• 検索結果がありません。

第2章 鉄穴流しの方法と土地開発

第4節 鉄穴地形における土地開発

46

大がかりな比重選鉱設備をもたない原初型鉄穴流しは、中世においても稼業されていた にちがいない。そして、原初型鉄穴流しでは、大量の風化土を必ずしも必要としないこと から、前項で指摘した縦方向への小規模な地形改変が広く行われていたとみられる。とこ ろが、洗い樋を用いた選鉱方法の成立に先行して、横方向への大規模な地形改変が 17 世紀 中頃から普及してきた。この普及によって、選鉱する土砂量がいちじるしく増加し、その 土砂を効率よく選鉱すべく、18 世紀中頃までに洗い樋が考案されるに至ったと考えられよ う。洗い樋型鉄穴流しにおける地形改変では、横方向への大規模なものが中心であったと みられる8

47

図2-6 明治前期の鉄穴流し(吉谷鉄砂流口)

[明治 14 年ごろ「岡山縣下美作國第三十壱區第三十二區真島郡之内借區開坑銕砂流ハ口幷ニ鑪鞴鍛冶屋圖面」より作成]

48

図2-7 吉谷川流域における「鉄砂流口」の現地比定

図2-6と対比しやすいように、西を上にしている。 [1972 年撮影約 1 万分の 1 空中写真の判読、

2.5 万分の 1 地形図「美作新庄」「湯原湖」、図2-6、現地調査などより作成]

49

れたすべての耕地は、洗い樋型鉄穴流しによる廃土を利用した流し込み田には該当しない。

なぜなら、まず第 1 に、この鉄穴流しにともなう廃土を堆積させることが可能な土地は、

「二番」より下流の鉄山川との合流点付近だけであり、鉄山川沿いの低地は洗い樋型鉄穴 流しが始まる前までに耕地化されていたにちがいないからである。このように、洗い樋型 鉄穴流しによって形成された鉄穴跡地と、その廃土を堆積させた流し込み田が隣接するこ とは、比重選鉱設備が上流側に移設されるなど特殊な条件がないかぎり生じにくいのであ る。

第 2 に、鉄穴流し稼業地点付近にみられる棚田を、廃土を流し込んだものとして一律に 理解してはならない。たとえば、備中国新見荘域の耕地に関する検討を積み重ねた竹本

(1984 61-62)は、近世後期から明治期にかけて実施された畦畔の耕地化による田地面積 の拡大にともなって、不自然な埋積地形をなす棚田状の水田が造成されたことを明らかに している。このことは、鉄穴跡地付近の不自然な埋積地に造成された水田の中には、鉄穴 流しとは直接関係のないものがふくまれている可能性を示唆する。

吉谷川流域の水田のうち、標高 590m 付近に位置する最北西端の 4 筆は、下手側に高い畦 畔をともない、1 筆あたりの面積が下流の水田より明らかに広い。つまり、この 4 筆の水 田は、急傾斜地に不相応な面積をもつ不自然な埋積地形に造成されている。しかし、上述 のように、これらの水田は、洗い樋型鉄穴流しによる廃土を利用した流し込み田には該当 しないのである。

筆者は、流し込み田には、ⓐ砂鉄採取後の廃土を開田のために意図的に堆積させた土地 に造成した水田、ⓑ砂鉄採取後の廃土が自然に堆積した谷底に造成された水田、ⓒ流水客 土法9を用いて鉄穴跡地とその付近に造成した水田、の 3 種類があると考える。

ⓐとⓑはいずれも比重選鉱設備より下流に造成されることになる。原初型鉄穴流しでは、

採掘地点と比重選鉱地点が近接するため、鉄穴跡地に比較的近いところでも流し込み田の 造成は可能となる。しかし、採掘地点と比重選鉱地点が離れた洗い樋型鉄穴流しでは、流 し込み田は比重選鉱地点より数百 m 以上下流に造成されることになる。このような下流に 位置する低地は、早くから耕地化されていたとみられる。そうすると、洗い樋型鉄穴流し の廃土は流し込み田の造成にあまり寄与しなかったとみざるを得ないのである。

ⓒは、砂鉄採取後の廃土を利用した水田とはいえない。しかし、中国地方各地の鉄穴流 しの稼業地点付近には、流し込み田とみなされてきた棚田が少なからずみられる。この棚

9 流水客土とは、水路を通じて泥土を要客土地へ導く土地改良法をさす(たとえば、籠瀬 1957)。

50

田の多くは、鉄穴跡地を水田化する際に、鉄穴流し用水路を介した流水客土法によって造 成された水田にあたると筆者は考える。鉄穴跡地内に導かれた表土は、花崗岩類の風化土 ではなく、森林の下に生成された腐植に富む土壌を用いたにちがいない。その根拠は、以 下に示す通りである。

まず、流水客土法による新田開発と砂鉄採取に密接な関係があることは、伯耆国久米・

河村郡の例ではあるが、つぎの享保 7 年(1722)の史料10によって把握できる。

近年川筋荒れ場亦は河原など新開に願ひ、①流し山に願ひを以て埋め新田仕る族これ 有り、川筋障りに成らず所聞き届け申し付け候処、末々心得違ひ、②小鉄を取り申す 覚悟にて、新開は願ひ候品に申し出す趣に相聞こえ候、これに依り今年より流し山新 開、堅く停止に仰せ付けられ候、流し山にてこれ無き場所新開は唯今迄の通り、勝手 次第願ひ指し出し、少しにても新開仕る事。(後略)

すなわち、「流し山」を願い出て「埋め新田」をする者(下線部①)と、砂鉄を採取す るつもりで「流し山新開」を願い出る者がいたこと(下線部②)などがわかる。「流し山」

とは、流水客土法を用いた開田作業とみられる。天神川流域の鉄穴流しが禁止されていた 中、流水客土法によって新田を開発すると願い出ておきながら、砂鉄を採取する者がいた のであった。その結果、鳥取藩は「流し山新開」を禁止するに至っているのである。

鉄穴流しと流水客土法による開田との関わりについては、杉本(1957)が早くから指摘 している。そして、明治期の伯耆大山南麓では、鉄穴流しの技術をもった島根県仁多郡か らの出稼ぎ労働者が、流水客土法によって火山山麓の耕地造成にあたっている(第7章)。

このような労働者たちは黒鍬師と呼ばれ、たたら製鉄の廃絶後、西日本各地の耕地造成に 携わったとされている(向井 1978 567-570)。これらの流水客土を行うにあたり、鉄穴流 しの廃土を水田の表土に用いる必要はないと考える。

以上のように、これまで砂鉄採取後の廃土の堆積地に造成されたと認められてきた水田 の中には、廃土を用いることなく、流水客土によって造成されたものが少なからずふくま れていると考えられる。洗い樋型鉄穴流しの廃土を利用した水田の存在を指摘する際には、

比重選鉱地点の位置を確認する作業を経るべきである。

10 享保 7 年 4 月 10 日「在方御法度」、(鳥取県編 1971b 313-314 所収)

51

第5節 小結

本章で指摘したことは、以下のようにまとめられる。

従来、近世の鉄穴流しは、花崗岩類の風化土を横方向に掘削して掘り崩し、水路状をな す洗い樋において砂鉄を選鉱する作業として理解されてきた。しかし、筆者は、鉄穴流し には、近世において 2 つの技術変化が生じていたと考えた。まず、17 世紀中頃までの鉄穴 流しでは、花崗岩類の風化土を下方向へ竪穴を掘るように掘削し、付近の川底で砂鉄を選 鉱していた。そして、17 世紀中頃以降、花崗岩類の風化土の下部を横方向へ掘削し、その 上部を掘り崩す大がかりな地形改変方法が普及し、風化土は流水によって比重選鉱地点へ 導かれるようになった。この選鉱する土砂量の増大と、高殿たたらの通年操業に対応する ように、18 世紀中頃までに、洗い樋において砂鉄を採取する方法が普及した。筆者は、洗 い樋を用いる砂鉄の比重選鉱法を「洗い樋型鉄穴流し」、それ以前の山砂鉄の採取法を「原 初型鉄穴流し」とよぶ。なお、濁水紛争にともなう鉄穴場の数量制限は、1 つの鉄穴場で より大量の砂鉄を採取できる洗い樋型鉄穴流しを普及させたと考えられる。

つぎに、花崗岩類の風化土を下方向へ竪穴掘りすることによって形成されたとみられる 鉄穴跡地の実例を 3 ヵ所示した。竪穴掘りの対象となりやすい地形は、比重選鉱作業を行 う谷川に近接した山地のうち、支尾根の頂部などといった花崗岩類の風化土が厚くみられ るところであったと考えられる。掘削した風化土を比重選鉱地点に搬送する場合、用水路 の設置が困難な地点であっても、掘削の対象となった。鉄穴跡地はすり鉢状の凹地や、ガ リー状の溝をなし、それらによって囲まれたところは小規模な鉄穴残丘となったと考えら れる。

一方、従来、流し込み田は、鉄穴流しの廃土を利用して造成した水田として広く説明さ れてきた。しかし、筆者は流し込み田と理解されてきた水田の多くは、流水客土法を用い て鉄穴跡地とその付近に造成されたものであり、比重選鉱後の廃土を流し込んだものでは ないと指摘した。そして、洗い樋型鉄穴流しでは、地形改変地点と比重選鉱地点の位置が 離れやすいため、廃土を利用した水田造成は限定的なものであったと考える。

本章で明らかにしたことは以上の通りであるが、第6章では、流し込み田に関する筆者 の見解について具体的に論じる。

関連したドキュメント