《蒹葭雅集図》からみる18世紀日韓文人のありよう : 庶?・京坂文人の「知」の体得と「文人」体現の 様相
著者 鄭 敬珍
著者別名 JEONG Kyungjin
その他のタイトル 18th century Japanese Korean men of letters from the perspective of Kenta Gashzu: seol・
keihan men of letter s acquisition of knowledge and expressing men of letters
ページ 1‑228
発行年 2018‑03‑24
学位授与番号 32675甲第418号
学位授与年月日 2018‑03‑24
学位名 博士(学術)
学位授与機関 法政大学 (Hosei University)
URL http://doi.org/10.15002/00014619
法政大学審査学位論文
《蒹葭雅集図》からみる 18 世紀日韓文人のありよう
-庶孼・京坂文人の「知」の体得と「文人」体現の様相-
鄭敬珍
目次
序章 ... 1
1. 研究内容と目的 ... 1
2. 先行研究からみる「文人」を取り巻く議論 ... 9
3. 各章の構成 ... 21
第一章 「文人」の交叉-1764 年の朝鮮通信使行と蒹葭堂会との交遊 ... 26
第一節 1764 年の朝鮮通信使と庶孼 ... 27
1.1 1764 年の朝鮮通信使行について... 27
1.2 庶孼を読み解く ... 31
1.3 朝鮮通信使と庶孼文人 ... 37
第二節 庶孼文人と蒹葭堂会の交遊 ... 46
2.1 藍島での亀井南冥との出会い ... 46
2.2 江戸に向かう前の大坂で ... 49
2.3 帰路の大坂 ... 54
第三節 《蒹葭雅集図》の制作をめぐって ... 59
3.1 大典との出会い ... 59
3.2《蒹葭雅集図》の依頼 ... 62
3.3《蒹葭雅集図》完成へ ... 65
第二章 「文人世界」の共有-《蒹葭雅集図》の分析から ... 70
第一節 別号図としての《蒹葭雅集図》 ... 71
1.1 園林・蒹葭堂 ... 71
1.2 別号図とは ... 74
1.3 別号図としての《蒹葭雅集図》 ... 77
第二節 《蒹葭雅集図》上の文人世界のイメージ ... 80
2.1 《蒹葭雅集図》の後序 ... 80
2.2 《蒹葭雅集図》の絵 ... 83
2.3 《蒹葭雅集図》の詩 ... 96
第三節 《蒹葭雅集図》の評価と成大中家の家伝 ... 102
3.1 朝鮮文人の《蒹葭雅集図》評価 ... 102
3.2 成大中と成海応の評価 ... 107
3.3 成大中家の雅集図家伝をめぐって ... 110
第三章 近世日本と朝鮮における「文人」形成と「知」の体得 ... 114
第一節 成大中家における家門意識と家学 ... 116
1.1 庶孼家になる以前における家門意識 ... 118
1.2 成後龍(1621~1671)以後の成大中家の家学 ... 122
1.3 成大中の家学の継承と実践 ... 129
第二節 近世京坂文人の「文人」形成と儒学塾 ... 132
2.1 18 世紀大坂における儒学塾の様相 ... 132
2.2 菅甘谷の塾と文人たち ... 134
2.3 片山北海の塾と文人たち ... 138
第三節 「知」の体得から「文人」形成へ ... 142
3.1 成大中家における「知」の体得の実例 ... 142
3.2 近世大坂の儒学塾の「知」の体得の実例 ... 145
3.3「知」の体得と「文人趣味」の獲得 ... 150
第四章 「文人」を体現する-結社から隠逸まで ... 155
第一節 成大中と抱川での結社における諸様相 ... 157
1.1 抱川での詩社結成について ... 157
1.2 青城詩社と科挙 ... 161
1.3 青城詩社と風流韻事 ... 166
第二節 蒹葭堂会から混沌社へ ... 171
2.1 「草堂会約」にみる蒹葭堂会の詩会 ... 171
2.2 混沌社の詩会の営み ... 174
2.3 混沌社と風流韻事 ... 178
第三節 文人交遊から隠逸へ ... 181
3.1 混沌社への移行期にみる交遊の様相 ... 181
3.2 成大中の世好を中心とする交遊 ... 187
3.3 隠逸という「文人」体現 ... 190
終章 ... 204
1.総括 ... 204
2.今後の課題 ... 208
引用・参考文献 ... 213
謝辞 ... 228
1
(図1)『蒹葭雅集図』、32.5 ㎝ x413.5 ㎝、韓国国立中央博物館所蔵
序章
1. 研究内容と目的
「文人」とは何か。東アジアにおける共通の文化コードでもある「文人」概念は、言うま でもなく中国から朝鮮、近世日本へと時期を異にしながら伝播したものである。各々の社会 において「文人」は、文化の担い手として重要な位置を占める。一般に、正統な中国文人と は、科挙合格後仕官した士大夫や、読書人などを指す。中国から伝播された文人の文芸は、
朝鮮と近世日本の異なる社会構造や身分制度などと相まって、両社会に見合った文人社会 の形成を支えたと考えられる。すなわち、中国における正統な文人たる人の要件から少々の ズレを呈する、朝鮮と近世日本特有の文人が登場し各々の特性を有する文人社会が構築さ
2
れたことを意味する。たとえば、近世日本の文人論を提示した中村幸彦は、文人とは「職業 でもなく、階級身分を示すものでもなく、文学者の生活や自己の作品に対する態度に基づく 称呼」(中村幸彦:1958、p3)であると論じている。中村の見解は科挙制度を持たない近世 日本社会で台頭した文人層の特徴を指摘したものであるが、朝鮮社会においても必ずしも 士大夫だけが文人と呼ばれていたのではなく、本研究で取り上げる庶孼をはじめ多様な身 分の人々が文人の文芸を享受していた。従って、文人とは文人社会に身を置く人々の「生き 方1」の一種である、と言い換えることができよう。
本研究では、1764 年朝鮮通信使行の際に大坂で制作された《蒹葭雅集図》(図 1)の制作・
朝鮮伝来を研究の出発点として、その背景となる 18 世紀日韓文人たちに注目し、彼らの文 人としてのありようを解明することを目的とする。なかでも、朝鮮の庶孼・近世日本の京坂 文人を射程に入れ、彼らの「知」の体得から「文人」を体現する過程を考察する。文人文化 論として本研究の立場は、伝統的な中国の文人、すなわち、士大夫を軸とした文人との比較 を目的とせず、18 世紀日韓両社会の文人、その当事者たちに目を向け日韓文人のありよう の一端を示すことを当面の課題とする。そのため、本研究では両班家の庶子とその一家を指 す朝鮮の庶孼(ソオル)と、主に大坂を中心とする町人や医者・儒者など多様な生業や社会 的位置づけを有する人たちを取り上げていく。彼らを異なる社会を生きた文人であり、知識 人だと定義することができるならば、文人という共通のフィルターをかけてみることは、近 世の日韓社会を新たな観点から理解する上で重要な意味を有すると筆者は考えている。
そのような立場から、本研究では考察対象の具体的な人物として、1764 年の朝鮮通信使 の書記として日本に来聘した成大中(ソンデジュン・1732~1809)と、大坂北堀江で酒造 業を営んだ町人文人・木村蒹葭堂(1736~1802・名は孔恭、字は世粛)に焦点を当てなが ら、彼らが属していた文人社会の共通点と相違点を丹念に考察する。さらに、重要な分析材
1 橋爪節也も「文人画家」木村蒹葭堂について論じた論考の中で、「ライフスタイルとして の大坂の文人のあり方」に注目した(橋爪節也:2009、p14)。
3
料となる《蒹葭雅集図》についても、両国文人の結びつきによって依頼・制作されたものと 定義し、雅集図から両国文人の文人的営為とそれを可能にした文人社会のありようの一端 を究明する媒体として多角的に分析を行う。本研究でいう文人社会の範囲とは、「知」を体 得する場、さらには、それを体現する結社の場までを含む。とりわけ、それを可能とする土 台が両国において異なっていたことに重点を置きながら成大中と家門、京坂文人と儒学塾 との関わり方を論及する。
成大中と木村蒹葭堂に関する当時の記述を見渡すと、まず、木村蒹葭堂の場合、『浪華郷 友録』(安永四年・1775、寛政二年・1790)に「聞人」と分類されている。聞人とは、それ こそ「ぶんじん」と読むが、「世間によく名のきこえた人、有名人」(『日本国語大辞典』)の 意味を有する。さらに、『浪華郷友録』の例言に「聞人、或官吏、或矦臣、或商工、各其公 余游芸苑者、皆属此部」とあり、聞人はいかなる身分や生業に関係なく、芸苑に余技として 遊ぶ者と定義されている。その背景については「大坂の文化の根底にある商都の現実主義と 文人の理想主義の結びついている」という指摘があるが、とりわけ、聞人が大坂文人の「新 しいライフスタイルを語る上で必要な言葉である」という見解は注目に値する(橋爪節也:
2009、pp16~19)。言い換えれば、大坂の地に文人という生き方が斬新な生き方のありよ うとして取り込まれていたことを意味すると考えられる。もちろん、その「新しいライフス タイル」を一概に言うことは困難だが、18 世紀以後、大坂で文人画の制作が活発となった こと(中谷伸生:2007、p68)や徂徠学派の大坂での塾開講などを踏まえると、大坂の聞人 にとって文人という生き方は魅力的なものとして生活の中に取り込まれていたのだろう。
もし、そのような風潮の中心に木村蒹葭堂がいるとするならば《蒹葭雅集図》は、大坂にお ける文人のありようの一端を示す資料として、重要な意義を有すると言えよう。
成大中も後述するように、『幷世諸彦録』の「文芸」の項目からその名を確認することが できる。詳細な様相は異なるにしても木村蒹葭堂と同様、文人の生き方を体現していた。彼 らに共通するのは、当時の人々から文芸に長じ、世間で名の知れた人物と評価されていたこ
4
とである。まさに、「文人と号ばれた2」のである。これらを踏まえると、本研究において日 韓文人の「知」の体得・体現の様相を明らかにすることは、日韓における文人文化の受容・
展開過程を究明することにもつながる、と考えられる。
ここで文人を主題とする《蒹葭雅集図》について簡略に説明しよう。本雅集図は 1764 年 5 月(旧暦、以下同様)、明和元年の朝鮮通信使行に参加していた書記・成大中が臨済宗相 国寺派の僧・大典顕常(1719~1801)との筆談の中で制作を依頼したものである。朝鮮通 信使行の歴史上、朝鮮側の者が日本人に絵巻制作を依頼した事例は他に例をみないことか ら、本雅集図の制作と贈答という一連の出来事は、朝鮮通信使の役割を越える行為であるた め、その意味合いはきわめて重要であると判断される。雅集図についてはその所在が長年不 明であったこともあり、実物の紹介や研究は近年に入り本格的に行われている。金文京や高 橋博巳、キムソンジンなどによる先行研究の成果は本研究の考察をするうえで重要な土台 となっている。
他方、この使行に参加した朝鮮の製述官や書記と木村蒹葭堂をはじめとする蒹葭堂会の 人々の交遊は、高橋博巳によって論じられてきた。高橋はその論考の中で、通信使の帰国後、
顔を合わせたことのない朝鮮の実学者たちが蒹葭堂会の人々について評価をしたことに注 目した3。この朝鮮の実学者たちは中国の先進文明を積極的に受容する北学を標榜したことか
2 荒井健は『中華文人の生活』の中で、明末清初の学者である顧炎武(1613~1683)の「文 人の多きこと」との批判を論じた際に、顧炎武のいう文人とは、「人からことさらに文人と 号ばれるようなタイプの人」であるといった(荒井健:1994、pp21~23)。序章で文人と号
(よ)ばれることと、文人と命(なの)ることに関する荒井の見解に触れたが、結局、文人 とは本来号ばれることであって、自身が命るものではなかったことがわかる。
3 この点については、高橋博巳(2007)「통신사 · 북학파 · 켄카도(蒹葭堂)(通信使・北学 派・蒹葭堂)」『朝鮮通信使研究』4 号、(2009)『東アジアの文芸共和国:通信使・北学派・蒹 葭堂』新典社、(2011)「庶孼に伝えられた江戸文人の詩文-東アジア学芸共和国への助走-」
笠谷和比古『一八世紀日本の文化状況と国際環境』思文閣出版、(2013)「通信使行から学芸 の共和国へ」染谷智幸、崔官『日本近世文学と朝鮮』勉誠出版、(2014)「文人研究から学芸 の共和国へ」『二松学舎大学人文論叢』93 号などに詳しい。
5
ら「北学派4」とも呼ばれた人々であった。高橋は北学派の文人が蒹葭堂会に共感した風流文 雅は、朝鮮と日本の隔たりを越えたものであると指摘している。さらに、中国に使節団とし て派遣された実学者・洪大容(ホンデヨン・1731∼1783)などによって、蒹葭堂たちの詩文 が中国に伝わったことを踏まえ、この一連の交遊を「東アジアの文芸共和国」の形成と定義 している(高橋博巳:2007、p118)。確かに朝鮮通信使と大坂の文人たちの交遊は、従来の 通信使行では例をみない出来事であり、《蒹葭雅集図》が海を渡り、後に朝鮮の実学者らによ って大いに評価されたことなどを踏まえると、高橋の論考は妥当といえる。だが、《蒹葭雅集 図》を主題として論じてない点や、交遊に参加した朝鮮側の当事者とその社会的位置づけ、
さらにそれが有する意義については再考の余地があると思われる。
これに対し、本研究はこの交遊の当事者たちに注目し、どのような背景や理由によってこ の交遊が行われたのかを明らかにすることを射程に入れることに特色がある。なぜなら、朝 鮮側の人物を考えてみると、通信使の役割である製述官や書記は臨時の役名に過ぎないか らである。交遊に参加した朝鮮側の人物たちが朝鮮通信使として派遣される前、朝鮮社会に おいてどのような生き方をしていたのかなどを明らかにする必要がある。なぜなら、これま での日本の研究分野では通信使の身分を含む社会的位置づけについて、ほとんど注目され てこなかったためである5。本研究では製述官や書記のほとんどが、庶孼という士大夫家の
4 その代表的な人物に、朴趾源(パクジウォン・1737~1805)や朴斎家(パクジェガ・1750~
1805)、李徳懋(イドクム・1741~1793)、洪大容(ホンデヨン・1731~1783)などがいる が、とりわけ、李徳懋と洪大容は、1764 年の書記である成大中や元重挙と親交があった(ア ンデフェ(2012)『18세기 한국한시사연구(18 世紀韓国漢詩史研究)』)。一方、「燕巌グル ープ」について呉壽京は朴趾源を中心に成立した「文学同好人のグループ」と定義した(呉 壽京:1999、p71)。
5 朝鮮側の人物について高橋博巳は、書記・元重挙と成大中について論じているが、たとえ ば、彼らの身分や、通信使として派遣される以前については、ほとんど論じられていない。
さらに、朝鮮の庶孼については、日本の研究界でほとんど注目されてこなかった。庶孼を主 題に取り上げた唯一の研究とも言えるのが、1953、1954 年に『朝鮮学報』に投稿した前間 恭作の「庶孼考」である(『前間恭作著作集』に収録)。朝鮮時代全般に及ぶ庶孼関連の資料 を網羅的に整理した論考である。その他には、Robinson Kenneth R.(2010)「朴趾源の「両
6
庶子であったことや彼らの文人志向を踏まえ、1764 年の通信使行に参加した製述官や書記 を「庶孼文人」と称し、交遊の当事者たちの面々について、浮き彫りにする。
一方、1764 年の朝鮮通信使行の際に製述官や書記と蒹葭堂会の人々との筆談交流に注目 した韓国の研究にキムソンジンの研究がある。キムソンジンはその論考の中で、1764 年の 朝鮮通信使の帰国から 2 年後、製述官・南玉のもとに、大坂で交遊をした大典顕常と木村蒹 葭堂などから書簡が届いたことに注目し、蒹葭堂会の後に結成した詩社・混沌社の成立に 1764 年の通信使の製述官や書記との交遊が大きな影響を与えていた可能性を提示した。だ が、南玉の使行録『日観記』の記録をみると書簡が送られてきたことが確認できるものの、
その内容までは明らかにされていない6。そのうえ、キムソンジンは朝鮮側の人々と儒者・
那波魯堂や蒹葭堂会の同人たちの学問的見解が一致したことを影響関係の一因として挙げ ている(キムソンジン:2010、pp34~36)。確かに、混沌社が朝鮮通信使の帰国した翌年に 成立したことや、大典の筆談集『萍遇録』(1764)から筆談を介した交遊が盛んに行われた ことなどが確認できることなどから、両者に何らかの相互作用が働いていた可能性は否定 できない。しかし、日本の先行研究がすでに指摘しているように、18 世紀以後江戸・京都・
大坂の三都には、徂徠学門人の塾から発展した形で詩社が結成され、詩は学問としてのみな らず嗜みの一種となっていった(揖斐高:2009、p243)。それを踏まえると、混沌社成立の 理由を 1764 年の交遊のみで考えることについては再検討をする必要があると思われる。
その一方で、京坂文人の詩社・混沌社を取り上げた重要な先行研究の中で、揖斐高は「混 沌社はそれ以前の詩社よりもサロン性や交遊性の濃厚な詩社」であると混沌社の特徴を指
班伝」に見る朝鮮社会の身分構造のパロディ (続・パロディと日本文化)」『アジア文化研究 別冊』18 号の中で、庶孼について言及している。
6『日観記』によると、「1766年7月、僧侶・周奎、大典、聞中浄復、木村蒹葭堂の4人が詩を 賦した書簡が倭館を通して送られてきた。」という記録は確認できる。大典、聞中浄復、木 村蒹葭堂は《蒹葭雅集絵》の中で後序や詩、絵を手掛けた人々である。
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摘されている7。揖斐高の見解には本研究も賛成する立場であるが、ここでいう「サロン性 や交遊性の濃厚な詩社」となった要因については、より踏み込んだ議論が必要であると判断 される。本研究では、先駆的な研究により混沌社が 18 世紀日本の文人文化を理解する上で 重要な意味を有すると論じられてきたことを踏まえながら、儒学の塾や蒹葭堂会との影響 関係について、さらには、これまで十分に論じられてこなかった儒学塾と文人形成との関わ りについても検討を加えていきたい8。
最後に、《蒹葭雅集図》を主題とした先行研究についてはまだ多くないのが現状である。
なぜなら、《蒹葭雅集図》は 2012 年、金文京によってその所在が明らかになったため、それ 以前の先行研究においては実物を取り上げた分析はほとんど見られないからである9。当然 のことに、金文京の論考は《蒹葭雅集図》を論じる上でもっとも重要な視点を提供してくれ る。まず、染谷智幸が 1764 年の通信行の際にあった両国文人の交遊について金文京の論点 をまとめた内容をみると、朝鮮の製述官や書記が日本人に好意的な態度をとったのは確か であるが、朝鮮側の理解は「儒教化された日本に武備はなくなるといった程度の誤ったもの であり、また朝鮮のその後の対日政策に彼らは一切かかわらなかったばかりか、彼らの言説 は結局のところ出版されずに、実学は内部で共有されたに過ぎなかった」という(染谷智幸:
2017、p71)。金文京のこのような見解は、1764 年の交遊の当事者たちを朝鮮通信使に参加 した朝鮮の知識人と先進の朝鮮の文に習いたいたいと思う日本人という関係、すなわち、依
7この位置づけについては、揖斐高(2009)『江戸の文人サロン:知識人と芸術家たち』、p.30、
揖斐は近世日本において「知識人や文人が文雅風流を媒介にして交遊する場を文人サロン」
と呼んでいる(同(2009)『近世文学の境界 : 個我と表現の変容』、p243。
8 頼惟勤(1967)「大阪の混沌社-江戸時代後半期の漢詩社」『斯文』(48)、pp10~24、森上 修(1964)「混沌社の福原承明」『大阪府立絵書館紀要』(1)、pp21~27、多治比郁夫(197 1)「平沢旭山と混沌詩社の成立前後」『大阪府立絵書館紀要』(7)、pp.1~12などがある。そ の他、混沌社関連の引用・参考文献は文献リストを参照されたい。
9金文京(2012)「『萍遇録』と「蒹葭堂雅集絵」:十八世紀末日朝交流の一側面」『東方学』124 号:(2013)『18세기 일본 지식인 조선을엿보다.평우록(萍遇録)』。筆者は2012年の7月に
「蒹葭雅集絵」の所蔵先である韓国国立中央絵書館にて、研究資料として使用許可を得た。
8
然として両者を対等な関係とみなさない立場からみるなら妥当と言える。しかし、それを踏 まえたとしても、なぜ、彼らが《蒹葭雅集図》をわざわざ制作したのかという疑問は依然と して解消されない。金文京の指摘の通り、雅集図の制作は朝鮮通信使の一員が日本人に殺さ れる一大事件が起きた緊迫な状況の中で進められた。さらに、大典が残した筆談集『萍遇録』
の記録を見渡す限り、朝鮮の製述官や書記は蒹葭堂会という詩社の詩会に関心を寄せ、彼ら を文人としてみとめていたことが見て取れる。だとしたら、雅集図を依頼した成大中をはじ めとする庶孼文人たちと、制作に携わった京坂文人の間で文人としての共通認識が芽生え、
それが雅集図の制作に大きく作用したという論点を想定することも可能なのではないだろ うか。つまり、《蒹葭雅集図》の有する意義は、18 世紀に新しく受け止められた文人という 生き方を体得・体現した京坂文人と、雅集図を依頼した庶孼文人の文人社会の一端を示す、
資料としての価値から見出すこともできるというのが、本研究の主張である。
その一方で、近年に入っては横尾拓真やキムヨンナム、朴晟希が論考の中で、《蒹葭雅集 図》の絵の部分を言及している。だが、いずれの分析も美術史的観点によるものである10。 中でも、横尾拓真は池大雅筆《楡枋園図巻》(1772 年)を主題とした論考の中で、明代園林 図の影響を受けた一例として《蒹葭雅集図》を取り上げている。中国文人の文化的営為が輸 入され、日本においてほぼ正確に再現された、という横尾氏の指摘については本研究も同じ 立場を取る。だが、《蒹葭雅集図》と《楡枋園図巻》は、厳格にいえば、制作過程を異にし ている。とりわけ、《楡枋園図巻》の場合、池大雅が以前から親交のあった京都の漢学者・
巌垣龍溪の依頼を受け庭園を描いたのに対し、《蒹葭雅集図》は交友関係を持っていなかっ た近世日本と朝鮮の文人間で依頼・制作が行われたのである。何より、絵の描き手と園林・
10朴晟希(2017)「木村蒹葭堂筆「蒹葭堂雅集絵」の史的意義 : 十八世紀後半の日韓におけ る日本文人の表象」『美術史』66号、横尾拓真(2015)「池大雅筆「楡枋園絵巻」(大徳寺蔵) について:中国の園林文化の受容と展開」『美術史』64、キムヨンナム(2007)「木村蒹葭堂 の絵画研究」『韓国美術史教育学会誌』21号。
9
蒹葭堂11の所有者が一致しているのは、《楡枋園図巻》ともっとも異なる点である。
他方、美術史の観点から《蒹葭雅集図》を主題に取り上げたものに朴晟希の論考がある。
朴晟希は《蒹葭雅集図》が池大雅や祇園南海の絵の構図と類似するとし、彼らの文人的世界 観を継承しようとしたと分析した。さらに、絵の表象と木村蒹葭堂が朝鮮の人々に伝えたか ったメッセージとして、「市隠」の理念を挙げた(朴晟希:2017、pp220~225)。朴晟希の 論考は美術史の立場から《蒹葭雅集図》を丹念に分析した研究と言えるが、いぜんとして、
雅集図の有する意義を説明する上では十分とは言えない。たとえば、本研究においても蒹葭 堂会の人々の隠逸体現について論じるが、「市隠」など隠逸の問題においては文人の概念を 取り入れた議論が不可欠となるのである12。依頼者である成大中にも雅集図を通して木村蒹 葭堂が伝えようとしたものが共感されたとみるならば、両者を東アジアにおける文人の多 様なモデルとして捉えることはさらに重要性を増すと考えられる。
総じていえば、日韓文人の接点となった 1764 年の朝鮮通信使行や《蒹葭雅集図》の多角 的な側面の分析と、雅集図の文人世界のイメージを享受するまで、両国文人が身を置いてい た文人社会の営みをより実証的に考察し、彼らの文人という生き方の体得・体現過程を究明 するのが本研究の目指すところである。今後、この取り組みが 18 世紀から 19 世紀にまた がって変遷する日韓文人社会の解明につながり、ひいては、近世における東アジアの文人社 会の様相を理解する一助となることを期待する。
2. 先行研究からみる「文人」を取り巻く議論
11本研究では書斎の堂を含む空間というより広い意味として、「蒹葭雅集絵」画中の空間を園 林・蒹葭堂と称する。園林は『大漢和辞典』には、園中の林、『日本国語大辞典』によると庭 園の中の林、庭園と林という意味を持つ。
12 朴晟希は論考の中で「市隠」を指摘した理由として、中村真一郎の『木村蒹葭雅のサロ ン』を参照し、大典の『昨非集』に詩「反反招隠」が収録されていることを挙げている(朴 晟希:2017、p225)。確かに、「反招隠」と市隠との関係について重要である。そのために も、より詳細に分析をする必要があると思われる。
10
近世社会における学問や文芸の担い手であった文人を取り上げた日韓比較研究はこれま でほとんど注目されてこなかった。その理由として、まず、これまでの両国の文人研究にお いて、対中国文人との関わりを中心とした考察が主になされてきたことを挙げたい。さらに は、韓国側からしてみれば、近世日本における文人の存在がほとんど知られていないという 点も重要な理由と考えられる。すなわち、科挙制度を持たない近世日本に、武士や学者、儒 者を文人と呼ぶに値するのか、という疑念が存在すると思われる。ここからは文人を取り巻 く諸議論を、先行研究を取り上げながら総括したい。
両国文人について検討する前に、まず、中国における「文人」について概観しておきたい。
本来、文人という語は『詩経』や『書経』に例がみられるほど古くから存在したが、文人の 概念が完成したのは宋代であるというのが一般的な説である。その背景としては、宋代に入 ってから官吏登用制度の科挙が整備完成されたことが挙げられている(村上哲見:1994、pp32
~33、池澤一郎:2005、pp5~6)。科挙に合格し、仕官した士大夫や読書人に文人の資格が 与えられたのである。それを踏まえると、文人という概念は科挙制度の成熟とともに重要性 を増し、文人と称する人間の輩出を促したと考えられるが、このような点は朝鮮においても 同様と言える。村上哲見によると、この士大夫と読書人はいずれも、「人文的教養、すなわち、
古典の素養と作詩文の能力」を備えていた。ところが、士大夫の場合は天下国家の経営に対 する使命感が重視される一方、読書人の場合はそのような使命感は薄く、もっぱら人文的教 養を問題にしている点にその概念の差異がみられるという(村上哲見:1994、pp34~41)。
その一方で、文人の属性は、「能文の士」と言われる通り、作詩能力を要するものであっ た。後代になるにつれて文事に、書画音楽などが含まれるようになったのだが、六朝時代に 入ってからは、文人たちの間で「雅俗認識」が定着していたとされる。このように雅の世界 を求めるのは、読書人と一線を画す文人の特徴と言われている(村上哲見:1994、P44~45)。 文人は、すぐれた詩作能力を有するだけでなく、雅の世界を追求するという村上の説明は、
正統な文人とはいかなるものか、という問いに対する根本的な解説になろう。他方、荒井健
11
も『中華文人の生活』の中で、文人とは「文に偏向するところのある士人」であると定義し、
文人とは士人のうちのある種のタイプ、または様態を指すものと指摘している(荒井健:
1994、p19)。依然として、中国における文人には、士人であるべきという身分の条件が先 行されていたのである。
ここで中国の時代ごとに文人を取り巻く様々な定義と評価を追った論考として、中嶋隆 藏の『中国の文人像』を挙げたい。その内容をまとめてみると、まず、中国と日本には文人 の辞書的意味から食い違いがみられるとし、とりわけ、『大漢和辞典』の「文雅のことを修 める人」という語意が中国ではみられず、その語彙が中国において重視されていないことを 指摘した。さらには、唐、宋代、明代の文人の特徴を論じ、宋代における文人の役割として、
南宋の政治家で詩人の陸游(1125~1210)の文を踏まえ、「文人は道徳の根源を説き、天地 の秘密を証し、万物の実情を示す文章を著すのである。(中略)天下に於いて尤も緊要事で ある文の創作に携わるべき存在こそが文人に他ならない。」と指摘した(中嶋隆藏:2006、
p50)。
注目したいのは、時代が下っていくにつれ、中国においても文人が「恒常的に生産され、
文人の一般化、世俗化という潮流」が生じたという点である。それについて中嶋は「理念と しての文人像とはひどく異なる、矮小化、形骸化した文人たちが多量に登場してくるという 現象も次第に顕著になってくる」と指摘している(中嶋隆藏:2006、p53)。換言するなら ば、中国の文人社会においても古代の文人たちの生きざまを理想としながらも、時代が下っ ていくにつれ、本来の文人の存在意義とはかけ離れた文人たちが台頭するようになった、と 言えるだろう。理想としての文人像に与えられたそのような普遍的価値は、中国だけでなく、
近世日本と朝鮮においてもほぼ同様に受け入れられたと思われるが、結局、文人を体現する 上で理想とした文人像とのズレや矛盾が必然的に生じ得るという点を見過ごしてはならな い。
このような内容を踏まえ、今度は日本における「文人」を取り巻く議論をまとめ、検討を
12
加えよう。まず、池澤一郎は村上哲見の中国文人に関する論考を踏まえ、日本における文人 論を展開した。池澤の説明によると、近世日本においては村上哲見が中国文人を分類した官 僚文人、すなわち、蘇軾のような「読書人の条件に加えて、経世済民治国平天下への政治的 使命感を必須とした官僚の人物」が文人の典範とされ、頼山陽や田能村竹田などに強く影響 を与えたという。さらに水田紀久の論を踏まえ、「日本における文人は近世中期に成立し、
詩文のみならず「琴棊書画13」など、多岐にわたる趣味性を一身に兼ね備える知識人を指す」
と論じた(池澤一郎:2017、pp165~167)。池澤が取り上げた水田紀久の論考は、本研究 においても第三章の「文人趣味」の議論の際に言及するが、水田によるとこの文人趣味ある いは、中華趣味は 18 世紀後半に盛んに嗜まれたという。文人趣味の観点から水田が定義し た文人は、「特定の階層に限られることなく、文人趣味に薫染した中国的教養の持ち主であ り、彼らはお互いの身分を越えて、ともに風雅の世界を楽しんだ」特徴を有する。注目すべ きは、水田が柳沢淇園(柳里恭)を例に挙げ、「いかに多芸多趣味でも、書巻の気なければ 文人失格というほかない。小器用だけでは、本当の文人にはなれない」(水田紀久:1977、
pp185~187)と述べたことである。この見解は科挙制度を持たない近世日本において、中 国文人の「士人」であるべきということを、学問を修めることとして捉えることを通して近 世日本に見合った文人像を提示したものであると、指摘することができる。
一方で、日本の文人論として先駆的な論考に中村幸彦の『文人意識の成立』がある。中村 は青木正児によって分類された官僚、幕賓、売文、交遊、隠逸という中国文人の特徴がその まま日本の文人に合致するわけではないとしながらも、「それに相似た生活態度や、抽象的 な性質」を日本の文人が有していることを指摘した。その要素としては、多芸性や反俗性、
隠逸性、孤高性などを挙げている(中村幸彦:1958、p3)14。さらに、中村は享保以後出現し
13 中国における「琴棊書画」の四芸の成立・展開が知識人の生活とどのような結びつきをみ せたのかについては、青木正兒(1958)『琴棊書画』に詳しい。
14 その例として、中村は「秋成の隠逸孤高性、柳里恭の多芸性、蕪村の反俗性」を挙げ、彼 らには「中国文人にも共通する文人性の特色がある」と論じた。(中村幸彦:1958、p5)。さ
13
た日本の文人15について、「思想の基盤も儒教的教養や国学などにおかれ、中国文人の生活 に意識的に範を求める人々が出現した」と分析した(中村幸彦:1958、pp4~5)。この「意 識的に範を求める」とは何を意味するのか。それは 18 世紀の近世日本に儒学に関する経書 のみならず、先述した理想の文人像に合致する人物らに関わる様々な情報が伝播・受容され たこと、その過程の中で、文人という生き方が生活の中に取り込まれるようになったという ことを意味するほかない。このような近世日本の人々の積極性の根底には中国の文人世界 が、ちょうどこの時期人気を博していた徂徠学や老荘思想16などと相まって新しいもの、ひ いては身近なものとして受容されていたことが推測できる。
書画と隠遁について語る前に、詩作と「近世的生」について論じた日野龍夫の「演技する 詩人たち-古文辞派の詩風」(『徂徠学派』)に注目する。興味深いのは「近世人は町なり
らに、本研究が注目する混沌社を例に詩、安永期の文人の様相を「身分階級を混じ、専門も 原因もさまざまで、多端である」と定義した(同書、pp17~18)。
15 高橋も「享保以後、古文辞派の影響は全国に及んで、文をもって会する人々が各地に生ま れ、やがて文人集団が形成された。」と指摘している(高橋博己:1996、p193)。
16 談義本と通して近世知識人による啓蒙意識など、近世中期の老荘思想の流行について論 じた貴重な論考として、中野三敏(1981)「近世中期における老荘思想の流行-談義本研究
(一)」(『戯作研究』に収録)と大野出(1997)『日本の近世と老荘思想 : 林羅山の思想を めぐって』などがある。さらに、日野龍夫も「近世中期の老荘思想」(『江戸の儒学』)の中 で、老荘思想の受容はまず、談義本の流行と密接な関係をもつとした。作者の試みについて は「『老荘』の「弱」の思想から、現実生活に有用な教訓を短絡的なまでに性急に引き出そ うとした」(日野龍夫:2005、p133)と分析する。その他にも、荻生徂徠や賀茂真淵、安藤 昌益などの思想家による受容も老荘の流行の一端を成したと紹介している。とりわけ、荻生 徂徠は、徂徠学の中核をなす『学則』第六則の内容を『老子』と結びつけ、「老荘的聖人の、
万物をあるがままにおいて肯定する態度を、徂徠は自己の儒学説の中で読みかえている」
(同書、p141)と指摘している。さらに注目すべきは、以上のような老荘思想の流行の動き は結局「老荘の論理を借りて、自己のそのような意識を論理化しようと試みる過程であっ た。」(同書、p145)という論調である。日野の言うこのような現象は老荘思想の受容だけに 当てはまる問題ではなく、18 世紀文人社会の形成においても同様なことが言えるのではな かろうか。一方、「日本文化と老荘思想」(『東アジア文化研究』)の中で楠山春樹は、日本思 想と老荘思想について、近世の人々が古代を語る上で『老子』を引用して語ったとし、神道 との関係性を論じている(楠山春樹:1995、pp437~438)。
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武士なりのイメージに沿って生活を演技する」という主張である(日野龍夫:1975、p42)。 そのイメージとは、各々の身分に応じて設定された生活イメージのことを言うが、日野は
「近世人の場合、イメージが生活と一体化し、生活そのものを媒体として自己を相対化する」
といい、だからこそ近世人には文学が必要であったと指摘している。注目したいのは、詩作 などの虚構と生活がはっきり区分されていないのが近世人の生活であり、従って「古文辞派 の創作意義は生活意識と連続する」という見解である。日野は「文人とは、18 世紀の半ば、
学問の普及と身分制度の固定化を生み出した遊民意識に浸透された知識人である」(日野龍 夫:1975、pp43~46)と文人の定義を施した17。「遊民意識に浸透された知識人」が文人で あるとする際に、一見、世俗を離れ人生の楽しみを追うという意味の遊民と知識人とが相い れないという矛盾が生じるが、そのような矛盾は文人とその世界を理解する上で生じ得る 問題と言えよう。換言すれば、文人に相応しい学問的素養を身につけながら遊民意識をも常 に有していなければならない、という文人に対する認識が近世日本に行き渡っていたこと を意味するのだろう。さらに、詩作がより広く受け入れられていく過程について、日野は「儒 学から文学が独立する過程」と表現したが、もはや「知識人の自我が自己を士大夫とみなす 必要がない、普遍的な意識に成長」するようになっていたことを意味する。さらに、知識人 の世界の中で、その生業等に関係なく、「それぞれのあり方において士でありうる」時代が 到来したと指摘している(日野龍夫:1975、pp49~50)。これは本来、中国文人の中核をな す身分的要素とその意義を普遍化させてしまうことで、科挙制度を持たない近世日本の文 人、あるいは文人社会のあり方を肯定し得るようにしたことを物語る。中国から入ってきた 文人という新しい生き方が、18 世紀近世日本においてどのように定着し日本化していった のかが見て取れる好例であろう。
17 『近世文学史』に収録されている日野の別稿をみると、近世に隠者の意識が浸透し、「現 実から一歩退いたところで人生を眺める人」を遊民と定義し、遊民は隠者の系譜に属すると 指摘している。遊民を隠者とみなした際に、遊民たちの意識を支えた思想はやはり『荘子』
であったことが確認できる(日野龍夫:2005、pp52~56)。
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このような様相は、有坂道子をはじめ先行研究で指摘されているように、18 世紀近世日 本の中国文人文化への憧れによって「中国趣味あるいは文人趣味といわれる風潮が広くみ られる」現象を再考させる。確かに近世日本で、文人を取り巻く学問や文芸の伝播過程にお いて、そのような憧れは多岐にわたって強く影響を及ぼしたと考えられる。ところが、18 世 紀半ば以後、端的に言えば近世日本の文人は、中国古代の文人世界を各々の生活の中に取り 込み、自らと重ね合わせることを通して、文人的ありようを見出していたと考えられる。だ からこそ、先述のような科挙制度や士大夫の不在を乗り越え、「生活のなかに風流風雅の文 事を取り込んで楽しむ者も多く、すそ野の広がりとともにそのあり方も多様化」することが できたのではないだろうか(有坂道子:2011、p293)。
次に、文人画を含む芸事について取り上げよう。本研究では《蒹葭雅集図》という絵巻を 取り上げ、多角的な分析を試みるが、ここではより広い意味で文人画が文人形成にどのよう な影響をもたらしたのかについて触れておきたい。中村幸彦は文人画や音楽、書道、篆刻な どを「学者の芸」とみなした。注目すべきは、近世日本の文人たちはこのような芸を体得し、
嗜むことを肯定する理論を打ち出したことである。それが『論語』「述而」第七に登場する
「遊於芸」である18。ここでいう芸とは六芸、すなわち、礼(礼法)、楽(音楽)、射(弓 術)、御(乗馬)、書(文章)、数(数理)を指す。近世日本においてはとりわけ、荻生徂 徠によって「遊於芸」が重視され、その風潮は享保期の社会や思想界、諸学諸芸に至るまで 文人を発生せしめる原因となった。さらに、そこで顕著となった中国趣味の享受は中国文人 を尊敬・模倣することを通して、日本の文人の中に浸透したと指摘している(中村幸彦:
1958、pp7~9)。さらに、中村は別稿『近世的表現』で「服部南郭は、漢詩を文芸として 確立させた、儒業と文業を区分させた極初の一人」と紹介し、南郭の文人性を論じ、この論
18 原文は「子曰、志於道、據於徳、依於仁、遊於芸(子曰く、道に志し、徳に拠り、仁に 依り、芸に遊ぶ)」である。ここで六芸とは、士人が身に着けるべき基本教養であった。
訳及び内容については、久米旺生訳(1965)『論語』、井波律子訳(2016)『完訳論語』を 参照。
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考の中で文人とは「一つの生活の姿勢」と定義している(中村幸彦:1982、p127、p146)。
「遊於芸」という理論のもとで嗜まれた様々な文芸、ひいていえば、風流韻事は後に文人層 の拡大をもたらす要因となっていたことが推察できよう。
中村のいう中国文人の模倣とは、おそらく文人を取り巻くほとんどの領域においてなさ れたと思われる。しかし、もっとも顕著とみられるのは、文人画あるいは南画の世界であっ た。文人画に関する研究は主に美術史の分野において行われ、多くの議論がなされてきた。
当然であるが、18 世紀の画壇は当時の社会、文化的背景から強く影響を受けていたのであ る(佐々木丞平:1999、p121)。そこで、中国文人画の模倣と近世日本の文人意識を関連 づけてみると、それが単なる模倣にとどまるものではなかったことがわかる。中村竹洞の
「蘭亭図巻」を主題とした亀田和子の論考「文人理念と「写し」のジレンマ」によると、「中 国画模や版本の学習、または復古主義にもとづいて日本の古画からつちかった視覚表現と いう複数の表現が混ざり合い、一種の独創性を生み出した」と分析している(亀田和子:
2013、p43)。中国の蘭亭図を写すことは、法則や型を重視する作画態度をもたらしたとい うが、亀田は竹洞の「蘭亭図巻」が「中国の絵巻の臨模作でありながら、同時に竹洞の写生 でもあるという矛盾」を孕むとしながらも、そこから竹洞の独創性を強調した(亀田和子:
2013、pp65~66)。
さらに、池澤も「詩と画への隠遁」について論じ、田能村竹田の文人画を中心とした「詩 画への隠遁」(『雅俗往還』)の中で竹田や同時期の文人画家に対して、「自らの放浪詩人 的生活を支えるものを、詩と画との規範性に求めている」とした。さらに、与謝蕪村におい ても、日本・中国画を模範とし、漢詩習得から生じた重層性や構造性が存在すると指摘した
(池澤一郎:2012、p267)。言い換えれば、作り手が中国文人画の型を取り入れながらも、
中国画だけでなく、地の詩や書などに軌範を求めることで自ら描く世界や現実を中国の文 人画に見立てた、と指摘することができよう。注目したいのは、竹田など近世日本の文人が 求めたのは文人画や詩詞に対する「構造性、規範性への隠遁」でもあったと指摘しているこ
17
とである。それは、文人画の風景に超俗的な要素と生活臭が同時に存在し、それらが「一種 の構造性を帯びた規範として備わっている」ことを意味する(池澤一郎:2012、p246、p268)。
次に、詩や画への隠遁について佐々木丞平は、時代が下っていくにつれ文人の世界の隠遁 が「生き方の一つのスタイル」となったことで、詩や絵画が「隠遁という生活様態の中で自 ら楽しむ、自娯の手段に変身」したという見解を述べた。佐々木は「隠遁性」が文人画の必 須条件としてみなされる論調には同意せず、「隠遁性は文人画の一部に見られる作画背景的 要素」であると主張している(佐々木丞平:1998、pp93~94)。本来、士大夫の余技とさ れる文人画が、隠遁を実現する媒介となったそのような矛盾の背景には「雅」の追及がある と思われる。
他方、中村は服部南郭の例を挙げ、雅事は現実との遊離を必要とするが、現実から離れる ことのできない彼にとって、結局、精神面における遊離となることが多いと指摘し、「具体 的生活の如何にかかわらず、精神によって至り得る閑人の境で、文人的隠遁性は認められる」
と分析した(中村幸彦:1958、pp10~11)。中村の見解は詩画への隠遁が結局は俗を離れ る雅事であり、それによって完全な閑人にはなれないにしても、精神的な問題として、その 境に立つことができると言い換えることができる。池澤も大田南畝の場合、一生役人として 現実を離れることはなかったものの常に隠逸への意を抱いていたとし、「吏隠」がそれを支 えた理念であったと分析した。そのうえで、大田南畝の文人性について「「吏」=「俗」、
「隠」=「雅」というような雅俗のせめぎあい、あるいは、均衡は十分に看取りされ正に南 畝が「雅俗均衡」の上に立っていた人」であると定義した(池澤一郎:2000、pp24~25)。
近世日本、とりわけ、18 世紀の文人とその文人社会は、まさに、池澤の言うように雅俗や 正統性の問題、理想像と現実などとのせめぎあいの中で形成・展開されていったのではない だろうか。そのような意味からすると、そのせめぎあいの中で生じ得る矛盾をも、近世日本 の独創的な文人像や文人世界を育む一つの要素であったと言っても過言ではないのだろう。
ここからは朝鮮の文人に視点を移してみよう。冒頭で述べておくが、文人関連の韓国の研
18
究を概観してみるとまず、「文人とは何か」という議論がほとんどなされていないことに気 づく。おそらく中国と同様、科挙制度や士大夫が存在した朝鮮社会に対して、改めて文人の 概念を論じる必要性を感じてなかったのであろう。主に、士大夫や庶孼、中人19など各々が 異なる身分にもかからわず、彼らを文人と括ることができる理由としていずれも科挙を通 して仕官を経験したことがまず挙げられる。身分に応じた科挙・仕官の制限が設けられたと しても、彼らの文才や学問的素養は科挙によって公認されたことを意味する。その一方で彼 らが上述の近世日本の文人と同様、詩作や詩書画音楽など風流韻事を嗜み、享受していたこ とも彼らを文人と冠する理由となる。
言うまでもなく、朝鮮においても中国と同様、まず、士大夫を文人と称していた。とりわ け、18 世紀からは漢陽(今のソウル)を中心に居住する「京華世族(京華士族20)」と呼ば れた士大夫家の人々が文人社会を主導した。カンミョングァンは、京華世族とは政治的とい うより、文化的意味を有する用語であるとし、「ソウルという都市を生活の基盤とし、その 過程で形成された独特の文化的エトスを有する両班層」と京華世族を定義した。その代表的 な例が、本研究でも取り上げる安東金門の人々である。ここで大事なのは、「ソウルに世居 する」ということで、彼らは「ソウルの両班らしさ」を保持することに力を入れながら文人 文化を享受し、支えたとされる(カンミョングァン:1999、pp279~280)。その文人文化の中 では、飲茶や焚香、書画骨董、品評鑑賞などが盛んに行われた。とりわけ、邸宅の中に所蔵 処を設けるのは 18 世紀、京華世族の特徴と言われている(カンミョングァン:1999、pp284
~285)。それは書画骨董の蒐集が流行したこと、さらにはその受容に応じた書画骨董が中
19 たとえば、朝鮮の場合は、士大夫や庶孼の他、両班と平民の間の身分に当たる中人層によ る文人社会が 19 世紀台頭するようになる。中人は、主に官庁の行政職や朝鮮通信使の訳官、
医官、画員などを生業としていたが、彼らは学問的知識や経済力をもとに詩社を結成し、詩 書画・音楽など様々な分野において朝鮮後期の文化を牽引したと評価される(イキョング
(2007)『조선후기 안동 김문 연구(朝鮮後期、安東金門の研究)』)
20 京華とは「にぎわかな漢陽」という意味で、京華士族は、漢陽とその周辺に居住する士族 のことを指す。
19
国から輸入されたことによって裏付けられる。ソンヘリは 18 世紀以来、書画愛好の趣味が 広まったことで、書画の鑑賞、収蔵活動が行われ、さらには批評記を記す傾向も強くなった と指摘する(ソンヘリ:2009、pp749~750)。そのような動きの中心に京華世族がいるの だが21、本研究で取り上げる成大中とその子・成海応が記した『書画雑識』もまさに、書画 の収蔵と鑑賞に関する重要な記録と言える。『書画雑識』については後述するが、なぜ成大 中が《蒹葭雅集図》の制作を依頼し、それを家伝したのかを考える上でも、このような風潮 は重要な要因となっていたと考えられる。
ここで先述した京華世族の代表格である安東金門の人々について、少し触れておきたい。
イサンジュは「18 世紀初、文人の友道論と文芸趣向」の中で、朝鮮後期の知識人たちは、
政治的見解を異にする朋党の対立をいう党争による疲弊を克服する方法の一つとして「友 道」を重視するようになったと指摘した。朝鮮後期文人たちの間で「友道」の実践が求めら れていたことが窺えるが、イサンジュは安東金門の一人・金昌翕(1653~1722)と彼と交 遊した文人たちを取り上げ、友道を通した文芸享受の実践について論じた。その内容をみる と、いくつかの重要な特性が浮き彫りになる。まず、友道の実践には『論語』の「以文会友」
と「以友輔仁」が、文芸においては「遊於芸」が重視されたということが挙げられる。とり わけ、この「遊於芸」は、先に中村幸彦が近世日本の文人たちも影響を受けた概念と指摘し たものであるが、イサンジュも「遊於芸」が「(文人間の)活発な交遊を促し、文芸活動を 展開していく動機となった」と分析している(イサンジュ:1999、p208)。
さらに、安東金門の一派である壮洞金門の人々は、上述のような文人意識をもとに、朝鮮 後期文人画家・鄭敾(ジョンソン/1676~1759・字は元伯、号は謙斎)と交遊し、後援をし ていた。鄭敾によって花開いた朝鮮の真景文人画風は、両者の文人交遊から誕生し、そのす
21 その代表的な著述に京華世族の南公轍(1760~1840)による『書画跋尾』がある。ソン ヘリは「18~19 世紀初、文人の書画鑑賞と批評に関する研究」の中で、南公轍の『書画跋 尾』と成海応の『書画雑識』を比較した。
20
そ野を広げていった。その一方で、鄭敾とともに朝鮮後期を代表する画員画家・金弘道(キ ムホンド/1745~?・字は士能、号は檀園)の文人意識についてもすでに論じられている。
中尾道子は金弘道の自宅で催された雅会の様子を盛り込んだ《檀園図》を分析し、金弘道の 士人意識の解明を試みた。士人とは、官に就いていない士を意味する(『韓国標準国語大辞 典』)。中尾は士人の概念について「官職といった身分的な側面よりも儒教的古典の教養や 詩文や書の能力の有無、社会的使命感の表出といった人格の側面に比重を置く概念」と定義 し、金弘道の士人性を強調した(中尾道子:2008、p79)。さらに、中人身分の金弘道の 絵・《檀園図》には自身の雅趣が投影され、その士人的作画意識が現れていると指摘した(中 尾道子:2008、p83)。中人身分の金弘道が身分を越えた交遊をし、文人画を通して自身の 士人的雅趣を投影したことを、広く言って文人意識の発現とするのならば、近世日本と同様、
士大夫でない朝鮮の中人文人は、自身を取り巻く矛盾をも多様かつ、独創的な文人のありよ うにしてしまう傾向があったと、指摘することができよう。
朝鮮の文人を語る際に、身分がどうであれ「士」の意識を踏まえて論じるのも、重要なこと である。士はハングル語で「ソンビ」といい、朝鮮においては士と儒のいずれもソンビと呼ば れていたという(イジャンヒ:2007、p8)22。朝鮮後期の実学者・朴趾源は士・ソンビにつ いて、「士とは下には農と工と列し、上には王公とも友になれるもので、地位においては無に 等しく、徳においては雅事である23」と定義した。注目したいのは、朴趾源の定義から朝鮮に おける士の範疇が文人の概念を内包していることである。すなわち、士・ソンビとは政治的意 味合いを持たない無に等しいもの一方で、徳を基にする美しい雅事をする人を意味すると解
22 朝鮮の文人画を論じる際に、韓国の美術史ではソンビが余技として描いたものを「ソン ビの絵」と分類している。ジョソンミは、「ソンビの絵」は文人画とはその概念を異にする もので、主には「遊於芸」に基づき写意を表した作品を指すと、定義した(ジョソンミ:1979、
pp39~40)。
23 夫士下列農工上友王公、以位則無等也、以徳則雅事也(以後、中略)(朴趾源「原士」
『燕巖集』巻 10 別集)「原士」の中で朴趾源は士・ソンビがどうあるべきかを詳細に論じ ている。今後、朝鮮のソンビ文化についてより踏み込んだ議論が必要になると思われる。
21
釈できよう。しかし、士と士大夫は同義語ではない。本研究が注目する庶孼の場合をみても、
彼らは確かに士大夫家子孫の士で、科挙にも合格し下級であるとはいえ、官吏にも就いた。し かし、彼らが士大夫として認められることは決してなかった。この点について、キムキョンス クは「士大夫は庶孼に「士」で留まることを強要し、自分たちは(政治的に名の知れた)「大 夫」でいることを願っていた」と分析した(キムキョンスク:2006、p148)。朝鮮社会の特 殊な階層である庶孼については第一章の中で詳論するが、士大夫とは一線を画した生き方を 強いられた庶孼にとって、文人という生き方は彼らの「士」の意識と関わりをもつものと考え られる。
以上、中国で形成された文人の概念を朝鮮と近世日本を射程に入れ、概観した。ここで取 り上げた先行研究は一部に過ぎないが、それでも中国の文人概念に対する日韓の文人像の ありようの同異点を浮き彫りすることができたと考えられる。すなわち、両国文人を取り巻 く社会構造や文人社会を形成する背景などに相違があるにせよ、近世日本と朝鮮社会にも 理想の文人像の生き方にならった、しかしそれぞれの社会に見合った文人社会が形成・発展 されていった。本研究の眼差しはまさに、その過程に向けられていると言っても過言ではな い。
3. 各章の構成
先述の先行研究を摂取しつつ、本研究は両国文人を取り巻く諸議論や《蒹葭雅集図》の分 析に注意を払いながら、以下のように各章での考察を進めていく。
まず、第一章「「文人」の交差-1764 年の朝鮮通信使行と蒹葭堂会との交遊」では、主に
《蒹葭雅集図》の制作に至るまでの過程を追跡する。それにあたって、まず、1764 年の朝鮮 通信使行の有する意義や通信使の中でも日本人との筆談や詩文唱和を担当した製述官や書 記たちが、庶孼、すなわち、士大夫家に生まれた庶子の世襲した身分であったことに注目し、
朝鮮社会の身分制度における庶孼の位置づけについて、理解することにする。
22
一方で、17 世紀以後、文才をもった庶孼たちが朝鮮通信使の製述官や書記として派遣され たことに焦点を当て、朝鮮通信使と身分との関係について考える。最後に、1764 年の製述官 や書記の庶孼たちがその文才を活かし、詩社や集いを通して多様な人物たちと交遊していた ことから、彼らが有した庶孼という身分と文人志向について論じる。さらには、1764 年の大 坂で行われた交遊を含め、製述官や書記と日本人との詩文唱和の道筋を追跡する。分析方法 としては、製述官や書記による使行録の記録に、蒹葭堂会の一員で僧侶の大典が記した筆談 集『萍遇録24』を分析材料として取り入れ、記録を比較分析する。本研究では、日本ではほと んど注目されてこなかった 1764 年の製述官・南玉(ナンオク)の『日観記』を軸にすえ、書記 の成大中の『日本録』、元重擧(ウォンジュンゴ)の『乗槎録』、金仁謙(キムインキョム)の
『日東壮遊歌』などを主な資料として取り上げる25。とりわけ、江戸に向かう前と帰路の大坂 を中心にした記録を時系列で追う。厳密にいえば、同じ大坂での記録とはいえ、江戸に向か う前と帰路とでは、その内容の性格が異なっている。江戸に向かう前の大坂での記録からは、
おびただしい筆談唱和の雰囲気が窺え、通信使の役割に即した記録が多くみられる。一方、
帰路での記録は、通信使の一員・崔天宗が対馬の人、鈴木伝蔵により殺害される事件が発生 したことから、その内容が一変し、事件の収拾過程が中心になっている。従って、本研究で はここに『萍遇録』の記録を加えることで、《蒹葭雅集図》の制作過程と日韓文人の交遊ぶ りを読み取ることにする。その性格を異にしている様々な記録を同時に取り上げることによ って、通信使の側面と「庶孼文人」としての側面の両方を検討することができるはずであろ
24 本研究で引用する大典の『萍遇録』は、韓国国立中央絵書館所蔵の筆写本である。そのほ かに、健仁寺両足院所蔵本、日本国会絵書館所蔵本、東京大学資料編纂所所蔵本、静嘉堂文 庫所蔵本、内閣文庫所蔵本、駒沢大学所蔵本などがある。なお、金文京による『萍遇録』の 韓国語版も刊行されている。
25 これまで日本の研究において製述官や書記の使行録ではなく、使行団のトップに値する 正使・趙曮(ジョオム)の使行録『海槎日記』などが主に取り扱われている。しかし、趙曮の
『海槎日記』は、製述官や書記の使行録とはその内容を異にしている。端的にいえば、具体 的な唱和ぶりはもちろん、蒹葭堂会との交遊を明らかにする有効な資料とは言いがたい。
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う。これらの考察を通して、交遊における《蒹葭雅集図》の制作過程をより鮮明にすること に重点を置く。
第二章の「「文人世界」の共有-《蒹葭雅集図》の分析から」では、第一章で明らかにし た《蒹葭雅集図》制作を中心とする日韓文人の交叉の様相を踏まえながら、彼らが《蒹葭雅 集図》を通して共有したであろう文人世界について迫りたい。とりわけ、《蒹葭雅集図》を 織りなす構成要素の分析と総合的考察は本研究がはじめての取り組みである。
絵の分析にあたっては、蒹葭堂が園林の名であると同時に木村蒹葭堂自身の別号である ことに注意を払って、「別号図」という中国文人画の概念を導入し、その様式と《蒹葭雅集 図》との関係や表現上の特徴について考察を進める。さらに、《蒹葭雅集図》に描かれてい る世界が、別号図の特徴を有しながら、同時に理想の文人世界を具現したものである可能性 を提示したい。具体的には文人の理想郷とされた陶淵明の桃花源記の世界が 18 世紀中期以 後、視覚イメージとして両社会に流入したことと相まって、実景である文人空間「蒹葭堂」
が理想化された空間として描かれていたことに注目する。このような考察を通して依頼者 と制作者の間で、「理想化された文人空間での雅集、桃源に見立てられた世界」が共有され ていたことを確認する。成大中が求めたとされる「浪華春暁」と「蒹葭雅集」の世界とも釣 り合った《蒹葭雅集図》は、人物や実在する空間を忠実に写実しながらも、その図様は桃源 の世界に見立てたものであったことを明らかにしたい。さらに、朝鮮の文人・李徳懋(イド クム・1741 ~ 1793/字は懋官、号は懋官)が《蒹葭雅集図》を目にして「天下の宝」や「千 古勝絶」と賞したのは、依頼者と制作者によって具現化された世界への共感と憧憬の表れで あったと推察できるため、朝鮮側の評価についても検討を加える。《蒹葭雅集図》の評価と ともに成大中家における雅集図の家伝が有する意味、すなわち、雅集図の制作依頼が成大中 家の訓えである家学と密接な関係を持つことをも視野に入れる。そのような意味からする と、《蒹葭雅集図》は、18 世紀中期の近世日本と朝鮮の文人たちの間で共有された、東ア ジア的文人世界の普遍性を模索する一つの資料として、大きな示唆を与える。
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第三章、「近世日本と朝鮮における「文人」形成と「知」の体得」では、第一章と第二章で 考察及び分析した結果を踏まえ、両国の文人について本格的に比較検討を加える。まず、第三 章のタイトルにもあるように、社会や身分、生業などを異にする同時代の両国文人がいかなる 土台において自らを文人として形成し、文人の要となる「知」を体得していたか、その諸相に 迫る。ここで注目すべきは、その土台というのが成大中の場合は家門であり、木村蒹葭堂にお いては儒学塾という異なる背景の中で文人の「知」が体得されていた点である。とりわけ、成 大中家における家門意識と先代から受け継がれる家学の継承は、《蒹葭雅集図》の家伝の重要 な理由となる。そのため、成大中家の家門意識や家学のありようを明らかにすることは、先行 すべき作業である。具体的に言えば、成大中家に形成された家学と故郷・抱川(ポチョン)で の教授活動という家業の継承が、重要な手がかりになると考えられる。ここでは成海応の『研 経斎全集』の中の「家伝」や「行状」、成大中の『青城集』などの資料を取り上げながら分析 を行う。それを通して始祖から成大中に至るまでの成大中家の人々に注目し、家学の様相およ びその継承から文人・成大中の形成の過程を探りたい。一方で、京坂文人の場合は 18 世紀大 坂における儒学塾の状況を踏まえた上で、とりわけ、大坂にあった、徂徠門下の儒者・菅甘谷 の塾と、木村蒹葭堂の儒学の師でもある儒者・片山北海の塾に焦点を当てる。主な分析資料と して、頼春水の『在津紀事』、『師友志』や『浪速混沌詩社集』などを扱うが、その「知」の 体得過程をより詳細に検討すべく、菅甘谷の塾で設けた詩作会の掟である会業約の内容も併 せて比較分析する。その後、「知」の体得から「文人」形成の過程における特徴的様相と言え る、日韓両国文人の文人趣味についても検討を加える。文人趣味の体得は後に文人交遊におけ る重要な媒介にもなるという点からも重要な意味を有する。
最後、第四章「「文人」を体現する-結社から隠逸まで」では、第三章で考察した「知」
の体得と「文人」形成への視点をさらに深め、「文人」体現の具現化を解明することを主眼 とする。そのために各々の結社における詩社の営みと風流韻事の様相を浮かび上がらせる ことにする。《蒹葭雅集図》の制作に携わったほとんどの人物が、先述のような儒学の塾で