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別号図とは

ドキュメント内 著者別名 JEONG Kyungjin (ページ 79-82)

第二章 「文人世界」の共有-《蒹葭雅集図》の分析から

第一節 別号図としての《蒹葭雅集図》

1.2 別号図とは

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ここで園林・蒹葭堂と若き蒹葭堂を語る上で欠かせない人物として、大典を取り上げる。

上述の通り、大典は《蒹葭雅集図》制作においても重要な役割を担った人物であるが、園林 の造営初期から蒹葭堂を訪れて交遊するなど、若き蒹葭堂との親交が深かった。とりわけ、

注目すべき点は、1761 年、蒹葭堂 26 歳の時に、大典の初詩選集『昨非集』が刊行されたこ とである。この『昨非集』巻下には、園林・蒹葭堂が造営された初期の交遊ぶりを詠った詩 が収められている。「世粛蒹葭堂始見合麗王答其見贈」と題したこの詩は、大典が園林・蒹 葭堂で、合麗王こと、儒者で漢詩人・細合半斎とはじめて交遊し、その答礼として贈ったも のである79。細合半斎も後に 1764 年の通信使と筆談を行った人物であり、《蒹葭雅集図》巻 に詩文を寄せた一人である。『昨非集』の書名は、東晋の詩人・陶淵明(365~427)の「帰 去来辞」の「今の是にして昨の非なるを覚りぬ」に由来するという80。さらに、大典の『北 禅遺草』巻三(早稲田大学蔵)をみても、「陶淵明帰去来図」と題した記述があり、大典と 共に蒹葭堂も陶淵明への憧れを抱いていたと思われる。言うまでもなく、陶淵明の桃源の世 界は東アジアに共通する文人の理想郷であった。蒹葭堂と桃源の世界との関わりについて は、後述したい。

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painting

81、人格化した山水82など、様々な定義を有している。別号文化は言うまでもなく、

中国から流入したものであるが、中国において別号図という名称はすでに 16 世紀末には使 われていて、鑑賞家で理論家の張丑(1577~1643)によって一つの独立した画題として認 識されたという(クレイグ・クルナス:2008、p188)。このような別号図が一つのジャンル として定着し、盛んに制作されるようになったのは明代蘇州においてであったとされる。経 済発展を背景に蘇州では多くの園林が造営され、園林には所有者の別号が付けられる場合 が多く、文人交遊の場としても機能していた(横尾拓真:2015、pp283~284)。別号図の制作 から言えば、別号はそのまま画題として用いられる場合が多く、たとえば、杜瓊の《友松図》

(友松は杜瓊の義理の兄弟の別号)、唐寅の《守耕図》(守耕は陳朝用の別号)、文徴明の《存 菊図》(存菊は王聞の別号)などが挙げられる(クレイグ・クルナス:2008、p190)。この ように別号図は、単に園林をありのままに描くものではなく、園林の所有者の意図が絵の制 作段階から反映され、画家によって演出されるという特徴をもつものであった。

では、具体的に別号図の様式上の特徴をみてみたい。まず、別号図は一般的に手巻、すな わち、書画の絵巻形式で制作する場合が多いと言われるが、その様式について横尾拓真は、

次のように分析している。

巻子の冒頭、引首と呼ばれる場所には、園林の名称が篆書で大書され、つぎに中心とな る絵画が登場し、その後の跋紙には、園林を主題とした散文形式の記、園林の景物を詠 んだ漢詩が続く。それらは、園林の所有者が著名な文士に作画、撰文、書写を依頼した。

81別号絵の定義と詳細については、Anne de Coursey Clapp『Commemorative Landscape Pai

nting in China』 P.Y. and Kinmay W. Tang Center for East Asian Art of Princeton Universit y、2012、pp79~110、Anne de Coursey Clapp『The Paintings of Tang Yin』Chicago: Univer sity of Chicago Press、1991、pp47~66を参照されたい。

82ユスンヨン(2013)「인격화된 산수(人格化された山水):呉派의別号絵」『韓国美術史教 育学会誌』27、2013、pp193~230。

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また、画については、一目で見渡せる長さに園林の全景が描かれていることが多い83

(図 2)《蒹葭雅集図》(絵巻全体)

図 2 の《蒹葭雅集図》の全体は、成大中の詩84から、大典による題字(蒹葭雅集之図)や

83横尾拓真:2015、p286 の挿絵 3 も参照されたい。なお、これについてはクルナスも、別号 絵には標準化した構絵があると同様の分析をしている(クレイグ・クルナス:2008、p192)。

84 《蒹葭雅集図》の冒頭には成大中の詩がある。この詩は南玉の『日観記』にあるように 使行の2年後、臨済宗の僧・維明周奎や大典、薬樹、木村蒹葭堂が寄せた詩と周奎の都状 が対馬の雨森芳洲の息子から釜山の草梁倭館を通して、南玉らに送られたことを踏まえ、

加えたものである。「用含翠洪學士秀輔韻。詠蒹堂雅集図」と題するこの詩は成大中の

『青城集』巻一に収録されている。含翠洪學士秀輔とは、抱川の承旨・洪秀輔(ホンス ボ・1723~1800)である。成大中と洪秀輔の関係について詳細に述べることはできない が、成大中の『青城雑記』巻 4 の「醒言」の中で「洪判書秀輔家誡」について紹介してい る。詩の原文は以下の通りである。

「藤袋倒射白毫光 万里携帰別有香 清月秋懸蔵画舫 暖花春満蓄書房 鴻魚信息経三歳 霜露江湖渺一方 半幅縹緗隨処在 海山今擬製琴嚢」

とりわけ、成大中がここで押した印章に「振衣千仞岡 濯足萬里流」とあり、西晋の詩

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絵、詩文、後序、跋で構成されている。成大中の詩は後から付け加えられたものであるが、

《蒹葭雅集図》においても上記の別号図の様式上の特徴が忠実に継承されていることがわ かる。先述した『萍遇録』1764 年 4 月 20 日の筆談で、成大中が画や後序、詩文をそれぞれ の人に依頼したことを踏まえると、成大中はこのような別号図の様式を求めていたと受け 取れる。言うまでもなく、要請を受けた木村蒹葭堂や大典にもその制作意図が共有されたの であろう。別号という文人空間は文人交遊と隠逸を実現する場であるが、これは文人として の生き方をも志向していた両国文人の間で共有されていた空間に他ならない。先述した宮 崎の定義のように、別号図が別号を名付けた人物を表す「肖像画」のような役割を担ってい たのならば、別号図とは、文人の表象を盛り込んだ媒体、メディアであったとも言えよう。

ドキュメント内 著者別名 JEONG Kyungjin (ページ 79-82)