• 検索結果がありません。

第3章 日野川流域の鉄穴流しにともなう水害と対応

第1節 研究の目的と対象地域の概観 1.研究の目的

過去に発生した水害について地理学は、浸水域と微地形の関係に着目しつつ、被害状況 の復原にとりくんできた。その際、流域の地形環境を視野に入れる長所をもつ反面、治水 事業や流域住民のあり方が検討されることは少なかった。その中にあって、内田(1994)

は、近代の国営府県営治水事業に大きな役割を果たした水害予防組合に着目し、水害常習 地域の社会構造を解明した。また山下(2002・2015)は、治水政策上の過渡期にあたる幕 末から明治期の治水事業と住民の関わり方の変化を明らかにしている。

一方、鉄穴流しがもたらした諸問題に関する研究は、第1章で述べたように、河床上昇 や水害、水質汚濁、鉄穴流しの稼業地域と鉱害を受けた下流地域との間に生じた濁水紛争 などについて検討してきた。そして、訴訟に至ると、鉄穴流しはさまざまな稼業制限を受 けたことが明らかにされてきた。その際、宗森(1982)は、上流域と下流域の藩領が同一 の場合と異なる場合とで、紛争の内容や対応にちがいがみられることを指摘している。安 藤(1992)は、近世の日本で生じた多岐にわたる環境問題をとらえる中で、中国・東北地 方における諸河川の濁水紛争についても検討し、19 世紀には解決のための補償が広くみら れたと論じている。つまり、濁水紛争が発生すると、それぞれの河川流域において、為政 者・行政機関を介しつつ、対立の解消にむけた協調体制の構築が模索されていた。そして、

濁水紛争の発生域は広範におよび、藩や幕府がその解決に直接関わることもあったのであ る。

53

しかし、濁水紛争に関する従来の研究では、水害対策として不可欠な治水事業の展開や、

流域住民の対応についてはほとんど分析されてこなかった。このため、鉄穴流しが稼業さ れた河川における水害の特殊性ばかりが強調されてきたように思われる。その上、濁水紛 争の内容と対応については、幕藩体制下の江戸時代と明治時代とでは政策上の差異がみら れたにちがいない。しかし、明治期の濁水紛争に関しては未解明な部分が多く、江戸期か ら明治期にかけての通時的な分析はまったく行われていない。

そこで、本章では、18 世紀初頭から 19 世紀末期にかけての伯耆国日野川流域をとりあ げ、鉄穴流しの稼業状況と水害の実態を把握した上で、為政者や行政機関、流域住民の対 応とその変化を検討していきたい。具体的には、鉄穴流しが本格的な稼業制限を受けるよ うになった文政 6 年(1823)までの治水対策の展開と、幕末と明治中期に発生した水害を とりあげ、水害発生の社会的側面としての鉄穴流し、河床変動、鳥取藩や県、上流・下流 の住民によるそれぞれの対応、各種治水対策とその費用負担のあり方などについて検討し ていくことになる。

日野川流域は、大山寺領をのぞき江戸期を通して鳥取藩領であった。下流域の会見郡で は水害が頻発し、とくに、支流である法ほっしょう勝寺川下流西岸の兼久土手において破堤・溢流 が生じると、鳥取藩家老の荒尾但馬守に町政が委任されていた米子町も多大な被害を受け た。その一方で、上・中流域の日野郡では鉄穴流しがさかんに行われ、鳥取藩や流域の住 民たちは鉄穴流しを水害の一因として認識し、さまざまな対応をとってきた。

日野川下流域における大規模な水害は、後述するように、19 世紀に限っても、文政 12

(1829)・明治 19(1886)・26・27 年に発生している。そして、日野川流域の水害と鉄穴 流しについては、①文政 6 年に鳥取藩が鉄穴流しの稼業制限や廃土の流出防止を求めたこ とに対して、鉄山経営者側は下流で行われた治水工事の費用を負担することで解決しよう としたこと、②幕末には日野郡の住民が下流の川浚えを負担したこと、③文久元年(1861) から日野川流域の鉄穴場のうち 3~5 割程度が藩の命令によって休業していること、④明治 26 年の水害後、下流域住民が鉄穴流しの差し止めを政府に対して求めたこと、などが指摘 されてきた(たとえば、鳥取県編 1969 460-466、野原 1969b、日南町史編纂審議委員会 編 1984 776-785、安達 1990 76-126、安藤 1992、影山 1991a・1994・2000a)。しかし、

鉄穴流しが制限される以前の治水対策、鉄穴流しと治水対策の関連およびその変化、明治 中期における水害の頻発によって本格的な濁水紛争が生じた背景など、今後に残された検 討課題は少なくない。

54

2.日野川流域の概観

鳥取県西部最大の河川である日野川(全長約 73km)は、中国背梁山地の一角をなす三国 山(1004m)付近から北東に流出し、大山(1729m)の火山山麓において流路を北西に転じ る(図3-1)。上・中流域には鉄穴流しに適する平坦面と花崗岩類が広く分布し、大山 には安山岩や凝灰岩、火砕流堆積物などがみられる。そして、大山の北西山麓に位置する 現・伯耆町岸本から米子市域にかけては扇状地を形成し、法勝寺川を合わせたのち美保湾 に注ぐ。

日野川下流域の米子平野は、日野川扇状地、弓ヶ浜砂州、法勝寺川下流域の尚徳低地な どに大別される。日野川扇状地は、日野川の現流路と佐陀川にはさまれた標高 5~43m 付近 に、3~5‰程度の勾配をもって展開している。後述するように、日野川は流路をくり返し 変化させ、現流路をとるようになった 18 世紀初頭以降においても水害が頻発している。

弓ヶ浜砂州はおもに 3 列の浜堤群から構成されている。それらの浜堤群のうち中海側の 内浜には、荒尾氏の預かった米子城のもとで発展した米子市街地が立地している。そして、

美保湾側の外浜は、近世初頭以降の鉄穴流しの活発化に起因する土砂供給量の増大にとも なって、急速に成長したとみられている(貞方 1991・1996)。また、日野川扇状地の美保 湾側に位置する標高約 5m 以下の三角州性低地上にも、浜堤が分布している。

したがって、米子平野の特性としては、扇状地および砂州の発達が良好であり、氾濫原 および三角州性低地の占める割合が低いことを指摘できる。このことは、日野川扇状地の 扇頂にあたる岸本から河口までの流路延長が約 10.5km にすぎないように、日野川が中国地 方では有数の急流河川であり、かつ土砂運搬量の多いことと密接に関わっている。

そのような米子平野にあって、尚徳低地は、現・米子市 榎えのきはらの狭隘部から日野川との 合流点までの法勝寺川西岸に位置し、2.6km2あまりの小盆地をなす後背低地である。この 低地は、次節で詳述するように、米子平野の中でもっとも低湿な地形環境にある。そのた め、尚徳低地はかつて典型的な水害常襲地域であった上に、その浸水はしばしば米子町に もおよんだ。このため、法勝寺川の治水は鳥取藩にとって重要な課題であり、法勝寺川下 流の西岸に築かれた兼久土手の果たした役割は大きかった。本章では、米子町に災禍をも たらすことで、日野川流域に対してもっとも甚大な被害を招いた尚徳低地の水害を中心に 論じていくことになる。

3.たたら製鉄・鉄穴流しの稼業状況

55

図3-1 研究対象地域の概観

注1:ゴシック体=江戸時代後期の郡・町・村名。左下図の郡界は明治 22 年(1889)年時点のものである。

注2:A-Bの太線は、注 11 による天保 4 年(1833)当時の河口の位置を示す。

[1:50,000 地形図「米子」陸地測量部、1899 年測図、1902 年発行に、加筆・縮小して作成]

56

日野川流域は、斐伊川や江の川、高梁川など中国山地中央部から流出する他の河川流域 とともに、たたら製鉄の核心的地域であった。たたら製鉄では鉄穴流しによって採取され る山砂鉄のみならず、川底から採取される川砂鉄も広く用いられた1。しかし、日野川の下 流域では、川砂鉄の採取が困難であった2。そのため、砂鉄採取における鉄穴流しへの依存 度は高かったとみられる。慶応 4 年(1868)の日野川流域には、稼業の認められていた鉄 穴場が 310 ヵ所、休業を命じられていたものが 295 ヵ所あった(安達 1990 76-126)。鉄 穴跡地は日野川本流の上・中流域を中心に広範囲に分布し、法勝寺川流域にはそのうちの 1.5%が確認されているにすぎない(貞方・赤木 1985)。したがって、日野川本流の下流 には鉄穴流しによる廃土がとりわけ多く流出し、水害への関与も大きかったとみられる。

たたら製鉄は鳥取藩のみならず、経営者および労働者、鉄穴流しや炭焼きなどにも従事 した日野郡の住民にとっても、大きな経済的意義をもっていた。そして、日野郡の村々に 課されていた貢納の主要な方法は、たたらや大鍛冶への米の販売や、たたら製鉄に関連す る労働によって得た利益をもとに、年 3 回にわたって分割納入する「三払銀納制」であっ た。それだけに、鉄穴流しの稼業制限を招きかねない濁水紛争は、流域全体にわたる大き な問題となったのである。

一方、鳥取藩のたたら製鉄に対する政策の特徴をみると、生産過程に強く介入する形を とらず、営業税としての運上の確保に重点が置かれていた(中尾 1978a・b)。その中に あって、たたら製鉄の経営そのものは個々の経営者に委ねられていたため、鉄価の変動や 資源確保の状況によって大きく変化した。たとえば、1840 年代の日野郡には砂鉄製錬を行 うたたらが 14~15 ヵ所、鍛錬工程の大鍛冶が 24~25 ヵ所、1850 年代にはたたらが 30 ヵ 所、大鍛冶が 40 ヵ所あまりそれぞれあった。ところが、1860 年代には大鍛冶の数が半減 しており、その理由は木炭林の枯渇とされている3。そして、物価の高騰に反して鉄価の暴 落した幕末から明治維新期には、破産した経営者も少なからず出ているように4、その生産 は一時的にいちじるしく縮小した。

明治期に入ると、新政府は明治 5 年(1872)に太政官布告「鉱山心得」を、翌年に同布 告「日本坑法」を公布し、鉱物資源の国有化や課税の強化などを図った。その中で、日野

1 出雲国絲原家文書を分析した高橋(1994)は、幕末・明治期の斐伊川流域においてたたら製鉄に使用された砂鉄の 5 割 以上が川砂鉄であったとする。

2 『鐵山必用記事』(下原 1784)は、大山火山から流出する土砂の影響によって、日野川下流では川砂鉄の採取が困難 であったとする。

3 文久 2 年 11 月「乍恐奉再願口上之覚」日野町根雨・近藤家文書、(鳥取県編 1977 617-619 所収)

4 慶応 4 年「歎願書」近藤家文書、(影山猛編 1984 211-216 所収)

関連したドキュメント