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第6章 美作国真島郡鉄 かね 山 やま 村における鉄穴流しと土地開発

第2節 鉄穴流しによる地形改変 1.鉄穴流しの復原

鉄山村ではたたら製鉄と鉄穴流しが近世を通して活発に稼業されたものの、明治 25 年に おける間床山の閉山を最後に廃絶した。幕末から明治期に旭川流域でたたら製鉄を経営し た山田又三郎は、「借区開坑願」(美甘村誌編纂委員会編 1990 372)を明治 14 年に提出 している。その際の添付資料とみられる「峪鉄砂流口」の絵図面(図6-2)には、地形 改変の対象となる 2 ヵ所の「堀流口」が示されている。そして、掘り崩された土砂は、水 路を通じて、まず「本場」へ運ばれたことがわかる。本場では「山池」、「中池」、「乙 池」の順に比重選鉱作業がくり返され、「洗場」にて砂鉄が採取された。これらの洗い樋 は、板敷で水路状をなし、下流側には砂をせき止める装置が設けられていたとみられる。

このような比重選鉱設備をもつ鉄穴流しが「洗い樋型鉄穴流し」であり、第2章の第1節 で述べたように、筆者はその成立期を 18 世紀と考えている。そして、それ以前の鉄穴流し を「原初型鉄穴流し」と呼び、人為的に掘削した風化土を河川に流し込み、洗い樋のよう な設備を用いることなく砂鉄を選鉱していたとみなしている。

この峪鉄砂流し口の位置比定にあたり、図6-3に示した鉄穴流しに関連する小字名の うち、峪の半田川沿いにある本場の谷を絵図中の本場に想定すると、周辺の水路や山地な

2 横山宗宰氏(峪在住、1898 年生まれ)のご教示による。同氏は、美甘村誌編纂委員会編(1974・1990)の編纂委員長 を務められるなど、当地の有力な郷土史家である。本章で示す聞き取り調査の内容は、同氏をおもな話者として 1991 年に実施したものである。

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図6-2 明治前期の鉄穴流し(鉄山村峪鉄砂流口)

[明治 14 年頃「岡山縣下美作國第三十壱區第三十二區真島郡之内借區開坑銕砂流ハ口幷ニ鑪鞴鍛冶屋圖面」を一部簡略 化して作成]

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図6-3 半田・峪・篠原地区における耕宅地の小字名

①森ノ下 ②屋敷脇 ③小田 ④蔵屋敷 ⑤保頭田 ⑥屋敷 ⑦清三郎分 ⑧節分田

⑨柳原小三林ノ下 ⑩鉄穴 ⑪鉄穴ホレ ⑫土橋 ⑬井手ノ下 ⑭川原田 小字の境界は、圃場整備前の 1980 年の状況を示す。

[地籍図および土地課税台帳(旧美甘村役場所蔵)などより作成]

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どの配置が完全に一致する。さらに、「二番」においてくり返された比重選鉱作業の設備 は、本場より 200m ほど下流の小田付近にあったとされる3

一方、半田川の支流である篠原川にも比重選鉱設備があったにちがいないものの、その 所在地を示す絵図類や伝承はのこされていない。しかし、半田には小鉄場こ が ね ばという小字名が 存在する。美作地方では砂鉄のことを小鉄と呼ぶことと、地形条件および水路の配置から みて、ここで比重選鉱作業が行われていたことはまちがいない。小鉄場に隣接するトヒ屋 シキ(樋屋敷)は、比重選鉱地点に設置される作業小屋の存在を示唆しているとみられる4

それでは、これらの鉄穴流しは、どのような鉄穴地形を出現させたのであろうか。

2.鉄穴跡地の地形的特色

篠原の西方を撮影した空中写真を立体視すると(図6-4)、採掘時において最終の切 羽となった急崖(K)や、ホネとよばれる鋭い稜角をもつ小尾根(H)、掘り残された鉄穴 残丘(Z)など、鉄穴跡地特有の微地形が確認できる。一次改変地は、これらの微地形の存 在によって微起伏に富むため、周辺の自然地形(N)とは明瞭に識別することができる。耕 地として二次的に改変された部分も、切羽跡や鉄穴残丘といった跡地特有の微地形の存在 や、支谷の水系とは不調和に整地された耕地の存在などを手がかりに、鉄穴流しによる採 掘範囲として認定することができる。

峪鉄砂流し口の絵図面(前掲図6-2)に描かれた 2 ヵ所の堀流口は、借区開坑願いに よると、鉄山村の民有地である「字峪」5に砂鉄採取用の 1,000 坪と 600 坪の坑区として記 されている。左側の堀流口は山や水路の配置からみて、木拾谷付近、右側のものは日名ノ 鉄穴に位置している。いずれも、空中写真の判読によって検出された鉄穴跡地のうちの最 西端付近に位置するものである。

以上の空中写真判読と、現地での地形観察によって検出した鉄穴跡地を地形図に記入し

(図6-5)、方眼法によってその面積を算出した(表6-1)。鉄穴跡地は、花崗閃緑 岩の分布する標高 540~700m の山麓緩斜面と分離丘陵上に分布している。当地区の総面積

(303.6ha)に占める鉄穴跡地の割合は 17.4%(52.8ha)であり、宅地(3.5ha)の 50.4%

(1.8ha)、水田(40.8ha)の 25.3%(10.3ha)、畑(6.5ha)の 78.0%(5.1ha)が鉄穴 跡地に造成されたものであることが判明した。当地区の花崗閃緑岩山地は、東部の一部を

3 本郷(1973)は、半田に「三番」があったと指摘する。

4 鉄穴流しの諸設備が小字名となっている事例は、峪地区の北側の福谷地区においても確認できる(德安 1997)。

5 峪鉄砂流し口の「字峪」について、峪地区には同名の小字名は存在しない。したがって、この字峪は、地形改変地でも 比重選鉱地点でもない、この地区の全体を示す地名または小集落名とみなせる。

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図6-4 峪・篠原地区の鉄穴跡地(立体視可能)

K:切羽 H:ホネ Z:鉄穴残丘 N:自然斜面 ☆:字本場の谷

[写真:林野庁 1972 年 5 月撮影・約 2 万分の 1 空中写真(拡大)、ユモト 山-630(第 2 カツヤマ) C3-9・10]

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図6-5 半田・峪・篠原地区における鉄穴跡地の分布

斜線部=鉄穴跡地 点線=流域界 H:字本場の谷 O:字小田 K:字小鉄場

[空中写真から判読した跡地を転記して作成。原図:1:25,000 地形図「美作新庄」「湯原湖」国土地理院 1987 年発行]

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表6-1 半田・峪・篠原地区の鉄穴跡地と耕地化面積

土地利用 地区

全体A 鉄穴 跡地B

100B/A (%) 宅地

水田 畑 山林・原野ほか

3.5 40.8 6.5 252.8

1.8 10.3 5.1 35.6

50.4 25.3 78.0 14.1 合計 303.6 52.8 17.4 単位:ha

[国土地理院 1987 年発行の 1:25,000 地形図を 1:10,000 に拡大し、鉄穴 跡地を記入したのち、方眼法によって面積を計測した。]

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のぞく大部分が鉄穴流しの対象になったといってよい。

これらの鉄穴跡地においては、どのような土地開発がなされたのであろうか。

第3節 鉄穴流しによる耕地開発と集落の構成

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