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第1節 研究の目的と対象地域の概観

たたら製鉄の稼業は、労働者用食料の需要増を招き、中国山地の耕地開発を促進させた。

本章では、伯耆大山南麓に位置する鳥取県日野郡江府町こうふちょう宮市原をとりあげ、鉄山経営者に よる耕地の開発過程と集落の形成について検討する。宮市原は、伯耆国最大の鉄山経営者 として知られる近藤家によって明治中~後期に開発された集落である。この宮市原の開発 については、『日野郡史』(日野郡自治協会編 1926c 2309-2310)や『鳥取県史』(鳥取 県編 1969 121-123)、『江府町史』(江府町史編さん委員会編 1975 669-679)によって、

開発の目的やその過程、集落の構成などについてすでに言及されている。しかし、集落景 観や耕地分布などに関する具体的な分析はほとんどなされていない。その上、『鳥取県史』

と『江府町史』は、この開発目的を失業した鉄山労働者の救済策としている。この点につ いては反証が必要である。

研究にあたっては、まず、史・資料の分析にもとづいて耕地開発の概要を把握する。そ の際、たたら製鉄の経営状況を視野に入れつつ考察を行う。つぎに地籍図および土地台帳 などを用いつつ、耕地の開発過程を明らかにする。そして、聞き取り調査や、史・資料の 分析によって、居住者の入植状況と集落の構成などについて考察する。

江府町域は、大山(1729m)南麓にあたる火山の緩斜面と、日本海へ注ぐ日野川の東岸や その支流の俣野川以南にみられる花崗岩山地から構成される(図7-1)。したがって、

この地域の集落は、大山南麓の緩傾斜面上と、花崗岩山地を流下する河川の形成した谷底 平野に立地するものとに大別される。前者に属する宮市原は、大山山系の烏ケ山(1385.6m)

から噴出した火砕流堆積物からなる平坦面上の標高 320~350m 付近に立地している。この 平坦面は、集落の北部を西流する美用谷川によって深く開析されているため、水利に恵ま れない。また、宮市原の南部には北東から南西方向に高度を減じる尾根があり、それは美 用谷川と俣野川との分水嶺をなしている。

宮市原の集落は、かつて米子方面と蒜山地方を結んでいた「美作往来」沿いに立地し、

明治中期に日野郡宮市村内の一集落として成立した。明治 22 年(1889)の町村制施行後に 宮市村は同郡米澤村に属することになり、同 29 年には宮市原に米澤村役場が移転している。

そして、1953 年に江府町の一部となって、現在に至っている。1990 年の宮市原は 19 戸か ら構成され、その内訳は専業農家が 2 戸、第 1 種兼業農家が 2 戸、第 2 種兼業農家が 11

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図7-1 研究対象地域の概観

等高線(m)は接峯面を示す。接峯面は 5 万分の 1 地形図をもとに、幅 1km の谷を埋めて作成。

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戸、非農家が 4 戸となっていた。経営総耕地面積は、1985 年には 14.9ha であったが、集 落の南方に米子自動車道が建設されたことから、1990 年には 12.9ha(水田率 95.7%)に 減少した1

『日野郡史』によると、米澤村大字宮市の字如来原には、水利の便がないために耕地化 されていない共有の芝草山(養草地)が広がっていた。近藤喜八郎がこの土地の開発を県 に願い出たのは、明治 13 年(1880)のことであった。水路がまず開削され、明治 20 年 6 月までに耕地と宅地あわせて 20 町歩あまりが開発された。そして、耕作者の家屋が 10 数 戸建設されるにおよび、のちに宮市原とよばれることになる新しい集落が誕生したことが わかる。しかし、この記述や、宮市原のほぼ中央部に設置されている大正 7 年建立の「新 墾地碑」2をみても、耕地開発の目的は記されていない。この目的を検討するためには、近 藤家についてまずみておく必要がある。その上で、当時の鉄生産の状況を把握しなければ ならない。

近藤家は商業資本をもとに安永 8 年(1779)からたたら製鉄の経営を始めた。天保 7 年

(1836)には直轄の鉄店を大坂に開設し、その後美作国や備中国にも進出するなど、伯耆 国最大の鉄山経営者に成長した(影山 2006)。5 代目近藤喜八郎(1838~1910 年)の頃に おける日野郡の鉄生産高は、明治 13 年に大きなピークを迎えている(図7-2)。この時 期の経営状況は、同 14 年に近年の最多生産額を計上したことが記録されているように、た いへん順調であった。しかしその直後、鉄輸入量の増加と不況による物価下落などから鉄 価格の暴落が生じ、日野郡の鉄生産高は急激に減少することになる。明治 16・17 年ごろに 至っては、喜八郎はたたら製鉄の操業停止か継続かの選択を迫られている。

しかし、製鉄技術の改良に努める一方、その後日本が景気回復にともなう企業勃興期に 入ったこともあって、近藤家の鉄生産は明治 20 年代以降においても継続された。ところが、

明治 34 年における八幡製鉄所の操業開始に代表される洋式製鉄法の発展などによって、た たら製鉄による鉄生産は急速に衰退せざるを得なかった。近藤家のたたら製鉄経営は、大 正 10 年(1921)に終焉を迎えたのである。

喜八郎の時代における近藤家の鉄生産は、好況と不況の大きな波を受けつつ、縮小へと むかっていたといえよう。それでは、喜八郎はなぜ宮市原の耕地開発にとりくんだのであ ろうか。

1 1985 年農林業センサス、および 1990 年世界農林業センサスの集落別カードによる。なお、本章は 1990 年代中頃の現 地調査にもとづくものであるため、調査当時に入手できたデータを示している。

2 小田(2003 36)にその全文が掲載されている。

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図7-2 明治中期における鉄生産高の推移

[『鳥取県統計書』および日本鉱業会誌 15 1886 年などより作成]

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第2節 耕地開発の展開

1.耕地開発の目的

宮市原の開発目的は、前述したように、たたら製鉄の規模縮小にともなって失業する労 働者の救済事業としてとらえられてきた。しかし、前章でみたように、日野郡の鉄生産高 から類推して、近藤家のたたら製鉄経営は明治 10 年代前半においてとりわけ順調であった。

その中にあって、宮市原の開発は明治 13 年までに着手されているのである。

一方、近藤家による労働者救済目的の耕地開発が実施されたことを示す史・資料は、ほ かの地域でもまったく確認されていない。そして、明治中期の日野郡においては 2,300 人 あまりの鉄山労働者が存在していたものの(前掲表5-6)、たたら製鉄の廃絶によって 失業した労働者の大部分は市場むけの木炭生産を行う「近藤商店林業部」に吸収されたと される(中尾 1972)。また、宮市原の入植者の中には、のちに検討するように、鉄山労働 者のみならず農家出身者もふくまれている。これらの点を考慮すると、宮市原の開発目的 を失業する鉄山労働者の救済に求めることは困難である。それでは、この開発目的を何に 求めるべきであろうか。

幕藩体制下の鉄山経営者の多くは、為替米制度にもとづいて養米を確保していた。この 制度のもとでは、農民が年貢米を山内に直接納める見返りとして、鉄山経営者は藩に運上 銀を納入していた。しかしこの幕藩体制下における鉄山経営者の特権は、明治 5 年の太政 官布告第 100 号「鉱山心得」や、翌年の同布告 259 号「日本坑法」の発布によって否定さ れることになった(野原 1970)。その上、明治 10 年の西南戦争にともなうインフレーシ ョンは、米価を高騰させていた。したがって、鉄山労働者の養米を確保することは、たた ら製鉄を経営する上できわめて重要な課題となっていたのである3。その際、米価の変動が 激しかったことを考慮すると、小作地を所有することが、養米を確保するためにはもっと も確実な方法であったものと思われる。

そして、明治 17 年、製鉄経営に行きづまった喜八郎は軍への鉄類の販路拡大をはかるべ く鳥取県令に協力を求めている。その請願書4には、「当日野郡之義ハ①夙ニ御賢知被為降 候通従来農耕ト鉄鉱ノ両条相半セリ、故ニ②稼穡スル所ノ米穀ハ以テ食料ニ供シ、其製出

3 幕末から明治初期における米価の高騰が近藤家の製鉄経営を強く圧迫していることについては、影山(1991b)にくわ しい。なお影山猛氏(江府町洲河崎在住)のご教示によると、近藤家は明治初期において国産米のみならず、外国産 米を購入することによって労働者の食料を確保していた。

4 明治 17 年「産品御買上ケ願之義ニ付請願書」日野町根雨・近藤家文書、(野原 1986 9-10 所収)

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スル所ノ鉄鋼ハ以テ他邦ニ専売シ、而シテ之レカ代金ヲ収入シ租税ヲ納メ」とある。この 記述から喜八郎は、県の奨めによって早くから鉄の生産と農業の両方に努めてきたこと(下 線部①)、収穫した米穀は食料にあてていること(下線部②)などを読みとることができ る。したがって、宮市原の開発目的は、鉄山労働者の食料確保対策とみなすべきである。

それでは、宮市原の耕地開発は、いかなる過程を経て進展したのであろうか。次項では、

耕地開発を可能にした水路の開削と、喜八郎による土地の取得過程について述べる。

2.水路の開削と土地の取得

宮市原の開発にあたっては、まず水源の確保と、水路用地の取得が必要となった。開発 予定地の西部に隣接する宮市の集落は、灌漑用水を美用谷川に求めていた。しかし、集水 域のせまい美用谷川を水源とする水路の増設は、不可能と判断されたようである。さいわ いなことに、宮市原の南部を流れる俣野川の集水域は、美用谷川と比較して広いにもかか わらず、耕地開発が見込める土地に恵まれていなかった。したがって、俣野川流域では農 業用水の確保が容易な状態にあったとみられる。喜八郎は、明治 13 年 1 月、俣野川沿いの 助澤村字川平に取水口を設置することや、水路用地を買収することなどについて助澤村と の間に合意をみるに至っている。宮市原を灌漑する用水は、尾根をつらぬくトンネルを建 設することによって俣野川から取水されたのである。この用水路は、翌 14 年 5 月に完成し た(『鳥取県史』)。

水路設置の交渉と並行して、開発予定地の取得交渉も進められた。明治 13 年 1 月、喜八 郎と開発予定地を村域にもつ宮市村との間には、「開墾地約定書」(『江府町史』所収)

がとりかわされている。ここでは、宮市村の柴草山であった如来原にょらいばら、上ミ小苦﨏、広﨏、

道ヶ﨏、坂根、後 谷うしろだに、苦﨏の 7 字を喜八郎が買収・耕地化すること、柴草山の代替地を 宮市村に提供することなど、9 項目にわたって合意がみられた。さらに翌月には、宮市村 の住民によってすでに開発されていた苦﨏の畑も喜八郎が買収することになった(『江府 町史』)。

これまで確認された水路開削の状況と土地所有の変化は、上記のとりきめを行う際に作 成されたとみられる図7-3によってさらにくわしく把握できる。開発以前の土地利用や 所有について示した図面(

図7-3の上段)と、それに貼付された開発後の状況を示す紙

片(図7-3の下段)によると、用水路の長さは、助澤村字川平からトンネルである堀抜 きの入り口まで約 1,800 間、堀抜き穴が約 190 間、宮市村内が約 1,000 間のおおよそ 2,990 間(約 5.4km)に達している。

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