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第3章 日野川流域の鉄穴流しにともなう水害と対応

第1節 研究の目的と対象地域の概観

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第4章 吉井川上流域における鉄穴流しと濁水紛争

前章でみた日野川流域は、鉄穴流しを稼業した上流域と水害を受けた下流域とが、とも に江戸期を通じて鳥取藩領であった。そのため、濁水紛争の調停役として藩が重要な役割 を果たした。しかし、本章でとりあげる吉井川上流域では、鉄穴稼ぎ村のある上流域にお いて支配替えがくり返された。その上、中流域には津山藩が、下流には岡山藩がそれぞれ 位置していた。そのため、濁水紛争の処理には複数の藩や江戸幕府が関与したのである。

たたら製鉄のもたらす経済的恩恵を受ける地域と、濁水鉱害を受ける地域の支配関係が異 なれば、本章において確認できるように、鉄穴流しはよりきびしい稼業制限を受けること になる。

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図4-1 吉井川上流域の接峯面

点線は流域区分を示す。 [5 万分の 1 地形図をもとに、幅 1km の谷を埋めて作成。]

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地域より下流の津山盆地以南において確認できる。また、これら 3 段の小起伏面とは別に、

当流域では標高 800m 付近に比較的広い面積を有する小起伏面も認められる。なお、高位小 起伏面と標高 800m 前後の小起伏面は、凹地状の地形面を広く発達させている。一方、鉄穴 流しの対象となりうる花崗岩類は、奥津地区の箱より上流の吉井川流域と、香々美川源流 部に分布する(図4-2)。これらの花崗岩類のうち、北部には黒雲母花崗岩が、南部と三 十人ヶ仙西麓には花崗閃緑岩がそれぞれ広くみられる。

当流域に位置する 57 の近世村は、元禄 11 年(1698)にすべて津山藩領となった(以下、

村名はすべて近世村を示す。)。そして、享保 11 年(1726)の津山藩減知後も、当流域南東 部の 19 ヵ村は、その下流の現・津山市域の村々とともに津山藩領であった。しかし、吉井 川西岸と東岸の入いり村上分より上流などに位置する 38 ヵ村は、この減知にともなって幕府 領となり1、代官の支配を受けることになった。そして、鉄穴稼ぎ村をふくむこれらの村々 は、延享 2 年~宝暦 6 年(1745~1756)には鳥取藩預地、明和元年(1764)~同 3 年には 播磨国三日月藩領となっている。そして、天明 7 年~寛政 11 年(1787~1799)には下流部 の 12 ヵ村と最上流部の上齋原・下齋原村が下総国佐倉藩領になるなど、複雑な支配関係を みせた。さらに、上述の 38 ヵ村は、文化 9 年(1812)から津山藩預地、同 15 年からは津 山藩領、天保 9 年(1838)からはふたたび津山藩預地となって明治を迎えている。

たたら製鉄と鉄穴流しの稼業状況をみると、享保 10 年(1725)編の地誌書『作州記』2に は、元禄 10 年(1697)におけるたたらの所在地として上齋原村と羽出村が記録されている。

これ以降、第5章において詳述するように、上齋原村の人形仙・木路・池 河いけのこう・中津河な か つ こ う・ 豊ケ谷・遠藤・杉小屋や、養野、至孝野し こ う の、奥津、下齋原、羽出、越畑といった村々など、

当流域の広い範囲にわたる山内の立地が確認できる(図4-3)。

鉄穴流しの稼業が史・資料によって確認される鉄穴稼ぎ村は、上齋原、下齋原、奥津川 西、長藤ながとう、奥津、羽出、養野、至孝野、西屋、井坂、箱、杉の 12 ヵ村におよぶ。鉄穴場 の数について確認できる史・資料は非常に少ないものの、後述するように、たとえば元文 4~寛保 2 年(1739~1742)にかけて、下齋原村のみつこ原山には 3 ヵ所、上齋原村のとい が谷山には 4 ヵ所の鉄穴場から砂鉄が供給されている。文化元年(1804)にも 7 ヵ所の鉄 穴場が確認できるものの、近世末期には、濁水紛争のためにその数はわずか 2 ヵ所程度に 限定されていた。そして、明治 7 年(1874)には、上齋原、箱、長藤の 3 ヵ村で計 5 ヵ所

1 入村は上分が幕府領、下分が津山藩領となったため、2 つの近世村として計算している。

2 津田重倫(1725)『作州記』、(吉備群書集成刊行会編 1921 『吉備群書集成第1輯地誌部上』同会 47)

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図4-2 吉井川上流域における花崗岩類の分布

[笹田ほか(1979)より作成]

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図4-3 吉井川上流域におけるたたら製鉄と鉄穴流しの稼業状況

[各種史・資料より作成]

94 の鉄穴場が確認できる。

第2節 地形・地質条件よりみた鉄穴流し稼業地点の分布

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