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第2章 鉄穴流しの方法と土地開発

第2節 近世前期における鉄穴跡地の地形的特色 1.北上川水系砂鉄川上流域の内野地区

仙台藩では、近世前期から烔どうと呼ばれる作業場において砂鉄製錬が行われていた。し かし、烔屋の最盛期を 18 世紀初頭に置く見解があるように(野崎 1977)、近世後期の仙 台藩における鉄生産量は藩内の需要をまかなう程度に縮小したとされている(金属博物館 編 1981 21)。堅穴掘りによる中国山地の鉄穴跡地の中には、近世後期から明治前期にか けて盛行した横方向への大規模地形改変にともなって、再度、風化土の採掘を受けたとこ ろもあったにちがいない。ここで仙台藩領の事例をとりあげたのは、仙台藩領が竪穴掘り による鉄穴跡地を検出しやすい条件にあるとみられるからである。なお、東北地方の鉄穴 流しによる地形改変を扱った研究は、これまでにまったくなされてこなかった3

北上山地南部、北上川水系の砂鉄川源流部にあたる岩手県一関市大東町大原の内野地区 には、標高 300~550m 付近の山麓緩斜面に花崗岩類が分布している。この内野地区は、18 世紀前半から明治時代中頃まで、仙台藩領内最大の砂鉄産地であった。内野地区のうち、萱かや 付近の空中写真(図2-2)を立体視すると、花崗岩山地特有の起伏にとぼしい自然斜面

(A地点)に対して、横方向への掘り崩しにともなって生じたV字型の溝(B地点)が多数 認められる。これらの溝にはさまれた小尾根状の尖った岩塊がホネであり、大小さまざま な鉄穴残丘(C地点)も多数みられる。これらの微地形は、中国山地においても確認され てきた典型的な鉄穴跡地の地形である。

一方、山麓緩斜面の延長部にあたり、独立した分離丘陵状をなす

D

地点には、裾の直径 と比高がそれぞれ数m程度の小丘の密集地としてきわめて特徴的な地形がみられる(図2

-3)。砂鉄川上流域において広く確認できるこの小丘群は、自然の地形としては説明が

つかず、D地点のように水路の配置が不可能な地点にも認められる。そして、この小丘群

3 砂鉄川流域の鉄穴流しによる地形改変については、德安(2012c)が口頭発表による報告を行っている。

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図2-2 北上山地南部・砂鉄川上流域・内野地区北部の鉄穴跡地

立体視可 A:自然斜面 B:ホネ C:鉄穴残丘 D:小鉄穴残丘群

[写真:国土地理院 1977 年撮影・約 1 万分の 1 空中写真、C TO-77-8 C15A-20・21]

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図2-3 岩手県一関市大東町内野地区萱の小鉄穴残丘群

水路の設置が困難な分離丘陵上に、裾の直径と比高がそれぞれ数mほどの小丘が密集している。住 民はこのような地形を「ホッパ山」と呼び、砂鉄採取跡地とみている。撮影地点は図2-2中に記し たDの記号付近である。 [2013 年 4 月 德安撮影]

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は、花崗岩類の分布域にかぎって認められ、現地では典型的な砂鉄採取跡地として「ホッ パ山」と呼ばれている。以上の点から、この小丘群は、竪穴を掘り、水路を介さずに風化 土を比重選鉱地点に搬送する作業によって形成された微地形と認定したい。D地点にみら れるような小鉄穴残丘群は、風化土の採掘にともなうすり鉢状、あるいは溝状の小凹地に 囲まれることによって、近世前期までに形成された人工地形と考えられる。なお、これら の小丘群は、採掘後における風化の進行によって、現在では全体として丸味を帯びている とみられる。

2.吉井川水系 泉 山

いずみがせん

北西麓の大神宮原地区

岡山県苫田郡鏡野町の泉山(1209m)北西麓に位置する大神宮原には、標高 500~700m 付近に小起伏面が発達している。この地形面には花崗岩類の中でもとりわけ砂鉄採取に適 するとされる花崗閃緑岩が分布し、多くの鉄穴跡地がみられる。永く放牧地として利用さ れてきたものの、ゴルフ場が造成された現在、鉄穴跡地の一部は消滅している。

岡山県東部を南流する吉井川上流域の鉄穴流しは、第4章で論じるように、津山盆地に 位置する下流の水請村や岡山藩との関係からきびしい稼業制限を受けてきた。当流域の鉄 穴流しは文化 3~文政 3 年(1806~1820)にかけては全面的に禁止され、再開された後も 稼業できた鉄穴場は 2 ヵ所程度に限定されている。そのような中、大神宮原周辺における 鉄穴流しの稼業を示す史料はみつかっていない。

ところが、この付近は当流域における鉄穴跡地の集中地区のひとつとなっている。ここ に分布する鉄穴跡地の多くは狭長で、溝状をなし、1 つあたりの面積はきわめてせまい(図

2-4)。これは、水利の悪い尾根の頂部にある風化土が採掘の対象となっていることに

よる。そして、前項でみた砂鉄川流域において確認できた小鉄穴残丘とよく似た地形も認 められる。この大神宮原とその周辺では、これまでに 9~16 世紀に操業された製鉄遺跡が 20 ヵ所以上確認されている(奥津町教育委員会編 2003 255)。それらの遺跡のうち、大神 宮原 No.8・9 遺跡は、小規模の溝状をなす洗い樋をともなわない鉄穴流し状遺構とされて いる。これらの遺跡の稼業年代は判然としないものの、近世以前とみなされている。当地 区にみられる鉄穴跡地の多くは、横方向へ掘り崩す大規模な地形改変が普及する以前に、

尾根上の風化土を掘削したことによって形成されたものとみるのが妥当であろう4

3.旭川水系鉄山

かねやま

川流域の鉄山地区

4 同様の地形の存在は、つぎの文献においても指摘されている。久米開発事業に伴う文化財発掘調査委員会編(1980 77-92)。貞方(1996 11-29)。

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図2-4 泉山北西麓・大神宮原地区の鉄穴跡地

実線内:鉄穴跡地 D8:大神宮原 No.8 遺跡 D9:大神宮原 No.9 遺跡

[空中写真から判読した鉄穴跡地を、2.5 万分の 1 地形図「奥津」、国土地 理院 1975 年発行に記入して作成。図4-7の原図。]

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第6章で検討する岡山県真庭市鉄山の半田・峪さこ・篠原地区は、旭川水系鉄山川の支流で ある半田川の流域に一致する。笹ヶ山(975m)南麓から流出する半田川流域には、花崗閃 緑岩が分布している。峪地区の北部にある字内鉄穴の水田は、低い支尾根上に位置し、馬 蹄形の畦畔をもっている(

図2-5)。この鉄穴跡地は、採掘した土砂を付近の流水に流

し込み、特別な設備を用いることなく流水の中から砂鉄を選鉱した様子を彷彿させるもの であり、竪穴掘りによって出現した地形改変地として理解できる。なぜなら、この水田は、

文政 13 年の『名寄帳』によって、本田、すなわち近世初頭までに開発された水田であるこ とが判明する5。つまり、この土地で砂鉄が採取された時期は、遅くとも近世初頭までさか のぼることになるのである。当地区では同様の「〇鉄穴」という小字名をもつ本田畑が、

17 世紀中に開発されたとみられる新田畑をふくみつつ多数確認できる。内鉄穴の水田は、

既存の耕地に隣接した土地が砂鉄採取のために堅穴掘りされたのち、切り添え的に耕地化 されたと考えられる。

以上の 3 ヵ所の事例によって、近世前期またはそれ以前の鉄穴流しによる地形改変地の 地形的特色について、その一端を示した。上から下への方向をとる小規模な地形改変方法 では、すり鉢状や溝状をなす浅い小凹地が掘られることになった。そして、土砂の運搬に は主として人力が用いられ、地形改変地と比重選鉱地点は近接する傾向にあった。採掘の 対象となる地形は、自然の小河川に近接した山麓緩斜面や、風化土の豊富な分離丘陵と支 尾根の頂部などであったとみられる。

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