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第5章 山内の立地とたたら製鉄への従事状況

第3節 たたら製鉄関連労働への村方住民の従事状況 1.美作国上齋原村の事例

⑴事例地域の概観

近世村の事例としてとりあげる美作国西々條郡上齋原村(図5-5)は、近世における 吉井川流域最大の鉄生産地域であった。近世中・後期の上齋原村では、鉄穴流しの稼業が 禁止された宝暦元年(1751)からの 11 年間と、寛政 9 年(1797)からの 33 年間、および 経済の混乱した幕末の元治元年(1864)からの 4 年間をのぞき、1~3 ヵ所の山内において

13 影山(2000b 101)によると、成捨とは村下や大工などの技術労働者を雇用する際、前借金を受け、契約期間の就労 によって前借金が相殺される制度とされる。

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図5-5 事例地域の概観

等高線(m)は接峯面を示す。接峯面は 5 万分の 1 地形図をもとに、幅 1km の谷を埋めて作成。

135 たたら製鉄が稼業されていた(図5-6)。

上齋原村域は近世末期には 10 あまりの小集落から構成され、現在では岡山県最北端の苫 田郡鏡野町上齋原地区にほぼ踏襲されている。近世村としての上齋原村は、享保 11 年

(1726)、津山藩の減封により幕府領となったのち、延享 2~宝暦 6 年(1745~1756)の 鳥取藩預地を経てふたたび幕府領となった。その後は、播磨国三日月藩預地、幕府領、下 総国佐倉藩領、寛政 11 年(1799)からは幕府領といったように領主のめまぐるしい変遷を みた。そして、文化 9 年(1812)以降には、津山藩預地や津山藩領として幕末を迎えてい る。

人口の推移をみると、元禄 4 年(1691)の 579 人(102 戸)以降、天保 4 年(1833)の 613 人(133 戸)まで漸増傾向にあったが、天保の大飢饉の影響を受けた同 9 年には 477 人(104 戸)に減少している。高度経済成長期以降には、農林畜産業と、人形峠における ウラン鉱の採掘関連産業、観光産業が村の主要な就業機会となった。1955 年の総人口は 1,628 人(323 戸)であり、ウラン鉱山の開発などもあって人口は一時的に 1,700 人を越え た。しかし、1990 年の総人口は 995 人(340 戸)にまで減少した。

⑵樋ヶ谷山への従事状況

まず、上齋原村の住民は、たたら製鉄関連労働にどれくらい関わっていたのかについて、

数値を踏まえつつ具体的に検討する。吉井川上流域におけるたたら製鉄の稼業状況を報告 した寛保 2 年(1742)の史料14によると、兵庫車屋重次郎を「鉄山元」とする樋ヶ谷山は、

遠藤から沼ノ乢を経て元文 5 年(1740)から豊ヶ谷において 3 年間稼業されてきたことが わかる。そして、同史料に「扶持人六拾四人、日雇五拾人、此山小屋数四拾弐軒、かぢ職 場三軒」とあり、大鍛冶を併設していた樋ヶ谷山には、鉄山経営者と雇用関係を結んだ 64 人の「扶持人」と、50 人の「日傭」が存在し、前者は鉄山労働者とみなすことができる。

さらに、樋ヶ谷山に砂鉄を供給した鉄穴場とその労働者数として、平作原に 10 人、こごろ に 3 人、ほうそうたに 14 人、杉小屋に 12 人と記されていて、4 ヵ所で 39 人が鉄穴流しに 従事していたことも記されている。

それでは「日傭」については、どのように理解すべきであろうか。17 世紀末期に天秤鞴 を導入し、年間操業回数を大きく増加させたたたら製鉄に対して、村方の住民はその関連 労働への依存度を強めたとされる(山﨑 2010)。しかし、18 世紀中ごろのたたら製鉄は、

14 寛保 2 年「西々條郡養野村・奥津村・下齋原村・上齋原村鉄山聞合セ書上帳」津山市矢吹家文書(山中一揆顕彰会編 1956 7-9 所収)。

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1750 1760 1770 1780 1790 (年) 1800

■■■■■■■樋ヶ谷 1740~1749 | | | ■■■■■■1785~1789 | ■■■■池川山 1745~1748 | | | | | 寺原山■■■■■1746~1750 | ■■■■■■■■■■1762~1771 | | | | 大木山■■■■■■■■1764~1771 | | | | | 赤和瀬■■■■■1766~1770 | | | | | 小林山■■■■■■■■■■■■■■■■■1773~1789 | | | 杉古屋山■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■1769~1787 | | | | 釜ケ鳴■■■■■■1778~1784 | | | | | | 遠藤■■■■■■■1787~1793 | | | | | 梅木山■■■1794~1796 1840 1850 1860 1870 1880 (年) 1890

■■■■■■■樋ヶ谷金吉山 1831~1839 | 1868~1897■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■➡

栄杉山■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 1837~1863 | | 喜路山□□■■■■■■■■■■■■■■1837~1852 | | | | 赤和瀬代続山■■■■■■■■1839~1846 | | | | | 中津川増金山□□■■■■■■□□1852~1861 | | | | | | 新古屋坊主原山□□□□□1871~1876 | | | | 人形仙国一山 1876~1887■■■■■■■■■■■■ | | | | 池川山 1878~1889■■■■■■■■■■■■|

| | | 遠藤栄金山 1887~1919■■■■■➡

図5-6 上齋原村におけるたたら製鉄の稼業状況

『寺院過去帳』から稼業が確認できる山内 各種史料から稼業が確認できる山内 注:たたら単独と、たたら・大鍛冶併設の山内について示したが、一部に大鍛冶単独の山内をふくんでいる可能性が

ある。

[資料:德安(2001c)、鏡野町奥津宝樹寺『過去精霊帳』(秋成知道住職調べ)など]

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出雲国の例をみても通年操業体制には達していない(たとえば、高橋 1996、相良 2012)。

そのような段階にあって、「日傭」の中心は村方の百姓であったと考えるのが自然である。

村外からの人口流入を無視してはならないが、隔絶性が強いという地理的条件を考慮する と、「日傭」の大部分は上齋原村の住民であったとみなせよう15

そして、冬期を中心に行われるのが通例であった鉄穴流しは、農間稼ぎとして稼業地域 の住民に委ねられることが多かった。そこで、当時の村の総人口を 600 人、総戸数を 105 とし、50 人の「日傭」と 39 人の鉄穴流し従事者のすべてを上齋原村の住民と仮定すると、

住民のうちのおよそ 12 人に 1 人が樋ヶ谷山に、15 人に 1 人が鉄穴流しに従事していた計 算になる。上齋原村の住民は、7 人に 1 人、1.2 戸から 1 人の割合で、「日傭」ないし鉄穴 流しに従事していたことになる。その上、第2章でも引用したように、同史料には「此外 にて久田下ノ原村より奥は小かんな場何程と申す限り御座無く、村々にて川端小川辺り山 の谷数ヵ所切り流し申し候て、小鉄取り仕り候、悉は承合申し候事及び難し」とある。つ まり、稼業状況を掌握しかねるほどあった小規模の鉄穴場にも従事者が存在し、山内に砂 鉄を売り込んでいたとみられるのである。また、山内へ供給される木炭の製造・運搬の一 部も、村方の住民が担ったにちがいない。

⑶議定書からみた鉄生産と村方の関係

つぎに、たたらや大鍛冶を開設する際に、鉄山経営者と村方との間で交わされた議定書 の内容を検討することによって、鉄生産と村方の関係を考察したい。後掲の議定書16は、

恩原御林の一角にあたる遠藤において鉄生産が始められた天明 9 年(1789)に、上齋原村 の請負人と御林守、百姓代、年寄、庄屋の計 7 名が、経営者である津山城下の紙屋茂兵衛 と結んだものである。11 項目からなる議定書の中から 6 項目を以下に抜粋する。

一 鍛冶屋 壱ヵ所 恩原御林の内

一 鉄砂流し場 二口 杉小屋の内、遠藤の内

万一御上様并びに川筋村々より差し留め参り候時分、村内より随分世話仕り候ても、

當然相止め候はば、御止め成さるべく候

15 樋ヶ谷山と同時に稼業されていた下齋原村みつこ原山(たたら 1、大鍛冶 3、山内小屋 34)の扶持人は 40 人、「日庸」

は 60 人、養野村和泉権現山(たたら 1、大鍛冶 4、山内小屋 32)の扶持人は 35 人、「日庸」は 70 人となっている。

村方住民の居住地に近接するこれらの山内は、樋ヶ谷山と比べ、山内の労働力に占める「日庸」の割合が高くなって いるようにみえる。村方住民の居住地に近接する山内では、村方住民の労働力により強く依存していた傾向がうかが える。

16 天明 9 年「遠藤鍛冶屋議定之事」(德安 2001c 234 所収)。

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右は来る戌年より子年迄三ヶ年、追って願い相定め遣わすべく候 一 御運上銀の儀は、壱ヶ年分銀弐貫五百目ずつ相定め申し候

一 御廻米御蔵元御切手御上納成さるべし もっとも壱俵に付間米弐斗ずつ定め、但し 山付

一 山より出荷物、入荷物共、才原より遠藤迄、壱駄に付弐百文、小割壱束に付九拾文、

米壱俵に付九拾文、定め申し候

一 村方より山内え入り込み稼ぎいたし候者、山内抱人並びに御作廻り成さるべく候事

この議定書は、表題に「鍛冶屋議定」とあるので大鍛冶の稼業に関する取り決めのよう にみえる。しかし、村内の杉小屋と遠藤の鉄穴場から砂鉄を入手し、鉄穴流しの差し止め を求められた場合には応じるとあるので、この遠藤山は砂鉄製錬を行うたたらと、小割(包 丁鉄)を生産する大鍛冶を併設していたとみなせる。この議定書から、まず包丁鉄を 3 年 間生産すること、運上銀を年 2 貫 500 目ずつ納めることなどがわかる。そして、年貢米を

「御蔵元御切手」の形で上納する、すなわち年貢米を山内に納入することで年貢皆済とす る為替米制度の実施を読みとることができる。また、上齋原村の住民がおもに従事したと みられる本村と遠藤間の荷物輸送の駄賃に関する取り決めや、上齋原村の村方住民が鉄山 労働者として遠藤山に入山することが可能であることなども判明する。

したがって、この遠藤山が閉山することになった寛政 6 年(1794)、上齋原村は同じ恩原 御林内の梅木に「後稼ぎ」としての「鍬地鍛冶屋」の開設を願い出た。その際に提出され た史料17には、「凡そ九拾余年来中絶無く鉄山又は鉄小割鍛冶や鍬地鍛冶屋等三名の分これ 相稼ぎ、右悪米は稼ぎ場所扶持米に致させ、百姓ども雪中稼ぎこれ無し時分も専ら日雇相 稼ぎ渡世仕り申し候」とあって、為替米制度と冬期の就業機会が村方に利益をもたらすこ とが述べられている。さらに同史料には、「当村に限らず奥津より当村迄五ヵ村の儀は、右 三名の稼ぎを以て百姓相続罷り有り候所、稼ぎ御停止に仰せ付けられ候ては、必至難儀仕 り候 (中略) 三五年過ぎ候はば忽ち人別大いに相減り荒地出来仕り、五ヵ村亡所は目 前の儀」とあり、たたら製鉄が稼業されなければ 5 ヵ村、すなわち上齋原村をふくむ奥津 村より上流の村々は「亡所」になると主張されているのである。以上のように、住民にさ まざまな就業機会をあたえるたたら製鉄の稼業は、村方にとって重要な経済的存立基盤で あったといえよう。

17 寛政 6 年「乍恐以書附奉願上候」、(奥津町史編纂委員会編 2007 252-253 所収)

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