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成大中家における「知」の体得の実例

ドキュメント内 著者別名 JEONG Kyungjin (ページ 147-150)

第三章 近世日本と朝鮮における「文人」形成と「知」の体得

第三節 「知」の体得から「文人」形成へ

3.1 成大中家における「知」の体得の実例

ここからは上述した文人形成の土台とその様相を踏まえながら、家学を通した成大中家 における「知」の体得と、京坂文人の儒学塾からの「知」の体得の実例をより具体的に検討 する。各々の社会における文人形成の過程において彼らがどのように「知」を体得していた のかに焦点を当てながら、「知」の体得によって彼らがやがて学問を修める枠を越え、文人 と称するに相応しい文人趣味に進んでいく様相を明らかにしたい。

先述のように、成大中家における「文人」形成の背景、すなわち「知」の体得は家学の継

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承を中心に行われており、とりわけ、『六経』に従うものであった。先に引用した記録を再 び取り上げることにする。

府君(成大中)以超詣之才。①少承家庭之訓。師不外求。学務自得。従事六経。以正其 源。泛及百家。以達其趍。淹博湛濊。不可涯涘。是以気昌而質厚。識深而理明。

(成海応「先府君行状」『研経齋全書』巻十)

②府君少好蘓氏(蘇軾)策論。已而棄之。為文必依六経。閎深䧺博。典実平遠。(中略)

府君好兼済之学。思欲安天下之民。達天下之善。

(成海応「成氏世譜上」『研経斎全集』巻四十八、「家伝」)

前にも触れたが、『六経』とは「易経」「書経」「詩経」「春秋」「礼記」「周礼」と儒学の基 本となる六つの経書のことで、儒学を学ぶ者が習得すべき経典であった。まず、①の「先府 君行状」の内容をみると、成大中は家の訓えを継承し外から師を求めることなく自ら学務を 体得していた。その一方で、『六経』に従うことでその源を正し、諸子百家などその学びはさ らに進み、限界を知らないほどになったという。さらに②では、成大中が蘇軾(字は子瞻、

号は東坡居士・1036~1101)の策論をそれほど好まず、すでにそれを捨て、文は必ず『六経』

によって作ったことがわかる。注目したいことは、②の成大中が「兼済の学」を好み、天下 の民の安寧と天下に善が届くことを願っていたということである。成孝基や成大中など成大 中家の人々が目指していたのは「兼済」、すなわち、天下における救済の実践であった。それ は次章で検討するが、成大中が故郷・抱川で詩社を結成し後学を育てたこととも深く関わり があり、成大中の文人としての生き方を特徴づける重要な要素であったと考えられる。

次に、成大中が孫・成祐曾(1783~1864)に、家学の「知」について残した訓えがどの ようなものであったかを確認してみよう。

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青城公(成大中)甞詔不肖孫祐曾曰。翠虗(成琬)公兄弟及嘯軒。以詩鳴於世。作文自 踈溪(成孝基)公始。①踈溪(成孝基)公未甞読老荘。吾則読之。得神変抑揚之妙。至 汝伯父博洽勝我。五世文学。此其淵源也。

(成海応「研経斎府君行状」(成祐曾)『研経斎全集』)

吾家学。以詞章著聞。自王考府君(成孝基)。用経術為本。先府君(成大中)。又深於 易及論語。甞有訓曰。②読書不以聖賢為帰。如無読也。発言不以風教為主。如無発也。

不肖惟是奉承。常恐失墜。(中略)吾家教兒。異於是。③先教論語。次孟子。次大学。

次中庸。次詩伝。次礼記儀礼。次書伝。次春秋参伝。次孝経。次周易。然漢儒之註。宋 儒之記。互相参校。俾考得失之分

(成海応「書贈孫兒駿命」『研経斎全集続集』巻二十二)

いずれの記録でも、成琬や成夢良が詩を以て名高かったことや作文は、成大中の父である 成孝基の代から始まったことが特記されている。①をみると、成孝基は主に荘子と老子の書 の教えを「知」の基としており、子である成大中も老荘の書を読み、深い真理を体得してい たという。後述のように、老荘思想の受容は彼らの文人としての生き方を体現するうえでも 必要な「知」であり、このような老荘の教えは「五世文学」、すなわち、成大中家の 5 代に 渡る「知」の淵源であった。成大中家における老荘の需要をここですべて明らかにすること は困難であるが、注目したいのはこのような家学は成孝基からのものではなく、第一章で紹 介した「成氏世譜」に登場した翠虗公、すなわち、成琬の代から始まったことである。成琬 は朝鮮後期の学者・鄭斗卿(1597~1673)に従って荘子諸書を読むようになったとされる

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154 「公諱琬字伯圭。自号翠虛。昌寧人。(中略)又従東溟鄭公斗卿受史記、荘子諸書。

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次の「書贈孫兒駿命」の記録を概観すると、成大中家の学は詩と文章によって著しく、

とりわけ、成大中は易経から論語に至るまでを深く探求していた。注目すべきは、成大中 家の後代が先代の志を奉り、失墜しないように常に心掛けているという文章である。先代 の志とは、②にあるように、「読書は聖賢に帰るため、発言は王のために徳をもって人々を 教え導くため」というものである。まさに、成大中家の人々が「知」の体得を通して目指 すべき行動と心構えについて強調しているとも言えよう。故郷・抱川における教授を業と していたことについてつづった内容からも「学者欲為己乎。抑為人也。」(成海応「師說」

『研経斎全集』巻十)が確認でき、成大中家における「知」の位相が想定できる。

さらに、③では成大中家で子供にどのような順番で「知」を体得させていたかについて述 べられている。その内容をみると、いずれの経書は漢の儒者と宋の儒者による注や記録を比 べ合わせることを通して、すぐれている点とよくない点を考えさせていたことがわかる。こ のような「知」の体得法からなる成大中家における家学の継承は、単に科挙への合格者を輩 出し一家の安寧を図ろうとしたものではなかった。むしろ、故郷のために果たすべき責任を 家学の継承を通して実践しようとした。その継承とは、庶孼という身分的限界のため先代の ように政事に参加することはできないにしても、学問と教授を通して、先代からの教えを受 け継ごうとする試みであった。その精神は、依然として世家・名門家であることへの自覚に ほかならないのであろう。

ドキュメント内 著者別名 JEONG Kyungjin (ページ 147-150)