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第3章 日野川流域の鉄穴流しにともなう水害と対応

第3節 治水対策の進展と鉄穴流しの稼業制限 1.17~18 世紀中頃の治水対策

日野川下流域における堤防建設の開始時期を知ることはできないが、明治 29 年(1896)

「兼久堤防修築碑」18には、兼久土手が低かった 290 年あまり前に、国守の中村侯はさら に宗像土手を築造して不慮の事態に備えたとある。この記述にしたがえば、17 世紀初頭に は兼久土手が存在し、宗像の狭隘部には宗像土手がすでに築堤されていたことになる。

堤防建設を直接示すもっとも古い記録は、管見のかぎり、寛文 2 年(1662)1 月の『在 方御定』(鳥取県編 1971a 356-357)にみえる「百姓廿日役」として行われた「会見郡日 野川筋大堤」である。一方、宗像土手は、享保 5 年(1720)にはその実在が明らかになる。

同年に米子城預かりの荒尾氏の要請をうけた藩は、宗像・勝田両土手における役人および 足軽の任務であった水防活動に対して、役人および足軽の指示をうけた「在方人夫」があ たるよう命じている。両土手は、当時、米子町の水害対策上重要な役割を担っていたので ある。

ところで、江戸期の治水対策は、18 世紀初頭以降、溢流堤や霞堤の建設にみられるよう に被害の軽減を目的とする段階から、連続堤防を用いた河川の統御をめざすものへと展開

18 尚徳村史刊行委員会編(1997)『尚徳村史』同会 349-350 に全文が掲載されている。

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したとされる(西田 1984)。そして、享保 5 年(1720)に幕府は、一国一円知行ないし 20 万石以上の所領高を有する藩の堤川除普請は藩の負担であることを再確認している

(『諸事控』1720 年 6 月)。したがって、連続堤防による日野川の統御は、因幡・伯耆両 国 32 万石を支配する鳥取藩池田氏の施策および負担によって主としてなされた。

しかし、流路を転じて間もない日野川の治水は困難であったにちがいない。享保 6 年 6 月には、御普請場の1里半以内から出役した人夫の日雇賃は上銀 5 分となっており、1里 半以遠からの出役人夫には距離に応じた手当ての支給が決められている(『諸事控』1721 年 6 月)。また、享保 6 年 7 月の水害にともなう「急御普請」に際して、会見・日野両郡 には、御普請場の 2 里以内から出役する人夫には米 1 升ずつ、2 里以遠からの人夫には米 1 升 5 合ずつ支給する「覚」が出されている(『諸事控』1721 年 8 月)。

2 度にわたって大水害をうけた享保 13 年、鳥取藩は、堤防建設と東岸の蚊屋・上細見・

豊田・庄村の堰修繕人夫として 12,200 人あまりを動員している。また、18 世紀中頃に日 野川西岸の四日市村では、日野郡の鉄山経営者・緒方仁平が、新田開発のために長さ約 200m 以上におよぶ堤防を築いている(日野郡自治協会編 1926b 1920)。これらの堤防整備が 進展中の 18 世紀中頃において、日野川下流の川幅はおおよそ 320 間(約 580m)とされて いる19。この川幅は現在とほぼ同じなので、日野川の流路はこの頃までに現状と同様の位 置に築かれた堤防によって固定されていたとみられよう。

以上のように、18 世紀は日野川統御への本格的なとりくみが始まった時期にあたるとい える。この段階において、流域住民たちは、鉄穴流しと水害の関係をどのように理解して いたのであろうか。

元文 3 年(1738)に、「上より鉄穴多く流し候に付、川筋埋まり見分の上御普請仰せ付 けられ候へ共、年々川悪敷く罷り成り、村々より鉄穴留め御願ひ」が出された件について、

藩は「評議の上今年より三年の内奥村々鉄穴停止に申し附け候。三年過ぎ川筋の模様によ って評議の上差し免し申すべき事」(『諸事控』1738 年 8 月)と命じている。河床上昇を 招いた鉄穴流しの差し止めを求めた日野郡折渡・宝谷・大宮の 3 ヵ村は、日野川支流の印 賀川中流に位置している。したがって、藩から鉄穴流しを 3 年間禁止されたのは、印賀川 の上流にあたる阿毘縁村などということになる。そして、同様の争論はその後も確認され、

寛延 3 年(1750)には阿毘縁 4 ヵ村の鉄穴流しが差し止められている。つまり、18 世紀前

19 松岡布政(1742)『伯耆民談記・巻之三』 佐伯元吉編(1914)『因伯叢書・第二冊』因伯叢書発行所 (名著出版 1972 年復刻)

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半の濁水紛争は、日野川上流域の村々同士において局地的に発生していたにすぎない。1738 年の相論の 2~3 か月前に会見郡で大水害が生じていることを勘案すると、当時、鉄穴流し と下流域平野の水害との因果関係は認められていなかった、あるいは大きな鉱害として問 題視されていなかったとみてよいように思われる。

2.18 世紀末期~19 世紀初頭の治水対策

寛政 7 年(1795)には、先述したように米子城下も被災するという大水害が発生してい る。翌年、御普請の不行き届きによる水害が頻発したことを憂慮した藩は、「格別に御普 請仰せ付けられず候ては相成らず所もこれ有り候」という状況に陥り、御普請奉行・下奉 行や村方に対して新たな「御普請仕法」を命じている。その内容は多岐にわたっているが、

その際村方に出された触れに「村々出人夫割合申し付け候ても、割の通り差し出さず村も 近来これ有る由、村役人共の不埒にて候」などとあるように、御普請への出役の強化が求 められている。

そして、この仕法替えは、のちに日野川・法勝寺川御普請の人夫徴発に関する日野・会 見両郡大庄屋の協定を成立させることになったと推察される。文化 4 年(1807)の史料20に は、「日野川筋両土手御普請」に対して、「會見郡中より竈壹軒に付年内に弍人、日野郡 中より壹軒に付年内に壹人罷り出で、川浚へ、堀かす両土手に持ち揚げ候えば、自然土手 丈夫に相成り、底も入り候」とある。そして、この協定では、①1 人あたりの出役は 2 日 間であること、②日野川・法勝寺川西岸に位置する川西大庄屋構21の中構と奥構、浜構が 西岸の堤川除普請を、日野川東岸に位置する川東大庄屋構の口構と上構が東岸の普請をそ れぞれ担当すること、③日野郡からの出人夫の割りあては 5 つの構との相談によって決め ること、④出役の代わりに金銭を支払う「銀立」を認めること、⑤老人の独身世帯の出役 を免除することなどが、きめ細かく明文化されている。会見・日野両郡、すなわち弓ヶ浜 半島と日野川の全流域にわたる広い範囲から、御普請の人夫が徴発されていたのである。

19 世紀初頭の水害対策は、流域住民に対する堤川除普請の強化によってなされていたとい えよう。

また、享和元年(1801)には、日吉津村の連兵衛が日野川東岸の御普請のうち、豊田・

古川村の土手約 257 間、今村の土手約 85 間を「御手伝」したいと願い出ている。このよう に流域の有力者による資金提供がなされたことも確認できる。

20 文化 4 年「日野法勝寺川筋出精人夫取扱締合伺帳」(前掲注 14 所収)

21 「構」は鳥取藩において用いられた在方支配のための各種機関の管轄範囲を示す単位呼称であり、一般には大庄屋の 管轄範囲を指す場合が多かった(白石 1976)。

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そして、文政 5 年(1822)に藩は、「川浚え」や堤普請をより適切に行うべく、御普請 奉行や村方に対して詳細な指示を申しつけている。18 世紀前半にも、様々な治水対策がな されていたといえる。しかし、その効果はなかなか現れず、日野川の河床はいちじるしく 上昇し、水害の発生が強く懸念される事態に至るのである。

藩は、たたら製鉄の稼業から得られる運上を確保すべく鉄穴流しの制限を極力小さくし たい一方で、水害の発生や土木工事費用の増大もよしとはしない方針をもっていたにちが いない。そのような中、文政 6 年 8 月の『在方御定』22には「近来日野川下、別して鉄穴 砂夥しく流れ出で、川底高く相成り、出水の砌は御田地村々危急に付、種々御普請これ有 り候え共、只今の通りにてはその甲斐これ無きに付、鑪ならびに鉄穴場所取り調べ候処、

近来莫大の員数相増え候」とある。藩は、①鉄穴流しが河床上昇を招き、下流域における 水害の危険性を高めていること、②堤川除普請の強化による水害対策には限界があること、

③取り調べの結果、山内および鉄穴場が大幅に増加していることなどを指摘したのである。

そして、「村々難渋におよばざる様仕法相立て申すべく候」として、燃料となる「鉄山林」

の枯渇も懸念されるのでたたらの数を減らすこと、砂鉄は定められたたたらに納入するこ と、鉄穴場には「砂留」を設置し、下流に廃土を流出させないことなどを日野郡に義務づ けたのである。この仕法は、具体的な数量制限をもたないことからも伺えるように、日野 川流域全体における最初の鉄穴流し制限令といえる。

第4節 江戸時代後期における藩および流域住民の対応

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