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成大中家の雅集図家伝をめぐって

ドキュメント内 著者別名 JEONG Kyungjin (ページ 115-119)

第二章 「文人世界」の共有-《蒹葭雅集図》の分析から

第三節 《蒹葭雅集図》の評価と成大中家の家伝

3.3 成大中家の雅集図家伝をめぐって

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えられるが、先述のように仇英の桃花源図が盛んに用いられるようになったのがちょうど この時期であることを踏まえると、図様に表れている理想郷の表現への評価とも考えられ るだろう。注目すべきは、最後の2句で、50 年前に朝鮮に渡されたこの絵は、世間の人々 に伝わって広まったのに、今は錦嚢に保管されていると綴っていることだ。この記録からも、

先に検討したように雅集図の借覧が盛んに行われていたことが見て取れる。

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で各々の評を残している。このような書画の蒐集や収蔵行為は、18 世紀、朝鮮の庶孼家にお ける文人意識の表れではなかったか、と筆者は考える。

成大中の父・成孝基が見本にした明の『唐詩画譜』は 17 世紀の明代に刊行された画譜であ り、その朝鮮伝来は、1623~1624 年頃と推測されている(ホヨンファン:1991、p135)。朝鮮 の文人画家・尹斗緖(1668~1715・字は孝彦、号は恭齋)が若い頃『唐詩画譜』と『顧氏画 譜』に倣って唐絵を描いていたことや、1721 年の中国燕行の際に文臣・李正臣(1660~1717)

が記した燕行録に『唐詩画譜』を朝鮮に持ち帰ったという記述がある。(イテホ:1992、p145)。

『唐詩画譜』は日本においても 1672 年に和刻本が刊行され、1710 年に再刻されるなど画壇 に影響を及ぼし、池大雅も『唐詩画譜』を模範としたとされている(板倉聖哲:2005)。朝鮮 における画譜類の伝来は、燕行に参加した人々が琉璃廠などの骨董品や古本屋町に立ち寄り、

書籍や書画を買ってくるというものが主たる入手経路であった(ハンジョンヒ:1995、pp.73

~75)。成孝基がどのようにして『唐詩画譜』を手に入れたのかは明らかになっていないが、

成孝基が活動していた時期に、文人画家あるいは燕行に参加していた人々から『唐詩画譜』

を入手していた可能性は十分にあると考えられる。

昔先王考嘗抄東詩之合画料者、欲借当時善書画者、以追華人所纂唐詩画譜者未果、舍 弟鵬之乃能成之、然有詩矣而有筆為難、有筆矣而有画為尤難、夫絶芸常難並聚、是以 所得不過数十本、余以先王考之所欲成者、故為之書巻首、王考之所欲成者故為之書巻 首(成海応、「東詩画譜序」、『研経斎全集』巻十三)

内容をみてみると、先王(成孝基)は当時、書画を善くする人の力を借りて中国の『唐詩 画譜』を真似たものを作ろうとしたが叶わず、成海応の弟(成海運)がそれをやがて成し遂 げたと言っている。だが、数十本の絵や詩を得るに過ぎなかったという。

上記の内容が示しているように、成孝基が朝鮮に見合った画譜作りを目指していたことは、

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彼が詩・書・画に対する高い知識や関心を持っていたことを意味するが、書画を善くする人 の力を借りて作ろうとしたことを踏まえると、書画を媒介にした交友関係があったことが想 起されよう。そのような書画に対する関心は成孝基の代に止まらず、その意に従って画譜作 りに挑んだ成海応の弟に至るまで続いていった。だが、結局、数十本しか得ることができな かったという記述は、後述するように成大中家が収蔵していた書画のほとんどが購入したも のではなく、贈答によるものであったことの裏付けでもあろう。

ここからは、成海応の「書画雑識」を概観することを通して成大中家の収蔵活動や収蔵の 経路などを探りたい。先述のように成海応は著書『研経斎全集続集』の「書画雑識」の中で 朝鮮のみならず、中国や日本の書画を含め、のべ110点に題跋を残している。パクジョンエの 分類によると、書の題跋が85点、絵画の題跋が25点である。また、国別には、朝鮮の作品が 書画合わせて70点、中国が36点、日本が4点である。日本の4点のうち3点が書で、絵画は1点、

《蒹葭雅集図》である。このように成大中家の収蔵品のうち、書に比べ絵画が少ない理由に ついては、書は成大中以前の先代から受け継いだものが多く占めている反面、絵画の場合は そ の 大 半 が 18 世 紀 に 活 躍 し た 画 家 に よ る た め で あ る と い う ( パ ク ジ ョ ン エ :2012 、 pp150~152)。その事実は、成大中や成海応の代に入り絵画収蔵が本格化したことを物語って いる。その背景には、18世紀後半、顕著となった朝鮮の書画収蔵ブームの影響もあったと考 えられる。この時期、漢陽に居住する士大夫である京華士族が中心となり、雅会の画や山水 記念画など、注文画制作が盛んに行われ、書画鑑賞が依然として加熱していたことはすでに 先行研究で論じられてきた129。パクジョンエは成大中家の絵画収集の経路について、庶孼家 の成大中家の家産が豊かではなかったため購入による収蔵ではなく、ほとんど金銭のやり取 りを用いない贈答品であったと指摘している(パクジョンエ:2012、pp155~156)。そのよう な意味からも、成大中家の収蔵品のうち、唯一日本の絵画である《蒹葭雅集図》の収蔵は、

129 これについては、ジョギュヒの論考に詳しい。引用・参考文献を参照されたい。

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成大中個人の文人趣味の枠を超え、先祖からの営為として書画収蔵に対する強い意識が作用 していたことを示唆する。それを考えると、成大中をはじめる朝鮮の庶孼文人たちと蒹葭堂 会の人々と交遊を通して《蒹葭雅集図》が贈られ、成大中家に収蔵されたことの有する意義 は大きいと言える。

以上、《蒹葭雅集図》の制作が成大中個人の文人趣味によるものではなく、成大中家に受 け継がれた書画収蔵という家業とも関わりを持っていた可能性についても探ってきた。言 い換えれば、成大中家の書画収蔵は、朝鮮後期の知識人家における文人意識の表れの一端 として捉えることができよう。それを可能にした背景については、次章で成大中の家門と 関連付けて考察することにする。だが、これまでの考察からもわかるように、成大中の父・

成孝基により『唐詩画譜』が家伝し朝鮮の画譜制作を試みていたこと、加えて、後に述べ るように 76 年間に渡って続いた成大中家の詩社・清成詩社の結成を通して、士大夫家に 劣らない科挙の合格者を輩出するなど、成大中家の人材育成と文人趣味享受に大きな影響 を与えたと考えられる。このような書画や文人趣味の享受のために必要な知識を身につけ られる環境の中で育てられた成大中と成海応が絵画の蒐集に力を入れたのは、自然な流れ であったのかもしれない。特に強調したいのは、成大中家の収蔵品のほとんどが、金銭を 介しない、贈答によるものである点である。従って、成大中にとって朝鮮通信使への参加 は日本の文人と触れ合う好機であったに違いないのだろう。まさに日韓両国文人の交叉を 通して贈答された《蒹葭雅集図》の朝鮮伝来は、成大中や成大中家にとって重要な位置を 示す出来事であったと考えられる。

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ドキュメント内 著者別名 JEONG Kyungjin (ページ 115-119)