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第3章 日野川流域の鉄穴流しにともなう水害と対応

第4節 江戸時代後期における藩および流域住民の対応 1.文政 6 年鉄穴流し制限令への対応

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そして、文政 5 年(1822)に藩は、「川浚え」や堤普請をより適切に行うべく、御普請 奉行や村方に対して詳細な指示を申しつけている。18 世紀前半にも、様々な治水対策がな されていたといえる。しかし、その効果はなかなか現れず、日野川の河床はいちじるしく 上昇し、水害の発生が強く懸念される事態に至るのである。

藩は、たたら製鉄の稼業から得られる運上を確保すべく鉄穴流しの制限を極力小さくし たい一方で、水害の発生や土木工事費用の増大もよしとはしない方針をもっていたにちが いない。そのような中、文政 6 年 8 月の『在方御定』22には「近来日野川下、別して鉄穴 砂夥しく流れ出で、川底高く相成り、出水の砌は御田地村々危急に付、種々御普請これ有 り候え共、只今の通りにてはその甲斐これ無きに付、鑪ならびに鉄穴場所取り調べ候処、

近来莫大の員数相増え候」とある。藩は、①鉄穴流しが河床上昇を招き、下流域における 水害の危険性を高めていること、②堤川除普請の強化による水害対策には限界があること、

③取り調べの結果、山内および鉄穴場が大幅に増加していることなどを指摘したのである。

そして、「村々難渋におよばざる様仕法相立て申すべく候」として、燃料となる「鉄山林」

の枯渇も懸念されるのでたたらの数を減らすこと、砂鉄は定められたたたらに納入するこ と、鉄穴場には「砂留」を設置し、下流に廃土を流出させないことなどを日野郡に義務づ けたのである。この仕法は、具体的な数量制限をもたないことからも伺えるように、日野 川流域全体における最初の鉄穴流し制限令といえる。

第4節 江戸時代後期における藩および流域住民の対応

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表3-2 江戸時代後期の水害状況と鳥取藩の治水対策・流域住民の対応

年月[太陰太陽歴] 被災状況と鳥取藩の治水対策および流域住民の対応など 出典 文政 6 年(1823)8 月

文政 7 年(1824)7 月 文政 8 年(1825)7 月

文政 9 年(1826)7 月

文政 12 年(1829)7 月

同 10 月

文政 13(1830)年閏 3 月 天保 4(1833)年 天保 13 年(1842)7 月 嘉永元年(1848)7 月 嘉永 3 年(1850)9 月 嘉永 5 年(1852)5 月 同 7・8 月

同 10 月

嘉永 6 年(1853)5 月 同 7 月

安政 5 年(1858)12 月

万延元年(1860)6 月

文久元年(1861)6 月 元治元年(1864)秋 慶応 4 年(1868)4 月

同 5 月 同 7 月

藩 流域全体にわたる最初の鉄穴流し制限令を出した(本文参照)。

鉄山経営者 住民 鉄山および日野郡は、鳥取藩による前年の鉄穴流し制限令に関して、

「川下御普請銀」を差し出すことで鉄穴場への砂留め設置の義務化を免除してほしいと嘆 願した。

鉄山経営者 日野郡内の経営者一同は、川下御普請銀の額を 20 貫目と決め、その半額を日 野郡内で稼業中の他国の経営者に負担させる決定をした。しかし、この費用負担に反対す る備中国阿賀郡太田正蔵は、日野郡大庄屋などを相手どり、大坂御奉行所へ直訴したいと 津山表の御役人に申し出た。

19 日に兼久土手が 3 ヵ所にわたって決壊し、宗像土手の 8 分目まで浸水した。宗像土手 の上に土俵を積み上げる一方、宗像土手の用水樋が損傷したため、3,000 個の土俵を使っ て漏水を防いだ。

高田、海池、今村、八幡などにおいて日野川が破堤したのに続き、18 日夜兼久土手も 30 間にわたって決壊し、宗像土手の 7 分目まで浸水した。19 日朝には 9 分目に達し、宗像 土手も決壊した。尚徳低地の浸水深は、1812 年の水害時より 4~5 尺も深かったとされる。

浸水地域ではそばを蒔いて急場を凌いだ。伯耆国の損亡高 99,100 石、川除の破損 13,800 間、土手破損 17,100 間など。米子町で流家 5 軒、半潰大破家 28 軒、崩家 693 軒、死者 27 人など。「丑大流」と呼ばれる大災害であった。

住民 被災した尚徳低地の宗像・日原・奥谷・石井の 4 ヵ村は、本来は年貢にはならない

「悪米」の上納を郡奉行に対して願い出ている。

藩 日野川筋の御普請にあたる出精人夫 5,000 人の派遣と、同慶寺土手の幅を 26 間に拡幅 する工事の実施を決めた。また、岸本村から壷瓶山方面への川筋を設けて日野川を分流す る「川替御普請」の実施を「御諭置」いた。

藩 米子城預かりの家老荒尾氏によって 2 年かけて行われた兼久堤防の改築が竣工した。

兼久土手が 3 ヵ所決壊したものの、宗像土手に人夫を派遣し、溢流水をくい止めた。しか し、尚徳低地は水没し、作物に大きな被害が出た。

住民 藩 米子城下の総町目代 18 人が、同慶寺土手の修築を求めた。藩は財政難を理由に これを認めなかった。

伯耆国の損亡高 66,000 石余り。同慶寺土手が 10 間にわたって切れ、法勝寺川河道に流水 が及んだ。

住民 米子城下総町の目代が 1830 年に決まっている同慶寺土手の修築がいまだなされて おらず、水害の発生が強く懸念されるので、同慶寺土手の修築を急いでほしいという願い を再度出した。

伯耆国の損亡高 52,000 石余り。同慶寺土手は決壊寸前の状況になった。

住民 同慶寺土手修築の 3 度目の願いを出した。その理由には、日野川の河床は年に 2~3 尺も上昇する荒れ川であり、土手の「上置」願いを毎年出さねばならない。その上、同慶 寺土手が決壊すれば、宗像土手は切り放し済なので米子町の「町中家蔵残らず流失、白河 原にも相成る」ことなどがあげられている。また、1830 年に計画された「川替御普請」

への早急な取組みも求められている。

住民 藩 水害頻発の原因を鉄穴流しによる河床上昇とみた会見郡が鉄穴流しの制限を求 めたものの、藩は「鉄穴稼ぎ専ら」の日野郡にその制限はできないとして応じなかった。

藩 住民 同慶寺土手の修築に 3 年がかりで取組むために、1830 年と同様の人夫賃 5,000 人分を米子町に負担させる決定をした。しかし、藩が拠出を求めた「杭木柴代」100 両に ついては、米子町は前例がないことを理由にその免除を願い出ている。

藩 藩は「二十日役」を廃止し、御普請に参加した 14~60 歳の男子に 1 日当たり 2 升 5 合の賃米を支給することにした。その財源確保のため、藩は「竃役米」と村高への「一歩 懸」を新たに課した。そして、土木工事全般に対する支出を年 200 貫目程度の「定額」に 抑え、小規模な工事については村方に費用を直接支出するよう求めた。

藩 日野郡諸締役鉄穴支配方兼帯の足羽助八が、日野川下流・車尾村付近が天井川となっ ていることから「日野郡中鉄穴稼方半減」を進言したものの、日野郡の不作を理由にこれ を受け入れなかった。

藩 河床上昇がいちじるしいため、試しに 1863 年春まで鉄穴場数を半減するよう命じた。

「奥日野郡」の「鉄穴口」数 350 口のうち、休業を命じられたものは全体の 3 割の 115 口 であった。

住民 米子町目代が、同慶寺土手の修築および放水路建設の願いを出した。その理由には、

鉄穴流しの廃土による河床上昇がいちじるしい日野川では、昨年から鉄穴稼ぎが減少し、

出水時に同慶寺土手の根石を穿つようになった。日野川では河床の上昇のみならず低下に よっても水害が懸念されること、破堤すれば兼久土手はひとたまりもなく、宗像土手も撤 去済なことなどがあげられている。

藩 奉行たちが同慶寺土手の見分を行い、1829 年の水害時より河床がいちじるしく上昇 し、危険であることを確認した。そして、米子町目代に土手の修築と放水路建設の願いを 出すよう命じた。

藩 同慶寺土手の修繕にあたり、のべ 20,957 人の人夫賃米 209.577 石と、杭・長木代 59.772 貫を要すると見積もって、米子町に 1,500 人分(のちに 2,500 人分に増額)を負担するよ う指示した。

③④

①②

②④

④⑥

②⑦

⑧⑨

⑩⑪

注:水害の被害状況に関するものには,年月に をつけてある。 は対応の主体者を示す。

出典:①本文の注 15)。②船越(1950)所収史料。③本文の注 14)所収史料。④鳥取県編(1971b 645-665)。⑤1896 年建立『兼久堤防修築碑』。⑥米子市役所編(1942)所収史料。⑦本文の注 25)1868 年 4 月分。⑧日野郡自治協会編

(1926a 1276-1285)所収史料。⑨鳥取県編(1971a 423-439)。⑩安藤(1992 202-207)。⑪影山(1991a)所収 史料。⑫安達(1990 82-111)。

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藩・上流域住民・下流域住民の 3 者が、鉄穴流しの稼業を水害の直接の原因として認定し ていたことを示している。

しかし、川下御普請銀の拠出は、その負担のあり方をめぐって大きな問題を生じさせた。

日野郡および鉄山経営者たちは、川下御普請銀として下流地域に 20 貫目を支払うことを決 め、その半額を郡内で稼業中の他国の鉄山経営者に負担させようとしたのである。その結 果、日野郡は山林および鉄穴流しに課せられる運上銀 10 匁につき銀 276 匁の費用を他国の 鉄山経営者に求めた。これに反対する備中国阿賀郡実さね村(現・岡山県新見市千屋実)の鉄 山経営者太田正蔵は、日野郡の大庄屋らを相手どり、津山藩に大坂奉行所へ直訴したいと 申し出た。鳥取藩と津山藩は、意見交換を重ね、津山において両者の熟談も行った。しか し、合意には至らず、正蔵は江戸の評定所へ出訴におよんだ(『諸事控』1825 年 10 月)。

評定所の下した判断の内容は不明である。しかし、文政 9 年 4 月以降、日野郡の有力鉄 山経営者たちが、太田家の山林や鉄穴場を購入すべく金策に奔走している(『諸事控』1826 年 4 月、1827 年 6 月、1829 年 7 月)。この訴訟後、正蔵は日野郡における鉄山経営から撤 退した模様である。そのような中、川下御普請銀の拠出は実現しないまま、同 9 年 7 月の 水害に続き、同 12 年 7 月の丑大流が発生したとみられる。

2.文政 12 年水害の復旧工事とその後の治水

⑴土手の修築と宗像土手の撤去

文政 13 年閏 3 月、兼久および宗像土手の復旧工事にあたり、藩は 5,000 人の出精人夫の 派遣を決めている。また、藩は同慶寺土手の幅を 26 間に拡幅することを決定し、さらに扇 頂の岸本付近からほぼ北流する放水路を新設しようとする「川替御普請」の実施について も検討した。

兼久土手の復旧工事は、天保 4 年(1833)に竣工した。しかし、先述したように、19 世 紀初頭の土木工事は、浚えた砂を土手に盛るといった方法で行われている。修築したとい っても、兼久土手をはじめとした当時の堤防の耐久性は低かったとみられる。実際、修築 済みの土手の踏み崩しを防ぐために、同年 8 月、藩は会見郡内の川魚漁を免札の所持者に 限るよう命じているような状況であった(『諸事控』1833 年 8 月)。したがって、藩およ び下流域の住民は、その後も土手の修築に腐心しなければならなかった。

兼久土手は同 13 年にも決壊し、宗像土手が米子町の被災を防いでいる。この水害による 被災状況や復旧工事については、史料を欠くために判然とはしない。ところが、同 15 年に は宗像土手の一部が撤去されている(船越 1950)。米子町中心部の水禍を幾度となく防い

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