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江戸に向かう前の大坂で

ドキュメント内 著者別名 JEONG Kyungjin (ページ 54-59)

第一章 「文人」の交叉-1764 年の朝鮮通信使行と蒹葭堂会との交遊

第二節 庶孼文人と蒹葭堂会の交遊

2.2 江戸に向かう前の大坂で

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pp37~38)。また、成大中は後に自身の使行録『日本録』の中に別の章を設け、亀井南冥を

「日本に来てから出会った奇異な人材」と特記している。

私が日本に来てから奇異な人材の二人に出会えたのだが、筑州の亀井魯と西京の那 波師曽である。魯は 20 歳の時、四方を遊歴しながら学問に励むことを望み、西の長 崎に出て官庫にある書籍を読んだ。大潮を師匠としては、東の大坂に出て木弘恭と福 尚修、合離(儒者・細合斗南)と交遊したが、木弘恭は即ち、蒹葭堂の主人である。

そして、師匠の永富鳳から学んだ。

(成大中『日本録』、「日本の二人の才子について書す」)

辰時(午前 7~9 時)に出航のため、いかり綱を下した。亀井を呼び別れを告げたが、

亀井が対馬人を恐れるあまりすかさず立ち上がり何回かお辞儀をした。ただ、丘の上 で「平安」という字を書いては両手に持ち、しばらく船の方に向かい立っていた。こ の小柄な倭人との間に情が深まったら、それもさみしく思えた。

(南玉『日観記』1764 年 12 月 26 日)

このように亀井南冥から木村蒹葭堂に関する情報を得た南玉らは、いよいよ 12 月 26 日 に藍島を出発し、豊後州の南泊に向かった。別れの日に、亀井南冥は丘の上に上り、「平安」

と書いたものを掲げて南玉一行を見送った。後の大坂での別れの際にもそうであるが、当然 のことながら、筆談を用いない限り両方の間に言葉は通じない。だが、南玉の記録にもある ように、筆談と唱和を通して両方の情はすっかり深まっていた。

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年 1 月 21 から 5 日間滞在して、1 月 26 日にまた江戸へと移動した。亀井南冥から木村蒹 葭堂の名を耳にした南玉らは、1 月 22 日の大坂で木村蒹葭堂や京坂文人と出会うことにな る。注目すべきは、この時、実際に大坂で詩文応酬をしたのは到着した翌日の 22 日から 25 日の 3 日間のみという点である。この時期の使行録の記録からは、朝鮮通信使との詩文唱 和を待ち望む人々がどれほど多かったのかが窺える。短い滞在期間中、通信使と接すること を待ち望んでいた人々との唱和ぶりとは、どのようなものであったのだろうか。まず、その 雰囲気を窺わせる使行録の記録を紹介したい。亀井南冥から蒹葭堂の名を耳にした南玉ら は、1月 22 日大坂で木村蒹葭堂と出会うことになる。

この都市の人士、詩を求める者たちが十、あるいは百と群れを成した。その半分は室内 に、残りの半分は門と屏のところにいた。ここに来た皆が大坂の人ではない。しかし(大 坂は)四方から人が集まる都会なのだ。大坂の人々との唱和が終わっていないのに、四 方から来る人々でまた列ができた。源文虎(丹羽嘯堂・儒者)、南川維遷(平井雅斎・

書家)、奥田元継(奥田尚斎・儒者)、そして木弘恭、字を世粛、号を蒹葭堂とするとい う者は、浪華に堂を開き、中国の奇書を集め毎年千以上を買い集めているという。日々 四方から詩と酒を好む人々が集まることによって、豪傑な文士として名が知られ、すな わち、亀井魯(南冥)がたたえた人物である59

(南玉『日観記』、1764 年 1 月 22 日)

一日中客と付き合い大量の筆談を行った。その問答の項目が紙数十枚にいたったので、

八十人余りの人が来たことであろう。(中略)木弘恭は字が世粛で、すでに亀井魯(南

59 此城人士求詩者十百為群、半在堂室、半在門屏、来必皆大坂之人、而四方之所都会、前者 未和、後者復至、源文乕、南川維遷、奥田元継、木弘恭、字世粛、号兼葭堂、開堂於浪華之 上、蓄中国奇書、歳買千余種。日会四方詩酒之徒、以豪士名、卽亀井魯所称也。

51 冥)が(言っていた)蒹葭子である60

(元重擧『乗槎録』1764 年 1 月 22 日)

22 日、体調を崩し宿所で臥していると、おびただしい倭人の詩が山のように積み上げ られる。病を圧して和酬するが、体力が続かない。五言七言の律詩と絶句、古詩と排律 を合わせ数えてみると、130 首あまりにもなった。(中略)毎日こんな風では、とても 体が持たない。片山皓(1721-1806・儒者で医師、名は皓。字は白甫)という人物は 詩、人柄ともに優れている。

(金仁謙『日東壮遊歌』、1764 年 1 月 22 日)

使行録の一部ではあるが、このような南玉らの生々しい記録から大坂城での慌ただしい 唱和の雰囲気が窺える。1 月 22 日の記録を概観すると、製述官や書記と詩文や筆談をかわ そうとする人々が部屋中にいて、その唱和は慌ただしく行われていたことがわかる。興味深 いのは、そのように多くの人々が押し寄せてきた中、この日の南玉と元重擧の記録をみると、

木村蒹葭堂について特記している点である。南玉が記しているように「豪傑な文士として名 が知られた」人物として木村蒹葭堂を紹介している。木村蒹葭堂らは、亀井南冥と同様、南 玉一行が大坂を去るまで毎日のように大坂城を訪れ、面会した。江戸に向かう前日の 1 月 24 日、南玉は以前藍島で永富独嘯庵に伝えるよう頼まれていた亀井南冥の書簡を木村蒹葭 堂に預けた。さらに、木村蒹葭堂と儒者・福原承明(1735~1768・名は尚脩、号は映山)が 印章に長じていることを知り、作ってもらうよう頼んでいた61

60 終日接客多筆談、其問目数十紙、盖八十余人。(中略)木弘恭、字世粛、既亀井魯所□蒹 葭子者。

61 大阪歴史博物館(2003)『木村蒹葭堂:なにわ知の巨人、特別展没後 200 年記念』pp28~

29 に詳しい。

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大坂城。二十三日。食事の前から大勢の倭人が詰めかける。筆談は難渋し、和酬するの もうんざりする。病中で体もだるいが、国王より遣わされてきた意義は、この者たちを 感服させ国王の栄光を知らしめるところにある。たとえ病が重くても書かぬわけには いかぬ。(中略)大勢の者がいっぺんに出すので、積めばあごに届くほどになる。さら に応じてやれば次々と限りなく差し出してくる。(中略)我々に会いたい一心で二、三 百里も離れた所から食料持参でここまで来て、五、六か月も待っていたとのこと。万が 一書を書いてやらねば、その落胆はいかばかりであろう。勿論老少貴賤を問わず、誰に でも書き与えるのである。このため、我々の仕事は昼夜を問わず、休む暇とてない。南、

成、元の三人の同僚も同様に苦労しているという。

(金仁謙『日東壮遊歌』、1764 年 1 月 23 日)

大坂城に留まった。詩を求める人の数が昨日より増えた。しかし、部屋が狭いため全員 が入ることはできなかった。墨と紙をひらくと、目まぐるしく人々が絡みつき、まるで 蜂やありの群れが寄ってくるようで、詩を書いた紙を投げ合う姿は、まるで科挙の試験 場で試巻を投げるようであった。(中略)(倭人は)詩は必ず自分で書くことを要求し、

また、印を押すよう求めた。それで、詩の酬唱後にいちいちそれを書き写し、いちいち 印を押すから余計忙しくなった。(中略)この日も唱酬が終わると鶏が鳴いた62

(南玉『日観記』、1764 年 1 月 23 日)

翌日の 1 月 23 日の記録を見てみよう。金仁謙の記録からは、筆談を通して日本人を感服 させ、朝鮮国王の栄光を表すという書記としての責任感が窺える。また、日本人の中には通

62 留大坂城。覔詩人沓至此昨尤多、以室狭不能容。張墨塁、雑然進者、如蜂蟻之集、送投詩 紙、如科場投巻之為旁作。(中略)詩必求自書、又必求印章、酬詩之余、一一繕写、一一印 章、尤致紛氄無暇(中略)唱酬又立鶏。

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信使に接するため5、6 か月も待ち望んでいた人がいたとし、当時の通信使との面会への高 い関心も見て取れる。次の南玉の記録には、筆談時に日本人がどのようなことを求めていた のかが具体的に記されている。とりわけ、「製述官や書記の自筆と捺印を必ず求めていた」

ということから、集まった人の中には詩の中身より、面会したことへのしるしを求める人も 多くいたと考えられる。

続く 1 月 25 日と 26 日の記録からは、再び木村蒹葭堂や京坂文人についての記述が確認 できる。

詩に関しては合離(細合斗南)が優れた。木弘恭(木村蒹葭堂)が図章で名が知られて いたが、風になびくような優れた才能を持ち、浪華で最も有名な酒屋から酒を取ってお くという。また、長碕島から書籍を買い取るが、南京の本がとりわけ多いという。川辺 に家を建て、蒹葭堂という扁額を掲げているが、三万冊ほどの書籍を保有しているとい う。(中略)木世粛と合離は賈島(779~843・唐の詩人)が新羅の使臣をもてなす際、

用船を使い使臣を喜ばせ自らの名を知ってもらおうと、それぞれ三使の船にのぼった が、我々4 人に出会えず悲しい思いで踵を返したという。(中略)我らは亀井魯を通し てそのいずれの名をすでに知っていた。その亀井魯という者は、この国の辺陬の地に卑 しい身分として生まれたが、一度、浪華にやってきて優れた文士らと付き合ったことか ら、亀井魯も凡ならざる人物であった。(中略)那波師曾(1727~1789・儒者、名は師 曾、字は孝卿、通称は魯堂)は西京に住んでいた。この時、33 歳で我らの一行をもて なすため、理馬63の張世文から我が国の言葉を学んだという。張世文が先に大坂入りを していたという。(元重擧『乗槎録』1764 年 1 月 25 日)

一方、元重擧は大坂を去るまでのことを詳細に記していた。まず、1 月 25 日の記録では

63朝鮮時代、司僕寺の正 6 品の雑職。国王の馬を管理する役割。『韓国民族文化大辞典』

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