第一章 「文人」の交叉-1764 年の朝鮮通信使行と蒹葭堂会との交遊
第一節 1764 年の朝鮮通信使と庶孼
1.2 庶孼を読み解く
上述のように、使行時日本人と筆談と詩文を交わす役割に臨んでいたのは製述官や書記 であった。ここで注目したいのは、彼らが共通して庶孼の身分であったということである。
庶孼とは、朝鮮社会の身分制度が生み出した特殊な階層であった。本来、士大夫の父と妾の 母の間で生まれた庶子のことを言うが、朝鮮の庶孼は庶子本人だけでなく、その子孫までも 庶孼の身分になる世襲制にその特殊性がある30。ここでは身分という社会的位置づけからア プローチし、まず、朝鮮社会における庶孼の位置づけについて、朝鮮王朝実録の記録を中心 に検証したい。それゆえ、庶孼のおかれた社会的事情や彼らの文才が、朝鮮通信使として派 遣されるうえで大きなきっかけとなったことに注目する。それと同時に、庶孼が詩社を結成
30 先述した中人は、主に技術職中人を指す言葉で、官庁の行政職である書吏、訳官、医官、
画員なども中人層に値する(ユンジェミン:1993、p334)。
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する、あるいは、文人同士の集いに加わることで培った文人志向について考える。
三宅英利は、『近世の日本と朝鮮』の中で、「朝鮮官民の日本観」を探るため、その対象を 階級、立場、学問の三つのグループに分類した。その理由として、日本観の本質を探るため には主張者の社会的な性格をとらえることが重要であるため、と述べている。その一部を引 用したい。
第一グループは、廟堂にあたる上級官僚群である。彼らの多くは日本人に接する機会がな く、日本に関する多くの典籍・史書を読み、交渉資料を見たり、帰国した通信使より聞き 取ったりしていた。第二グループは、直接に日本に使行した通信使の一行である。彼らは 日本人に接しての単なる印象、感情から、莫大な量に達する日本の情報、それも政治、経 済、軍事、法制、社会、文化、習俗にいたるまでを集めた。その記録のなかには観察のみ のものもあれば、鋭い判断もあるが、それらはすべて日本観としてまとめられ、もっとも 豊富で鮮烈なものであった。第三グループは、民間の学者たちである。とりわけ、実学者 と称される人たちは、朝鮮の現状を批判し、実利更生を考えただけに、外交にも新しい見 識をもっており、日本に対しても冷静で客観的な認識の必要を唱えた(三宅英利:2006、
pp223~224)。
本研究で主に取り上げるのは、三宅による分類の第二グループと第三グループに属する、
通信使と実学者である。ここで想起すべきは、通信使や実学者とは、彼らの身分でもなけれ ば、彼らの生業でもないという点である。たとえば、製述官の南玉は、派遣されるまで官職 についていなかった。書記の成大中や元重擧、金仁謙は北学派の一員で、後に《蒹葭雅集図》
について評価したとされる実学者・李徳懋もいわゆる、文官ではなく、生涯「貧しさ」に苦 しんだ。彼らに共通する点は「庶孼」の身分であったということである。
まず、庶孼を考える上で、朝鮮社会における庶孼の特異性を理解するため、朝鮮社会の身
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分制度を確認する必要がある。1392 年から 1910 年までの 518 年間続いた朝鮮王朝時代は、
江戸時代と同様に封建社会の中、厳格な身分制度が設けられていた。朝鮮社会の身分制度の 根幹をなしたのは、良賤、すなわち、文武両班もしくは士大夫に値する両班と賤民の区分で ある。時代が下っていくにつれ身分の分化がみられたとされるが、16 世紀以後には両班と 中人、商民、賤民の区別がなされていた31。
では、庶孼とは朝鮮社会の身分制度の中で、どのような位置づけを有していたのだろうか。
簡略にいえば、庶孼は両班の父親と賤民の妾の間で生まれた子孫のことを指す。その場合、
母親ではなく父親に従って、庶孼の身分は両班に属するものの、嫡子と厳格に区別される制 度的差別を強いられていた。制度的差別とは、1485 年に頒布された朝鮮の国法『経国大典』
の成立当時から庶孼への差別が明文化され、それが朝鮮時代の末期まで続いたことをいう。
その主な内容は、「庶孼禁錮」と称されるもので、科挙試験を受ける機会の剥奪や、要職へ の任命禁止などが含まれている。「庶孼禁錮」は、朝鮮の 3 代国王太宗の時代である 1415 年 から議論され、間もなく導入されたという。その内容を記録から確認したい。
各品の庶孽子孫は顕官(地位の高い官職)や職事に任命しないことによって、嫡妻と妾 を区分する32。(『朝鮮王朝実録』太宗 14 年(1415)6 月 25 日)
庶孽の子孫には、文科(文官登用のための試験)や生員・進士試(成均館入学の資格が 与えられる試験)に赴くことを許してはいけない33。(『経国大典』礼典、諸科条)
さらに、1554 年の『経国大典注解』の中で、庶孽子孫の解釈が「子子孫孫」とされたこ
31 韓国学中央研究院の『韓国民族文化大百科』より。特記のない朝鮮社会の制度などについ ては、『韓国民族文化大百科』を参照した。
32 各品庶孽子孫、不任顕官職事、以別嫡妾之分。
33 庶孽子孫、勿許赴文科生員進士試。
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とによって、庶孼の射程は、両班の父親と良民か賤民の母親(妾)の間で生まれた一個人に 留まらず、その子孫の代々までに及ぶようになった。もっとも科挙は、身分と関係なく能力 が重視されるべきであろう。にもかかわらず、科挙におけるこのような差別はなぜ存在した か。キムキョンヨンは、科挙を通して検証されるべき能力の根源が徳にあることや、徳が適 用される人間関係の土台が、夫婦倫理に基づいているという認識が科挙における嫡庶の差 別の背景にあったと指摘している(キムキョンヨン:1999、p55)。
当然のことながら、このような庶孼身分の世襲化が進むにつれ様々な問題が起った。深刻 なのは、庶孼の数が増加していったという点である。キムキョンスクは、限られた官職の数 をめぐり、その既得権を握っている士大夫が、新興士大夫の増加を抑えようとしたためであ るとその理由を分析している(キムキョンスク:2006、p141)。しかし、庶孼の増加は、結果 的に差別撤廃を求める人々の増加につながり、時代が下っていくにつれ「庶孼禁錮」の撤廃 を求める動きも拡大化した。「庶孼禁錮」が施され 100 年以上が経った明宗 10 年(1555)
頃、「庶孼禁錮」を緩和し、ようやく庶孼に科挙の機会を与えることを認める、すなわち、
「庶孼許通」に関する議論がはじまる。ただし、その内容をみてみると、「母と祖母の代に 身分の問題がない場合に限って」と制限が置かれ、実質的「庶孼許通」には至らなかった。
翌年の 1556 年の記録からも、その内容を確認することができる。
庶孽許通事目の内容に、良妾の子が孫代に至り、科挙に応じることを許可する場合は、
その母及び祖母辺の良籍(良民の戸籍)を調べて明らかにする。(中略)並びに祖母の 出生の身分まで考慮し、すべてに痕咎がないと分かった後に科挙に応じることを許す ならば、それに値する人は十人に一人もいないため、これは庶孽を許通するのが本意で はない34。(『朝鮮王朝実録』明宗 11 年(1556)2 月 4 日)
34 庶孽許通事目內、良妾子至孫許通應赴試者、其母及其祖母邊良籍幷考覈、(中略)若幷考 祖母所出之地、皆無痕咎然後許赴、則應赴者十無一人、似非許通庶孽本意。
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そこからさらに約 100 年が経過し、「庶孽許通」が改めて発令されるようになった。
庶孽を許通した後に、科挙に赴くようにするという法をはっきり表明する35。
(『顕宗改修実録』、顕宗 1 年(1660)1 月 11 日)
「庶孼許通」を求める訴えは、21 代王・英祖(在位 1724∼1776)や 22 代王・正祖(在位 1776~1800)の時代に入ってからもっとも激しくなったとされる(アンデフェ:1995、p265)。
そのやり方としては、主に、国王に庶孼差別への不当を訴える上疏を呈する形で行われた。
『朝鮮王朝実録』によると、たとえば、英祖の即位年である 1724 年 12 月 17 日には「窮人 抱冤(貧民が怨恨を抱く)」という四文字の紙を抱えた 260 人が上疏を呈したという。だが、
依然として庶孼許通は実現されず、24 代王・憲宗の在位 14 年である 1848 年 12 月 8 日の 記録によると、「京外の儒生、李鎭宅などの八千人が上疏し、庶流の疏通を請う36。」など、
19 世紀半ばにまで庶流の疏通を求める動きは絶えなかったことが窺える。ここで英祖 8 年
(1732)に文臣、趙鎭世(ゾジンセ・1689~?)が上疏した内容をみてみる。
人に官を授けるのにその能力の有無にかかわらず、ただ門閥だけを重視するのは、実に 我が国の弊害である。士大夫でも必ずしも皆が賢いわけではなく、庶孽が必ずしも皆劣 るわけではないのに、部官の職を与えるのを恨むのであれば、庶孽になった者は、どう して行き詰まらないでいられよう。才に従って登用し、(彼らを)隅で嘆かせないこと を請う37。(『朝鮮王朝実録』、英祖 8 年(1732)2 月 12 日)
35 申明庶孽許通後赴科之法。
36京外儒生李鎭宅等八千人、上疏請庶流疏通
37 官人而不問能否、惟視門閥、實我国之痼弊。士夫不必皆賢、庶孽不必皆不肖、部官亦靳与、
則為庶孽者、寧不窮且隘乎、請隨才收録、俾無向隅之歎。