• 検索結果がありません。

第5章 山内の立地とたたら製鉄への従事状況

第1節 山内の立地展開

117

第Ⅲ部 たたら製鉄による山地開発の諸相

118

当時稼業中のたたらや大鍛冶のすべてを網羅したものとはいえない。しかし、個々の山内 について、たたら・大鍛冶併設、たたら単独、大鍛冶単独の 3 タイプ別に把握することが でき3、山内の立地状況に関する概要がつかめる。

寛政 3 年と文化 4 年の「勧進帳」から把握できるたたら製鉄の稼業国は、伯耆・出雲・

石見・安芸・備後・備中・美作・播磨の 8 ヵ国(図5-1)である。ただし、18~19 世紀 には但馬国や因幡国、長門国においてもたたら製鉄が稼業されたので4、中国山地における たたら製鉄の稼業国は 11 ヵ国となる。

つぎに「勧進帳」に記載されている山内を流域別に集計した表5-1によって、山内の 立地展開をみると、たたら・大鍛冶併設およびたたら単独の山内は、伯耆国日野川流域や 出雲国の斐伊川・神戸川流域、石見国江の川流域、備後国の江の川水系西城川流域と高梁 川水系成羽(東城)川流域、備中国高梁川流域、美作国旭川流域などに多く立地している ことがわかる。安芸国の江の川水系可愛川流域と太田川流域では、たたらの数に反して、

大鍛冶が多く分布している。これは、太田川流域では 17 世紀前半以降鉄穴流しの稼業が禁 止され続けたため、安芸国の製鉄業の中心が石見国から搬送した銑鉄の加工にあったこと と深く関わっている。したがって、たたら製鉄の核心的な稼業地域は、山陰地方の日野川 上・中流域、出雲国の諸河川上流域、江の川中・下流域と、山陽地方の江の川上流域、高 梁川上流域などといった中国山地中央部であることが再確認できた。一方、天神川流域と 吉井川上流域より東側の中国山地東部では、山内の立地はわずかである。

以上のような山内の立地について、大鍛冶はたたらの立地に強く規定されるので、以下 の検討は原則としてたたらについてのみ扱う。まず、稼業年数についてみると、寛政 3 年 と文化 4 年の 16 年間において同一地点に同じ名称のたたらが確認できるのは、石見国に 12 ヵ所、出雲国に 6 ヵ所、安芸国と美作国に 1 ヵ所ずつの計 19 ヵ所に限られる。両年の

「勧進帳」に記載されているたたらの実数は計 188 ヵ所であることからすると、当時のた たらの多くは周辺の木炭林を伐り尽くすなどのために、短い年数で頻繁に移動していたと みなせる。そして、寛政 3 年から文化 4 年まで稼業されたとみられるたたらのうち、石見 国のたたらの多くは江の川下流と日本海沿岸に立地している。この要因については角田

(2014 168)がすでに指摘しているように、これらのたたらが舟運によって遠隔地から木 炭と砂鉄を確保していたことによるとみられる。そして、出雲国に稼業年数の長いたたら

3 ただし、「鍛冶(屋)」などと記載されている山内の一部には、たたらや小鍛冶もふくまれているとみられる。

4 たとえば、浜坂町史編集委員会編(1967 522-608)、若桜町編(1982)『若桜町誌』同役場 598-599、鳥羽(2002 247-262)、

山口県教育委員会編(1981)などによって、その状況の一部を知ることができる。

119

図5-1 寛政 3 年・文化 4 年の中国地方におけるたたらの分布

[資料:寛政 3 年・文化 4 年「勧進帳」、(鉄の道文化圏推進協議会編 2004 所収)]

120

表5-1 流域別のたたら・鍛冶屋数

寛政 3 年 文化 4 年

流 域

国 名

た た ら

・ 大 鍛 冶 併 設

た たら 単独

鍛 冶屋 単独

た た ら

・ 大 鍛 冶 併 設

た たら 単独

鍛 冶屋 単独

天神川 伯 耆

2 1 2 1 3 日野川 15 2 14 7 4 9 伯太川

出 雲

3 5

飯梨川 1 2 9 1 1 10 斐伊川 4 7 9 2 6 15 神戸川 1 5 1 2 5 3 江の川

石見 10 13 12 5 31 20 安芸 2 7 1 11 備後 3 2 1 9 5

高津川 石見 1 1

太田川 安芸 2 7 1 5 高梁川 備後 1 5 12 3 6 備中 4 1 7 5 1 旭川 美

2 1 1 6 2

吉井川 2 3

千種川 播 磨

1 1

揖保川 1 1

海岸 6 4

その他 4 2 8 3 3 7 所在不明 3 3 3 1 4 17 計 49 54 98 43 72 119

分類不能 7 11

注:鍛冶屋単独には、小鍛冶と、たたら・大鍛冶併設をふく むものが若干あるとみられる。

[資料:鉄の道文化圏推進協議会編(2004)]

121

が多くみられる要因は、松江藩が享保 11 年(1726)から「鉄方御法式」を採用し、鉄山経 営者とたたらの稼業数を限定した点が関わっていると推察される。

上述のたたらの立地状況は、既存の研究成果などからみて、19 世紀中頃まで継続したと 考えられる。しかし、たたら製鉄が急速に衰退する 19 世紀末期以降、その立地状況は激変 する。前述の「鉱山係清浄簿」と『工場通覧』によると、江戸後期にたたら製鉄の核心的 な稼業地域であった中国山地中央部、とくに日野川上・中流域と、斐伊川上流域では、明 治時代後期においても一定数のたたらの稼業が確認できる(図5-2)。加地(2001)は、

明治 30 年代以降も日野川上・中流域と斐伊川上流域においてたたら製鉄が継続した要因と して、これらの地域が兵器用特殊鋼の原料となる鋼と錬鉄の生産に傾斜した点を指摘して いる。

一方、美作国や備中国、石見国などのたたらは、20 世紀初頭までに急速に減少したとみ られる5。広島県内では、明治 37 年(1904)に官営広島鉱山が廃止された後、たたらの立 地数が急速に減少した。つまり、これまでも指摘されているように、近世から近代にかけ てのたたら製鉄では、核心的な生産地であった中国山地中央部では明治後期においても稼 業が継続した一方で、その周縁地域といえる中国山地東部ではその衰退が早かったのであ る。

2.美作国における山内の立地

それでは、たたら製鉄の衰退が早かった美作国をとりあげ、その立地に関する具体的な 検討を行ってみたい。宗森(1963・1986)や小谷(1996)、各自治体刊行の町村史誌類な どによると、1830 年代以降におけるたたらの立地状況は比較的よく判明する6。そこで、

10 年ごとのたたらの立地状況について、近世の主要な鉄製錬遺跡とともに、

図5-3に示

した。あわせて、この図には砂鉄採取に最適とされる花崗閃緑岩と、砂鉄採取の対象とな りうる花崗岩の分布も示した。この図によって、つぎの 3 点の特徴を見出すことができる。

第 1 に、たたらの稼業地点は、蒜山原をのぞく旭川水系と、吉井川水系の吉井川上流域 および同水系の加茂川流域に集中している。これらのたたらの集中地域は花崗岩類の分布 域とみごとに重なっており、改めてたたらの立地要因としての砂鉄採取地の重要性がうか

5 第8章で検討する岡山県苫田郡上齋原村遠藤の栄金山は、明治中期から大正 8 年まで稼業されていた。しかし、栄金山 は、「鉱山係清浄簿」と『工場通覧』には記載されていない。その理由は、明治末期の栄金山は雲伯鉄鋼合資会社の 傘下に入っていたことによるものと考えられる。

6 美作国の鉄山経営は、旭川流域をおもな稼業地域とした徳山家などをのぞくと、勝山や久世、津山など稼業地域外の商 人によって断続的に行われることが多かった。そのため、たたら製鉄の稼業を記す史料にとぼしく、19 世紀初頭以前 の状況については判然としない部分が多い。

122

図5-2 明治後期~大正期の中国地方におけるたたらの分布

注:本文の注 2)を参照のこと。

[資料:角田(2012)、『工場通覧』明治 37・40・42 年、大正 8・9 年分など]

123

図5-3 19 世紀中・後期の美作国におけるたたらの分布

注:製錬場のみを図示し、大鍛冶単独の山内をふくまない。製錬遺跡の分布は、国・県指定文化財を中心としている。

[資料:各町村史・誌類、宗森(1963・1986)、小谷(1996)、おかやま全県統合型GIS、20 万分の 1 日本シーム レス地質図など。]

124

がえる。そして、「勧進帳」に記載されたたたらが 6 ヵ所にすぎなかった旭川流域では、

19 世紀中期には多数のたたらの立地が確認できる。これは、勝山藩の藩営鉄山政策の下で の大庭郡上徳山村(現・真庭市蒜山上徳山)徳山家による活発な鉄生産に加え、新庄川流 域を中心に、嘉永 6~明治 20 年(1853~1887)まで、隣接する伯耆国日野郡の近藤家が進 出したことによるところが大きい(影山 2005)。この時期に近藤家が日野郡外へ進出した 要因のひとつには、第3章でみたように、幕末の日野郡における木炭林の不足が関わって いると推察される。花崗岩類の分布に恵まれていない新庄川上流域では、木炭林の確保が 比較的容易であったと推察される。

さらに、「勧進帳」に記載されたたたらは、吉井川上流域では 2 ヵ所、加茂川流域と吉 野川源流部では 1 ヵ所ずつにすぎなかった。しかし、19 世紀中期の吉井川上流域では、多 数のたたらが確認できる。これは、前章で検討したように、文化 9 年(1812)以降当流域 が津山藩の支配を受けるようになり、文政 3 年(1820)に鉄穴流しが再開され、その後津 山藩が積極的な産鉄政策を行ったことによるところが大きいと考えられる。

第 2 に、

図5-3に示した山内のうち、稼業年代の判明していないものの多くが 17 世紀

以降 19 世紀初頭までの鉄の製錬場とみられることから、たたらは 19 世紀前期までに脊梁 山地付近に立地移動する傾向を示したといえる。とくに近世前期までの加茂川流域では、

花崗閃緑岩の分布域を中心に、砂鉄製錬が活発に行われていたとみられる。たたらの脊梁 山地部への立地移動が近世後期に生じたとする報告は、山陰地方ではなされていない。し かし、近世末期におけるたたらの脊梁山地部への立地移動については、すでに山口(1988 5-11)が播磨国千草川上流域と安芸国太田川上流域を事例としてその実態を示し、その主 因を木炭林の確保に求めている。したがって、近世末期におけるたたらの脊梁山地部への 立地移動は、山陽地方の広範囲にわたってみられた現象と考えられる。

ところで、美作国の 19 世紀初頭までにおけるたたらの脊梁山地部への立地移動は、前章 でみた吉井川上流域の事例でみるかぎり、濁水紛争にともなう鉄穴流しの稼業制限が深く 関与しているとみられる。吉井川上流域のたたらは、村方救済のため、鉄穴流しが優先的 に稼業された脊梁山地付近への立地を志向したと考えられる。さらに、加茂川流域では、

18 世紀中頃から 19 世紀初頭までの断続的なたたらの稼業を示す記録はあるものの、その 後に稼業されたという記録はない。その上、文政 10 年(1827)の和知・阿波・宇野・倉見 の 4 ヵ村(現・津山市加茂町)における鉄穴流しの稼業願いにしても認可された形跡がな い(加茂町編 1975 357-358)。幕府領であった吉野川源流部においても、18 世紀初頭に

関連したドキュメント