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第3章 日野川流域の鉄穴流しにともなう水害と対応

第3節 鉄穴流しの稼業状況と濁水紛争 1.19 世紀初頭までの鉄穴流しと濁水紛争

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母花崗岩は、磁鉄鉱分に乏しいという性質をもつ(今村・長谷ほか 1984 89)ことからす ると、「場所柄悪敷」とは地質条件が鉄穴流しに適していないことを示すと考えられる。香々 美川流域では、①地形的には鉄穴跡地を認めることができない、②鉄穴流しの稼業に関す る史・資料は未発見である、③鉄穴流しに関連するとみられる地名が存在しない、④たた ら製鉄の稼業にあたって砂鉄を流域外から入手している、⑤花崗岩類の性質が鉄穴流しに は必ずしも適さない、の 5 点からこの地域では本格的な鉄穴流しは行われなかったと考え る。

羽出川流域は、山麓緩斜面と花崗閃緑岩が広く分布するのに反して、鉄穴跡地の分布に 乏しい。ここに広く分布する黒雲母花崗岩は、上述の越畑と近似した地質であることから、

鉄穴流しには適さなかったと考えられる。また、羽出西谷川の南側は花崗閃緑岩の分布域 ではあるものの、鉄穴流しに適した緩斜面に乏しい。羽出川流域のうち、鉄穴流しに適し た地形・地質条件を備えるのは、羽出川南岸の羽出の泉源六ツ合や、北岸にあたる上齋原 地区の新古屋などわずかの地域に限られる。

つぎに、近世村ごとにみると、鉄穴跡地の分布域と、史・資料によって鉄穴流しの稼業 が確認された 12 の鉄穴稼ぎ村の所在とは、よく一致している。鉄穴跡地を近世村ごとにみ ると、跡地面積のもっとも広い村は上齋原村(361.7ha、全体の 63.3%)であり、奥津村

(83.8ha、全体の 14.7%)がそれに次いでいる。そして村面積に占める跡地面積の割合が もっとも高いのは、奥津村(6.0%)である。

以上のように、本流域の鉄穴跡地は、砂鉄含有量が幾分多い花崗閃緑岩の分布する南部 と比較して、砂鉄含有量のやや少ない黒雲母花崗岩の広がる北部により多く分布している といえる。鉄穴跡地が上齋原村を中心とする当流域の北部に集中した要因としては、高位 小起伏面や標高 800m 前後の小起伏面が広がり、鉄穴流し用水の確保が容易であったこと、

緩やかな凹地状斜面からなる谷の発達が良好で、花崗岩類の風化層も厚く存在しやすかっ たことなどがあげられる。しかし、鉄穴跡地が北部の、地質的にやや条件の悪い黒雲母花 崗岩地域に集中した点については、以上のような自然条件のみでなく、鉄穴流しに稼業制 限をもたらす濁水紛争のような人文条件の面からの検討も必要である。

第3節 鉄穴流しの稼業状況と濁水紛争

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運を妨げているとして、鉄穴流しの停止を求めた。これが当流域における濁水紛争の初見 である(表4-2)。この訴えに対し、当流域の全域を治めていた津山藩は「百姓共粉鉄を 取り候儀御停止」させた上で、百姓の生計を保つべく、駄賃稼ぎや山内への年貢納入を可 能にする「山師」による鉄生産の継続を認めた。しかし、下流の岡山藩からの抗議を受け たため、津山藩は正徳 5 年(1715)に上齋原村人形仙山と羽出村千間原山に対して閉山を 命じている(宗森 2005 305)。

享保 2 年(1717)には、鉄穴流しの稼業停止が確認されている。しかし、同 13 年、2 年 前に幕府領となった養野・奥津・下齋原・上齋原村から流れ出る「鉄汁」によって水田や 人馬に悪影響がでているとして、岡山藩が幕府に鉄穴流しの停止を求めた。同 16 年には、

津山城下の船頭が濁水による航行障害を郡代所に訴えるなど、津山藩領内でも問題化して いる。

寛保 2 年(1742)には、津山藩が吉井川上流域の幕府領における鉄生産の状況を調査し ている。その結果、たたら 4 ヵ所(養野・奥津・下齋原・上齋原村各 1)と、鉄穴場 7 ヵ 所(長藤村 2、下齋原村1、上齋原村 4)の稼業を確認し、川添いの山の谷を切り流す「小 鉄取」が確認しきれないほど行われていることも把握した。

延享 2~宝暦 6 年(1745~1756)には、当流域の幕府領は鳥取藩預地となった。延享 4 年、岡山藩は、吉井川上流域に 4~5 ヵ所の「鉄山」があり、「山へ水を仕掛け切り崩し流 し申し候」のため、「鉄汁」が備前国に流れ稲作と飲用水に悪影響が出ているとして、幕府 に提訴した。そして、津山藩も幕府に対して同様の訴えを行ったとみられる。その結果、

老中松浦河内守は鳥取藩預地の役人に対して、奥津・上齋原・下齋原村が請け負う小割鍛 冶稼ぎは同年 12 月、上齋原・羽出・奥津川西村が請け負う小割鍛冶稼ぎは寛延元年(1748)

12 月を限りとして差し止めるよう通告した。

つぎに濁水紛争の状況が判明するのは、明和 9 年(1772)のことである。当時、当流域 南東部の 19 ヵ村は津山藩領、上齋原村と鏡野地区の 17 ヵ村などは下総国関宿藩領となっ ており、その他の村々は幕府領であった。そのような中、幕府領生野代官所支配の山城・

中谷・土生は ぶ・黒木・西屋村は、同支配の下齋原・長藤村および関宿藩領の上齋原村に対し て、「鍬鍛冶」名目の「鉄砂稼」による濁水の流出停止を求めた。その結果、勝間田(岡山 県勝央町)と生野(兵庫県朝来市)の代官所は、下齋原・長藤・上齋原村に名目違いの稼 ぎをせず、下流に濁水を流さないという証文を出させ、内済とした。ところが、翌年 8 月 には「かんな口掘り崩し濁水相流し候」として、再度の訴訟におよんでいる。

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表4-2 19 世紀初頭までの吉井川上流域における鉄穴流しと濁水紛争

年 鉄穴流しの稼業と濁水紛争の状況 注

宝永 4 年 (1707)

養野・奥津川西・長藤村が「粉鉄取」の差し止めを求めた。津山藩は、山師による羽 出と上齋原村の「鉄山稼」の継続を、濁水を流さない条件の下で認めた。

① 正徳 5 年

(1715)

前年には計 15 貫 986 匁 5 分の運上銀を津山藩に上納していた久世屋平兵衛の人形仙山 と塩津屋善兵衛の千間原山の稼業を、津山藩が停止させた。

② 享保 2 年

(1717)

鉄穴流しの差し止め中に濁水が発生したため、津山藩が鉄穴稼ぎ村を調査した。その 結果、上齋原村のふらそかしにあった「大鉄穴」が、高さ百間あまりにわたって自然 に崩れ落ちたことがわかり、鉄穴流しの稼業は確認されなかった。

享保 13 年 (1728)

幕府領となった養野・奥津・下齋原・上齋原村において 20 年あるいは 5~6 年前から 稼業されてきた「鉄山稼」にともなう「鉄汁」が水田や人馬に害を与えている。そこ で岡山藩は鉄穴流しの禁止を幕府に求めた。

享保 16 年 (1731)

津山藩領の久米郡中島村と津山城下とを結ぶ渡し船の船頭が、「鉄山の濁水にて川底 見え申さず、人馬共に越かね難儀仕り候」などと、郡代所に嘆願した。

⑤ 寛保 2 年

(1742)

津山藩が上流の幕府領における鉄生産の状況を調査した結果、たたら 4 ヵ所と、鉄穴 場 7 ヵ所(長藤村 2、下齋原村1、上齋原村 4)が確認された。さらに、川添いの山の 谷を切り流す「小鉄取」が確認しきれないほど行われていることも判明した。

延享 4 年 (1747)

「鉄山四五ヶ所御座候て、流し山と申す事を挊ぎ仕り、山へ水を仕掛け切り崩し流し 申し候」、「国中諸民呑水に相用い候故、作州鉄山挊ぎ御座候ては鉄汁国元へ流れ来 たり、田作生い立たず申し、其の上人民牛馬迄損傷に及び難儀仕り候」として、岡山 藩は鳥取藩預所の「鉄山」稼ぎを公儀に提訴した。津山藩も同様の訴えを行った。そ の結果、奥津・下齋原・上齋原村請負の「小割鍛冶稼」は本年限り、上齋原・羽出・

奥津川西村請負分は翌年(寛延元)限りで差し止められることになった。この裁許の 内容は、津山藩江戸留守居大場作衛門にも伝達されている。

明和 9 年 (1772)

幕府領生野代官所支配の山城・中谷・土生・黒木・西屋村が、同支配の下齋原・長藤 村と、下総国久世氏所領の上齋原村に対して、鍬鍛冶名目の「鉄砂稼」による濁水の 流出停止を、勝間田(勝央町)と生野(兵庫県朝来市)の代官所に求め、内済した。

安永 2 年 (1773)

8 月に長藤・下齋原・上齋原村から濁水が流出したため、山城村ほか 4 ヵ村が、前年の 内済の厳守を勝間田と生野の代官所に訴えた。

⑨ 安永 9 年

(1780)

上齋原・長藤・奥津村の鉄穴流しに対して、黒木村より下流の 10 ヵ村が、「御法度筋 の稼ぎ方仕り弥増しに濁水相流し候へば、川下水請村々御田地へ夏中出水の度々赤真 土・泥水流れ込み、年々御田地痩せ劣へ」、舟運にも支障が出ているので、「鍬鍛冶 屋の義は御運上差し上げ御免の上」、停止するよう生野代官所へ訴え出た。

寛政 3 年 (1791)

幕府領久世代官所支配の女原・西屋・黒木村が、同じ幕府領の奥津・奥津川西・長藤 村における鉄穴流しの中止を久世代官所に求めた。代官の早川八郎左衛門は、奥津川 西と長藤村に対しては濁水流出の停止、運上銀を納める鍬鍛冶名義の稼ぎではない奥 津村の鉄穴流しに対してはその禁止を命じた。

寛政 7 年 (1795)

女原・黒木村と佐倉藩領の久田下原・原・薪森原・下原村による西吉田代官所(津山 市)に対する佐倉藩領上齋原村の鉄穴流し停止要求のため、佐倉藩藩主堀田相模守は 上齋原村における鍬地鍛冶稼ぎの継続を認めなかった。幕府領の奥津・奥津川西・長 藤村は勘定奉行曲渕甲斐守によって、それぞれ鉄穴流しを差し止められた。

寛政 8 年 (1796)

上齋原村が、前年に継続が許可されなかった鍬地鍛冶稼ぎの再開を西吉田代官所に願 い出た。その理由として、運上銀を納め、10 月から 2 月まで鉄穴流しを稼業し、何十 年間も行ってきた鍬地鍛冶稼ぎが差し止められた結果、冬の諸稼ぎを欠く上齋原村は、

年貢米の上納にも困窮し、「一村退転歴然」となっていることなどがあげられている。

上齋原村の鍬鍛冶稼ぎはほどなく再開されたとみられる。

享和 2 年 (1802)

上齋原村は、幕府領久世代官所支配となった以降も鍬地鍛冶稼ぎは認められてきてい るとした上で、8 月から 2 月までの「鉄砂稼ぎ名目」の稼ぎを認められた。

⑬ 文化元年

(1804)

幕府領久世代官所支配の上齋原・奥津・長藤・養野・箱村のうちの 7 ヵ所において鉄 穴流しが稼業されたため、下流に位置する同代官所支配の 8 ヵ村と津山藩領の 20 ヵ村 がその中止を求める訴訟を起こした。

文化 2 年 (1805)

奥津・長藤・養野・箱の 4 ヵ村は鉄穴流しを差し止めることで合意した。しかし、上 齋原村のみは、冥加銀の上納を理由にこれに同意しなかった。

⑮ 文化 3 年

(1806)

上齋原村における新規の「鉄砂稼ぎ名目」は停止し、訴訟方村々へは濁水を決して流 さないということで合意し、江戸評定所に内済議定証文が提出された。

⑬ 文化 6 年

(1809)

文化 3 年の内済議定証文に反して鉄砂稼ぎを行ったとして、下流に位置する幕府領の 8 ヵ村と津山藩領の 28 ヵ村が上齋原村を訴えた。上齋原村は、鍬地鍛冶稼ぎを行ってい るなどと主張し、両者は「破談」した。

①宝永 4 年「差上申一札之事」。②『津山藩日記』。③享保 2 年「覚」。④延享 4 年「作州鉄山之一件」。⑤享保 16 年

「御断申上ル御事」。⑥寛保 2 年「鉄山聞合セ書上帳」。⑦延享 4 年「美作国鉄小割鍛冶稼年季覚」。⑧明和 9 年「欠」。

⑨安永 2 年「乍恐以書付奉願上候事」。⑩安永 9 年「乍恐以書付奉願上申候」。⑪寛政 3 年「乍恐以書付奉願上候」。

⑫寛政 3 年「指上申一札之事」。⑬文化 3 年「差上申済口証文之事」。⑭寛政 8 年「鍬地鍛冶稼方御願」。⑮文化 2 年

「差出申一札之事」。⑯文化 6 年「上齋原村鉄砂稼故障出入一件」。

[①・③・⑤~⑦:山中一揆顕彰会編(1956 1-13)所収。②・④:宗森(1982)所収。⑧~⑯:奥津町史編纂委員会編

(2007 246-279)所収。]

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