組んでいたからである。しかし、学問 の対象から余技や交遊の媒介へという詩作に対する認識の変化は、後に文人詩社での交遊 を支えた重要な要因となっていたと言うことができよう。

次に、儒者の細合斗南についてみてみよう。「細合半斎年譜」によると、細合半斎は 1743 年の 17 歳の時に、京都の谷眉山(伊藤東涯門)に従学した後、20 歳の 1746 年に菅甘谷に 従学し、詩を学んだという。混沌社の長老の一人である鳥山崧岳ともすでに親交があったよ うで 1757 年の秋、細合斗南が東行する際に、鳥山崧岳が詩を贈った。(水田紀久、多治比郁 夫:1969、pp30~31)。

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麗王常にその家集を撿し、数数改竄し、殆ど原稿を留めず。詩を小草と曰ひ、文を袁 志と曰ふ。(『在津紀事』)

上述した葛子琴の『在津紀事』記録にあるように細合斗南はその家集の詩文を読み調べ、

それを直すのを好んでいたことがわかる。その一方で自身の詩文集はほとんど残してなか った。細合斗南は「詩を小草と曰ひ、文を袁志と曰ふ。」と言っているが、『在津紀事』の注 によると、袁志は薬草の名で小草はその苗であるという。

最後に、医師で儒者の岡魯庵150についてみてみよう。

岡元鳳、字は公翼、魯庵と称す。浪華の人。医を業とし、詩文を善くす。一篇出づる毎 に、人、皆、博誦す。人と為り温謹、交遊を猥りにせず。香橙窩集あり。京師の江村北 海、日本詩選を選び、其の集を見て、以て故人と為して曰く「句法格調、今世の得易き 所に非ず」と。(『師友志』)

『師友志』は岡魯庵の詩作能力について特記している。彼の完成した一篇の詩は、人々に 広く詠まれるほどであった。とりわけ、『日本詩選』(1774)を編纂した儒者・江村北海(1713

~1788・字は君錫)が岡魯庵の詩を絶賛するほどであったことは示唆に富む。続く内容から は岡魯庵の人柄を垣間見ることができるが、温謹、すなわち、「あたたかく心がひろい」人 柄で、文人同士の交わりを乱すことをしなかった。言い換えれば、交遊における「礼」と「和」

を重視したと考えられるが、その背景として家法を厳しく守っていたことも影響を与えて いたと思われる。彼らのこのような詩作能力や人柄、気質は、蒹葭堂会と混沌社の交遊を通 して花開いていくのであった。

150 この他にも、冠豊一(1964)「大坂における初期徂徠学派の人々--菅甘谷の高足について」

『日本歴史』191 号にも菅甘谷門下の人々について記述がある。

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