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隠逸という「文人」体現

ドキュメント内 著者別名 JEONG Kyungjin (ページ 195-200)

第四章 「文人」を体現する-結社から隠逸まで

第三節 文人交遊から隠逸へ

3.3 隠逸という「文人」体現

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れ、時には日が暮れることもあった。前章の文人趣味のところで紹介したが、その集いには 李漢鎭や洪元燮、南公轍、羅烈のように書画や音楽に長じた人物も加わっており、詩作だけ でなく、書画や音楽も享受していたことが確認できる。なかでも、成大中は李漢鎭と親交が 深く、李漢鎭とともに朝鮮後期に有名画家のひとりである檀園・金弘道とも交遊をした。李 漢鎭と金弘道の交遊には成海応も参加しているが、「聴庭下松籟觴詠書画。竟日淋漓」(成海 応、「送金時明序」『研経斎全集』巻十三)にあるように、ここでも觴詠と書画を楽しむこと で、一日中興に満ちている様子が浮かび上がる。

成大中の世好を中心とする交遊の様相には京坂文人の交遊と通じ合っているいくつかの 要素が存在する。そのような交遊のありようには、彼らが体得した中国文人の生き方が投影 されていると考えられる。とすれば、このような結社は朝鮮と近世日本という異なる社会を 生きた庶孼と町人が自分たちを中国文人になぞらえ、その世界を享受し、「文人」という生 き方を体現する場、現実にいながら現実を離れた文人空間を提供する場であったと言える のだろう。それは山林に隠れるのではなく、市井にいながら文人を体現する隠逸とも言い換 えることができよう。

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想を体現する場として機能していたことについて論じた。今度は、京坂文人の文人社会を際 立たせた思考として、恬淡(恬澹・恬然)を指摘しておきたい。この言葉について言及した 第三章の内容を再びまとめてみると、「恬淡」は「あっさりして、思うことも為すこともな いさま。心静かで無欲な様。虚心平気」という意味を有し(『大漢和辞典』)、『老子』三十一 章や『荘子』の天道篇と、胠篋篇を出典とする。片山北海を紹介した際にも述べたが、外見 や貴賤、人の才能の差異などにとらわれず人々に接したのは、この恬澹さが発揮されたから であろう。だとしたら、恬澹さとは片山北海のみならず、蒹葭堂会や混沌社などに集う京坂 文人たちに共通して求められた思想の一つであったと理解することもできよう。その可能 性を探るべく、混沌社の一員で『在津紀事』の筆者である頼春水が混沌社同人の一人平井紀 宗(1735~1790)を悼む詩から、京坂文人の「文人」体現と恬澹さとの関わりについて確 認することができる。

我は住す浪華城/風月 文章の飲/煙波 鷗鷺の盟/樵漁 活計を謀り/恬澹として余生を楽 しむ/地を卜すること 仙窟に隣り/園を開くこと 帝京を隔つ/曛を窮む 花外の逕/雪を 聴く 竹間の檠/野服 初志を遂げ/渓町 自耕に供す/烟を駆りて 俗駕を廻し/水を引き て 塵纓を濯ふ/肉を宰する 才空しく老い/霞を餐して 操 益す貞なり/詩は多く 朴実 に過ぎ/語は自ら 生平を写す/金石 交契を慎み(中略)182

傍線を中心にみると、浪華の盟、すなわち、風流な集いは自然をめでて詩を作り、酒を飲 む、觴詠を媒介とするものであったことがわかる。注目したいのは、次の「樵漁 活計を謀 り/恬澹として余生を楽しむ」の句である。各々の暮らしにおいては家業などの生業を営み、

182 引用は、菅野禮行、徳田武校注・訳(2002)『日本漢詩集』(『新編日本古典文学全集』86)

p493 による。

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残りの人生は「恬澹として」楽しむという意味である183。頼春水がここでいう「恬澹として」

楽しむ行為は、年老いて体現するものを言っているのではないのだろう。言い換えれば、京 坂文人にとって活計を計ることと恬澹として楽しむことは共存していて、結社は恬澹とし て楽しむことの体現の場となっていたことを意味すると考えられるし、だからこそ、多様な 生業の人々を取り込むことができたとも言えよう。「恬淡」であることが京坂文人に重んじ られていたもう一つの理由として、たとえば木村蒹葭堂のように酒造業を営み、後に町年寄 にまで就くようになる大坂の町人であっても、詩社においては名利に捕らわれなくてよい、

「心静かで無欲な様。虚心平気」な様でいられることが許されたためであると推察できる。

言い換えれば、家業など生業が重視された大坂の地において文人の生き方を体現するため には、このような老荘思想の根拠を取り入れることは必然的なことであったのだろう。

その一方で、成大中家の場合は、輔仁、すなわち、仁の助けや仁義の言をもって心を感動 させ動かすという仁義の実践が中核を成していたことを指摘した。先述のように、『論語』

の「顔淵」に由来する「君子以文会友。以友輔仁」の体現は、18世紀朝鮮の詩社における交 遊を論じる上で重要な思想であった。ここからは、交遊における友道の体現について触れて おきたい。イサンジュはその背景として、当時の朝鮮社会に勢・名・利が重視される友道の 世俗化を批判する動きに注目した。その例として中人詩人の鄭来橋(ジョンレギョ・1681~

1759)や文臣・安重観(アンジュンガン・1683~1752)などが「利のために義を裏切って はならない」と唱えたことや、友道において義が重んじられていたことを指摘した(イサン ジュ:1999、pp204)。とりわけ、安重観は「求友説」の中で「朋友の道とは、天叙の常道 によるものであり、仁を助け(輔仁)、徳を成すためのもの184」と記しており、そこから朝 鮮の文人における友道実践の重要さが見て取れる。

183 『日本漢詩集』の現代語訳をみると、「名利を外にして退官後の生活を楽しんだ」となっ ている。

184 「夫朋友之為道。固自於天叙之常。而盖相与輔仁而攻過。以成其徳者也。」(安重観「求 友説」『悔窩集』巻七)

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その一方、朝鮮中期を代表する学者・李珥(イイ・1536~1584/号は栗谷)は士(ソンビ)

の友は三つに分けられるとし、書画や詩文など文事を指す翰墨の場で互いに楽しむ仲を「文 友」、官職を意味する章綬において互いが引っ張る間柄を「宦友」、性理学を互いに講ずる友 を「道友」と定義し、三つの友の重要性について説いている。とりわけ、文友と宦友は集っ ては盃を交わし親交を深め、その欠点や悪事を匿わなければならず、その才能を褒めるのを 徳とみなした185。当時の文人社会の交遊にこのような思考が広く容認されたとしたら、成大 中の場合、家門を中心とする詩社の交遊を「道友」、世好関係の交遊を「文友」あるいは「宦 友」と理解することも可能になろう。大事なのは、李珥が打ち立てているように、上述のよ うに使い分けされたような交遊がいずれも「士」にとって重要であり、文人の交遊において も友道が要されていたという点である。ならびに、成大中だけでなく、京坂文人の場合にも

「宦友」はいないものの、その交遊は「道友」と「文友」が重なった形であることを指摘す ることができよう。

成大中の世好関係の交遊、「文友」についてさらに検討すべく、再び第一章で紹介した『幷 世才彦録』「文苑録」の成大中の人柄を想起したい。成大中は「心楽しく安らかな人柄で談 論が巧みであり、言論の勢いがきわめてするどいが、友人には誠実である」人であったよう である。ここで「心楽しく安らかな」ことを「閑適」の語に置き換えて考察してみよう。心 静かにゆったりと楽しむさまを意味する「閑適」は、『白居易伝』に由来する言葉である186

「閑適」に関する白居易の見解をもう少しみてみると、白居易が「与元九書」の中で独善を

185 「士之所謂友者有三。相歓于翰墨之場者。是文友也。相引于章緩之間者。是宦友也。相 講于性理之學者。是道友也。友名雖一。所以為友者不同。彼文友宦友者。必連床接被。握手 銜杯以為親。必匿瑕蔵垢。褒才彰能以為徳。必修契結約。指天画地以為信。無是三者。」(『栗 谷先生全書』拾遺巻三序)

186 川合康三によると、『荘子』の注に「閑暇自適」という語がみられるが、「閑適」という 語の使用は白居易以前にはないとした(川合康三:2010、p144)。

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閑適詩に、兼済を諷喩詩に結びつけていたことがわかる187。兼済と独善188については、第三 章で成大中が「兼済の学」を好んでいたことを論じた際に取り上げた。もっとも、この両思 想は『孟子』「尽心上189」を出典としているが、川合康三は兼済と独善を、「政治の中心にあ る時とはずされた時、その二つの場合のそれぞれにいかに身を処すべきか」の問題と捉え、

「状況に応じて身の処し方を変えることは儒家に伝統的な士大夫の指針である」と定義し た(川合康三:2010、pp146)。その論考に従ってみると、閑適とは天下のための役割の意識 と、その延長線上にあろう個人の楽しみの上に「心楽しく安らかに」身を施すことを意味す ると理解することができる。

とりわけ、兼済については成大中の場合、第三章で紹介したように、「府君(成大中)好 兼済之学。思欲安天下之民。達天下之善。」と、『青城雑記』での「文無裨於世教、不如無 文」からわかるように、彼が庶孼の身分でありながらも、文を以て兼済を体現しようとした ことが確認できる。だとしたら、前に触れたような、成大中の文人交遊や文人趣味は、川合 が指摘するように状況に応じて身の処し方を変える成大中の独善190であったと捉えること もできるはずであろう。生業を営みながらも、恬淡さの体現によって明利と関わりなく楽し むもうとした京坂文人と仁義と独善の体現を根幹としていた成大中の庶孼文人の交遊のあ りようから、文人の交遊とは単に余技として文人趣味を嗜む行為で収束することのできな い、文人としての生き方の体現であったということが言えるのではないだろうか。

187 「謂之諷諭詩、兼済之志也。謂之閑適詩、独善之義也。故覧僕詩、知僕之道焉。」下定 雅弘は白居易については「「兼済」に生きたこと、その実績への断固たる自負心をこめなが ら、「兼済」を後ろ楯として、「独善」を押し出した」と定義した(下定雅弘:1996、p383)。

188 白居易における「独善」の位置づけについては、下定雅弘(1996)『白氏文集をよむ』、

勉誠社の第二章「白居易の「独善」(上)、(下)」に詳しい。下定によると、「独善」を「自 己一身の快適」の意味で用いはじめたのは白居易だという。

189 「古之人得志澤加於民不得志修身見於世窮則獨善其身達則兼善天下」

190 李佑成も朝鮮両班の帰去来、すなわち、隠遁について「独善」の問題として論じた。そ こで李佑成は、朝鮮両班にとって隠遁は「到低した生活希求ではあったが、実在の理念は現 実に向けられていた」と指摘した(李佑成:1973、p233)。

ドキュメント内 著者別名 JEONG Kyungjin (ページ 195-200)