• 検索結果がありません。

第3章 日野川流域の鉄穴流しにともなう水害と対応

第6節 小結

本章では、日野川流域の地形環境の特性を踏まえた上で、鉄穴流しの稼業が関わって発 生した水害について検討すべく、藩政期については①土木工事の実施と費用負担、②鉄穴 流しの稼業制限、③日野郡の負担による会見郡の川浚えの 3 点から、明治期については新 政府および流域住民の対応に関して明らかにしてきた。その結果を通時的にまとめると、

つぎのようになる。

日野川は 18 世紀初頭に、法勝寺川との合流地点を上流側に移動し、現在とほぼ同じ流路

33 この陳情書と辨妄書とは別に、明治 27 年 4 月「日野郡採取業ノ義ニ付開伸書」近藤家文書、がある。これによると、

境港の沖合いに航路の障害となる「砂礁」が出現していることについて、会見郡は砂礁の形成要因を鉄穴流しとみて いることがわかる。これに対し日野郡は、砂礁が 140~150 年前の記録にも記されていることから、近年の鉄穴流しと は無関係であると主張している。

85

をとるようになった。そのため、勾配の緩やかな法勝寺川は、日野川扇状地による閉塞の 度合いを高め、排水不良を起こしやすくなった。法勝寺川西岸の兼久土手では破堤・溢流 が頻発し、浸水域は尚徳低地のみならず、宗像の狭隘部を経て米子町にもしばしばおよん だ。これらの水害を防ぐべく、18 世紀初頭以降、鳥取藩の主導による堤川除普請が行われ、

連続堤防による日野川の統御が目論まれた。しかし、18 世紀中頃にも米子平野では水害が くり返し発生している。ただし、これらの水害について、鉄穴流しの直接的な関与は認め られていなかったとみられる。

米子町が被災した寛政 7 年の水害後、藩は領民に対して御普請への出役強化を図った。

19 世紀初頭の会見郡と日野郡の住民には、日野川・法勝寺川の川浚えと堤防整備への出役 が義務づけられていた。しかし、その効果は薄かったとみえ、文化 9 年にも兼久土手は破 堤している。この水害では宗像土手における水防活動によって米子町は被災しなかったも のの、尚徳低地の水田耕作は堪水による壊滅的な被害を受けている。

文政 6 年、鉄穴流しの廃土による河床上昇を御普請のみでは抑えられないとみた鳥取藩 は、鉄穴場への砂留設置を求めた鉄穴流し制限令を日野郡に通達した。日野郡は、下流の 川浚えの費用を負担することで、鉄穴流しの稼業をこれまで通り続けようとした。つまり、

水害を受けてきた下流域住民のみならず、藩も鉄穴流しを稼業する側も、鉄穴流しが水害 の一因となっていることを明白に肯定し、善後策を模索したのである。

しかし、鉄山経営者および日野郡が負担を申し出た土木工事費用の拠出は、その負担の あり方をめぐる紛争の処理に手間どり、すぐには実現しなかった。そのような中、文政 12 年に近世後期最大の水害が発生した。藩は、決壊した兼久土手の修築を天保 4 年に完了さ せている。そして、この大水害の後、日野郡が金銭ないし労働力を提供した会見郡での川 浚え、すなわち砂揚出精人夫の制度が実施されるようになった。

その後も、藩は土木工事を行う一方、規模の小さな工事を村方に課しつつ土手の整備に 努めた。嘉永元年以降、米子町は藩に対して日野川西岸の同慶寺土手の整備を再三求めた。

また、会見郡が日野郡の鉄穴流しを制限するよう求めると、藩はその制限を見送りつつ、

同 6 年 5 月、日野郡に対して砂揚出精人夫賃の差し出しを徹底するよう命じた。そして、

同年の 7 月、藩は米子町に費用の一部負担を求めつつ、同慶寺土手の整備に 3 年がかりで とりくむ決定をした。他方、米子町は藩に対して川替御普請、すなわち日野川扇状地の東 部を北流させる放水路の開削についてもくり返し求めている。

86

河床上昇がさらに進行した文久元年に至ると、藩は日野郡に対して鉄穴場数を 5 割減と するよう命じた。以後、鉄穴流しはきびしい稼業制限を受け続けることになる。その一方 で、日野郡の負担による会見郡の川浚えも継続した。水害を防ぐために、藩を中心として 日野郡と会見郡が協調体制を実現していたとみなせよう(図3-5A)。

ところが、明治初期には、たたら製鉄の一時的な衰微にともなって日野川の河床が低下 した上に、藩政期にみられた治水・鉱業政策が刷新されることになった。その過程におい て、砂揚出精人夫の制度と、鉄穴場の数量制限は消滅した。日野郡と会見郡の間にみられ た協調体制は、明治元年(1868)以降に消滅したのである(図3-5B)。

同 18 年の水害に続いて、翌年には明治期最大の水害が発生した。鳥取県は堤防修築の費 用を国庫補助に求め、復旧工事に務めた。一方、政府は、同 21 年、岡山・広島・島根・鳥 取の 4 県に砂鉄採取営業取締規則を施行するなどして廃土の流出量を抑えようとした。ま た、米子町は水害予防組合を結成し、治水工事の費用の一部を負担した。

しかし、幕末から明治後期にかけて日野川河口付近の海岸線は、年平均約 11m のペース で前進した。河道の急速な延長という地形環境の変化は、明治の前期と中期における鉄穴 流しの活発化と相まって、河床の埋積を一層促進させたとみられる。河床上昇による日野 川における水害発生の懸念は、砂鉱採取法の審議が行われていた同 26 年 2 月の帝国議会に おいてもとりあげられるほどであった。

そのような中、同 26 年 10 月に大水害が生じた。その直後、米子町の住民は米子町治水 会を成立させ、米子平野の村々とともに内務省と農商務省に対して鉄穴流し停止を請願し た。これに対して、鉄山経営者の近藤家は、鉄穴流しと水害の関連を強く否定しつつ反論 した。下流域の町村による政府への請願は、実を結ばなかった。治水政策の整備と水害復 旧に終始した明治中期において、上・中流の鉄山業側と下流の会見郡・米子町の関係は、

鉄穴流しを水害発生の要因とみるか否かといった初歩的な段階にあったといえる(図3-

5C)。

本稿で明らかになったことは以上の通りであるが、最後に、日野川流域全体にわたる鉄 穴流し制限令が文政 6 年まで出されなかった要因として考えられる事項をいくつか指摘し ておきたい。まず第 1 に、鉄穴流しの行われた中国地方の他の河川と比べて、日野川は急 勾配であるうえに、扇頂から河口までの流路が短かった。そのため、鉄穴流しの廃土は河 床に堆積しにくかったと考えられる。第 2 に、大山から供給される火山岩起源の土砂量が 多かったため、河床上昇の要因を鉄穴流しだけに求めにくかった点もあげられる。そして

87

図3-5 鉄穴流しと水害をめぐる日野郡と会見郡・米子町との関係変化

①年貢・運上・税金 ②鉄穴流しの稼業制限の請願 ③堤防整備などの土木費用・工事 ④鉄穴流しの 稼業制限 ⑤川浚えの費用と人夫 ⑥治水・鉱業・鉱害対策の整備、水害復旧用の国庫特別補助費

88

第 3 に、水害の一因として鉄穴流しが認められるようになっても、宝暦 4 年(1754)8 月 の『在方御定』34に「古来より鉄山第一の御郡」とあるように、日野郡の鉄穴流しは容易 に制限できるものではなかったと推察される。

34 鳥取県編(1971b 303-304 所収)

89

第4章 吉井川上流域における鉄穴流しと濁水紛争

前章でみた日野川流域は、鉄穴流しを稼業した上流域と水害を受けた下流域とが、とも に江戸期を通じて鳥取藩領であった。そのため、濁水紛争の調停役として藩が重要な役割 を果たした。しかし、本章でとりあげる吉井川上流域では、鉄穴稼ぎ村のある上流域にお いて支配替えがくり返された。その上、中流域には津山藩が、下流には岡山藩がそれぞれ 位置していた。そのため、濁水紛争の処理には複数の藩や江戸幕府が関与したのである。

たたら製鉄のもたらす経済的恩恵を受ける地域と、濁水鉱害を受ける地域の支配関係が異 なれば、本章において確認できるように、鉄穴流しはよりきびしい稼業制限を受けること になる。

関連したドキュメント