第六章 攀西経済区――エネルギー、チタンバナジウム新材料、
第2部 震災復興と西部大開発
2.成都市の震災復興の成果
(1)都江堰市の復興状況
2008 年 5 月 12 日の忌々しい汶川大地震では成都市の都江堰市と彭州市も大きな災害を受けました。
都江堰市は成都の西に 50 キロ離れていますが、大地震の震源地である汶川県からは直線距離で 40 キ ロしか離れていません。幸いに世界遺産である 2,000 年も前に作られた都江堰には大きな影響はなく、
正常に機能していますが、観光地の中心の二王廟はほとんど倒壊し、学校や病院や住宅なども壊滅的 な打撃を受けました。地震発生の日の夜、成都市の 300 台のタクシーが都江堰市に行き、負傷者を無 料で成都市内の病院へ運びました。この愛に満ちた人道的行動は中央テレビを通じて世界中に報道さ れ、人々を感動させました。
上海市が対口支援に乗り出してから一年半経った今、二王廟や青城山の道教の寺社は急ピッチで再 建が進められ、街の建物も補強、新装、再建が進んでいます。同時に、学校、病院などの公共施設が 建設、使用が開始され、住宅も新しく立ち並んでいます。
上海市は都江堰市のインフラ建設や公共施設の再建を「輸血機能」に喩えて、全力を挙げています が、それよりもさらに重視しているのは「造血機能」の養成です。つまり、上海市の支援で都市が立 派になっても、経済、人民生活、雇用情勢が良くならないと、都市の再建が完成したとは言えません。
上海市は上海の建材、食品、アウトソーシングや環境保護関連の 56 社の企業を動員して都江堰市に 40 億元投資させることにより、政府には税収を、再建には材料を、住民には就職先を提供しています。
市場メカニズムでの支援は間違いなくウィンウィンの結果をもたらしています。
上海市の商業業者は都江堰市のヤック肉、お茶、漬物、ベーコン、キウイを、テナント料や宣伝費 を免除して上海のスーパーで販売できる「緑の通路」を作りました。そして都江堰のキウイを振興す るイベントを大々的に催しました。1,000 人の労働者を安定的に就職させ、20,000 戸の農家を増収さ せることに成功しました。
上海市の浦東発展銀行が都江堰市に支店を作り、上海進出の企業と現地の企業のために行き届いた 金融サービスを提供しています。
農村部の再建は成都市の都市と農村一体化の試験モデル都市の政策と経験が十二分に活用され、地 震前よりも立派に建設され、地元の人の話では住宅や街の発展は 20 年も繰り上げられていると言いま す。
成都市は都江堰市の都市化と観光事業の発展を支援するために、成都市内から都江堰市へのモノレ ールを計画し、建設しました。
総合的な再建措置のおかげで、都江堰市の観光客総数が地震前に回復でき、上海市からの観光客だ けで 10 万人を超え、観光総合収入を 3 億元も実現しました。再建事業が胡主席の呼びかけに応じて 2 年で完成される見通しになっています。
(2)彭州市の復興状況
もう一つの震災地区の彭州市は成都の北 50 キロ程離れていますが、龍門山を挟んで震源地の汶川 県と隣り合わせています。龍門山沿いの白水河や銀廠溝などは成都市民の避暑地であり、観光名所で もありますが、山が崩れて谷間に住んでいる観光業農家の一部が埋没するなど、地震の影響の最もひ どい地区となりました。
道路が塞がれ、救助隊である解放軍が落石の危険を冒して住民を救助するために谷に沿って進む前 に、長官が隊員に酒の入った茶碗を渡し、隊員たちがそれを受けて一気に飲み干し、茶碗を地面に打 ちつけて悲壮に山に入っていった風景は、成都市民にとって忘れがたいシーンになっています。
福建省の援助で作られた石室白馬中学校は彭州市で最も設備の整った学校になりました。敷地面積 が 171 ムーで、建築面積が 3.8 万平米を誇り、コンピュータルーム、実験室、図書館、現代的教育機 能室が設けられ、さらにバスケットボールコート、バトミントンコート、テニスコート、運動場など が整備されています。外観は典型的な四川省の民家の特徴を現し、庭園式スタイルに建設されました が、福建省の要素と融合されて、福建省人民の厚情を滲ませています。
福建省の懸命な援助などもあり、彭州市の社会経済が全面的な回復を果たしつつあります。
3.徳陽市の震災復興
徳陽市の什邡市、綿竹市は龍門山を隔てて、汶川大地震の震源地の汶川県と隣り合っていますから、
地震で大きな損害を受けました。現地に行ってみると、平野部から突如として、1,000 メートルほど の山々が聳え立ち、断裂帯の典型的な地形になっています。今回の地震は地球の回転力と月の引力で インドプレートがチベット高原の下に潜り込み、チベット高原がアジア大陸とぶつかり、そこで蓄積 された巨大なエネルギーが龍門山断裂帯で爆発した構造的な地震でした。風光明媚な景色が広がり、
かつてここは「三線建設」が大々的に推進された場所でしたが、今回の地震でこのような壊滅的な打 撃を受けるとは思いもよらないことでした。
災害がさらにひどかった漢旺鎮は、9 万人もいた東方電気の企業城下町でしたが、山が崩れ、地面 が 4 メートルが隆起し、半分の建物がひび割れ、倒れ掛かって、残りの半分が瓦礫と化してしまった のです。14:28 で針を止めた時計塔は地震当時の報道で象徴的な存在となりましたが、今は、静かな 佇まいで地震の爪痕の深さを物語っています。銀行の看板、レストランの面影、病院の赤十字、税務 署のビルが往時の繁栄を伝えてくれます。国務院の許可を得て、ここは地震遺跡博物館として永久保 存されることになりました。
徳陽市の行政区域では 4135 社の工業企業が震災で直接損失は 1,000 億元を超え、亡くなった人は 10,000 人を数えることになりました。380 万の徳陽市市民が切望したことは、徳陽が1日も早く復興 することでした。温家宝総理が徳陽の東方電気を視察して、「人さえ居て、私たちの両手さえあれば、
必ずや、東方電気を再建できます」と宣言し、職員たちを励ましました。
江蘇省が綿竹市を、北京市が什邡市を、そ れぞれ支援を始めました。一年経った今、東 方電気の新しい工場が徳陽市街区域のすぐ近 くの平野部に何ヶ所も立ち並び、新しい学校、
病院、道路、老人ホーム、水道給水所が新築 されて、農家と新しい住宅も次々と建てられ ていきました。一部の住民や政府機関がまだ 仮設住宅に入っていますが、人々の顔には未 来への希望に満ちています。
同時に災害地区の経済発展のために、江蘇 省政府が江蘇省の 100 の企業を動員して、100 億元投資して、江蘇省工業団地を作り、地元 の人の就職に資しています。北京市は道路イ ンフラを中心に、地元の経済発展の土台作り に余力を遺しません。
4.綿陽市の震災復興
綿陽はチベット高原の東の斜面に位置し、
チベット高原もアジア大陸も大きなプレート
であることから、綿陽市内には 3 本の大きな断裂帯が走っていると言われています。歴史上幾度か大 きな地震が発生しており、1933 年に発生した茂汶地震も、1976 年に発生した松潘地震も、それに今回 の汶川大地震も 3 本の断裂構造帯に起こっています。綿陽市北川県は震源地の汶川と山一つしか隔て ていませんから、山崩れで、県の中心部が土砂に覆われ、4 分の 3 の建物が崩壊し、4 分の 1 の建物も 倒れ掛かっています。犠牲者と行方不明者が 2 万人を超えています。新中国になってから、災難が最 も大きく、波及範囲が最も広く、復興が一番難しいとされる地震になりました。廃墟と化した旧北川 県の県城は国務院の許可を得て、地震遺跡博物館を建設することになりました。
図 1-1-1 漢旺鎮にある地震博物館
図 1-1-2 漢旺鎮にある地震時計塔
北川県の救援活動は最も壮烈で、中央テレビによって大々的に報道され、日本の救援チームも駆け つけました。
地震後にできた最大の 3 億立方メートルもある唐家山堰き止め湖も綿陽市市街区域を脅かし、マス コミの報道で全国人民の神経を尖らせました。国際的援助と解放軍戦士の懸命な努力により、その危 険を未然に防ぐことに成功しました。
国務院が早速、経済的実力で中国トップレベルにある山東省を北川県応援の相手に決めました。山 東省では早速 7.2 億元の資金を投下して、農村部の永久住宅の補助金に当てました。これまでには 3