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第3章 日野川流域の鉄穴流しにともなう水害と対応

第4節 小結

本章で明らかになったことを要約すると以下のとおりである。

吉井川上流域の鉄穴跡地は、全体(571.5ha)の 93.6%(534.7ha)が吉井川の本流域に 分布し、香々美川流域では認められない。鉄穴跡地の集中する地域の地形は、主として高 位小起伏面および標高 800m 前後の小起伏面と、中位小起伏面に属する山麓緩斜面である。

当流域の北部に位置する上齋原村には全体の 63.3%(361.7ha)、奥津村には 14.7%

(83.8ha)の鉄穴跡地が分布している。鉄穴跡地の分布と地質の関係をみると、当流域の 鉄穴跡地は花崗閃緑岩よりも砂鉄含有量の幾分少ない黒雲母花崗岩地域により多く分布し ている。

一方、当流域の濁水紛争は、支配の変遷にともなって複雑に推移した。吉井川上・中流 域の全域が津山藩領であった 18 世紀初頭の段階では、当流域の鉄穴流しは岡山藩から稼業

14 たとえば「明治 28 年鉄業調査表」、(東城町史編纂委員会編 1991 867-871 所収)

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制限を求められた。そして、享保 11 年に鉄穴稼ぎ村が津山藩の減知の対象になると、この 紛争は、上流の鉄穴稼ぎ村を支配するようになった幕府や藩と、水請村を支配した下流の 岡山藩、さらには中流の津山藩も加わっての対立となり、江戸訴訟におよぶこともあった。

18 世紀後半には、幕府領内における鉄穴稼ぎ村と水請村との対立が顕著となり、さらに津 山藩領の水請村も訴訟方に加わった。その結果、19 世紀初頭の鉄穴流しは長期にわたる稼 業停止を余儀なくされた。当流域の鉄穴流しは、中国山地の他の産鉄地域と比べ、きわめ てきびしい稼業制限を受けてきたといえよう。

ところが、文化 9 年に鉄穴稼ぎ村と水請村の双方が津山藩の支配地となったのち、鉄穴 流しは津山藩の後押しもあって文政 3 年に再開された。これ以降の鉄生産は鉄穴場または 山内の数を限定し、鉄穴稼ぎ村が水請村に濁水の補償を毎年支払う「協定」の下での稼業 となった。文政 3 年以降、鉄穴稼ぎ村と水請村との間には、協調体制が確立されていたと いえよう。

明治に入ると新たな鉱業政策の確立が試みられる中、幕末の「協定」は消滅した。そし て、岡山県議会は、明治 25 年には鉄穴流しを採算のとれない「拙業」、翌年には住民にと って「副業」にすぎないとして、政府に鉄穴流しの禁止を強い姿勢で求めたのであった。

18 世紀初頭以降きびしい稼業制限を受け続けた中、当流域の鉄穴流しは村方救済のため に脊梁山地近くの村々を中心に稼業されてきた。鉄穴場の数がきびしく制限された際、多 量の砂鉄が 1 ヵ所で効率よく採取できる地点が、鉄穴場として選択されたと考えられる。

当流域の最上流部に位置し、高位小起伏面および標高 800m 前後に発達する凹地状の地形面 は、上齋原村杉小屋の事例で確認したように、1 ヵ所の鉄穴場でより多くの砂鉄が採取で きる地形条件にあるといえる。実際、嘉永 2~万延元年(1849~1860)にかけては、凹地 状の高位小起伏面にあたる上齋原村の杉小屋と梅ノ木において、鉄穴流しが稼業されてい る。

さらに、鉄穴流しにともなう廃土は、濁水の被害を軽減するために、人為的に河川沿い の低地へ堆積されることもあった。その際、高位小起伏面および標高 800m 前後に発達する 凹地状の地形面は、廃土を堆積させるのに適した地形条件を備えていた。脊梁山地付近の 最上流部における鉄穴流しは、流出した土砂の河道への堆積や、濁水の希釈を促進するた めにも適していたとみられるのである。

これらの点から、脊梁山地付近の村々において鉄穴流しを行うことは、濁水紛争を未然 に防ぎたい鉄穴稼ぎ村と、そこを支配した幕府や藩の双方にとって、好都合であったと考

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えられる。このことは、砂鉄含有量の幾分少ない黒雲母花崗岩地域に鉄穴跡地がより多く 分布した要因のひとつとみなせる。以上のように、人文条件と地形・地質などの自然条件 とをあわせることによって、鉄穴跡地の分布が説明できるのである。

なお、本章を締めくくるにあたり、たたら製鉄による中国山地の開発について解明しよ うとする本研究との関連から、当流域における鉄穴跡地の耕地化について付記しておく。

当流域の鉄穴稼ぎ村 12 ヵ村の全耕地(水田と畑)のうち、鉄穴跡地に造成された耕地の割 合は、わずか 3.2%(16.3ha)にすぎない(前掲表4-1)。当流域において鉄穴跡地の耕 地化が進展しなかったのは、まず、鉄穴流しが高位小起伏や標高 800m 前後の小起伏面など の耕作限界を超えた高地においてさかんに行われたためである。そして、当流域では鉄穴 跡地を耕地化するまでもなく、第8章で検討する上齋原地区遠藤のように、明治期におい ても耕地開発可能な谷底低地が十分に存在していたのである。

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第Ⅲ部 たたら製鉄による山地開発の諸相

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